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第24話 残雪③
おれの意識が戻ったと聞いて、赤石が一番乗りでやってきた。朝から暇すぎて死にそうだったらしい。杉本と赤石は病室の外で内緒話をした後、赤石一人で戻ってきた。杉本は廊下で休んでいるという。赤石は至って通常運転、にこやかに手を振った。
「久しぶりぃ。元気そうだね」
「そう見えるか? 包帯とギプスだらけなのによ」
「でも顔色はいいじゃない」
赤石は白封筒に包んだ見舞金をベッド脇のテーブルに置く。いらないと言うと、いいからもらってよと言う。金に加えて、病院の売店で買ったらしい菓子やらジュースやら雑誌やらも並べていく。
「悪いな、気ィ使わせて」
「いいって。これくらいさせてよ。オレ、何もできなかったからさ。全部杉本が一人でやっちゃったから、オレの見せ場が全然なかったのよね」
「見せ場なんて、なくたって構わねぇじゃねぇか」
「そうだけどさ」
赤石は少々緊張した面持ちでおれの表情を窺うような仕草をした。赤石は杉本からどこまでの話を聞いているのだろう。おれが自らの意思でベランダの手摺りに立ったことは知っているのだろうか。
「杉本とはうまくいってるの?」
お、話題を変えてきた。
「うまくって、どういう意味だよ」
「そのまんま」
以前、おれが杉本にしこたま殴られた時のことを知っているから、変な心配をしているのだろうか。
「……今のあいつを見てりゃわかんだろ。献身的に尽くしてくれてるぜ」
「悠絃ちゃん自身はどう思ってんのよ」
「さァな。杉本に聞いてみな」
「またそうやってはぐらかして」
いつもと変わらないねと、赤石は安心したように笑う。それからいくらか雑談をした。主に杉本についてだ。おれが眠っていた間の杉本の様子をコミカルに語ってくれた。
右手が使えないから飯を食うにも靴紐を結ぶにも苦労しているとか、果てはトイレの時に狙いを定められずにあちこちまき散らしてしまうとか、どこまで本当かわからない話を、赤石はなるべく明るく語ってくれた。
三十分ほど経って、杉本がまぶたを擦りながら病室に戻ってきた。ソファでうとうとしてしまったらしい。こうして見ると、杉本の顔色はあまり良くない。四日前よりもやつれているし、確実に体力を消耗しているようだった。おれは杉本に、赤石と一緒に帰るよう促した。
「えぇ? 俺まだ大丈夫だよ。この後暇だし。バイトもないし」
「いいから帰れよ。疲れてんだろ」
「そうだよ、杉本。最近ちゃんとお風呂入ってないでしょ」
「い、一応入ってるわ!」
渋る杉本を赤石も説得する。
「ずっと居てくれなくても平気だぜ。ガキじゃあるまいし。いいから家帰ってゆっくり休め」
「そんなに言うなら帰るけど、寂しくなったらいつでも電話してきていいんだからな」
「わかったわかった」
追っ払うようにして帰らせた。さっきまでの喧騒が嘘みたいに、病室はしんと静まり返る。おれはわずかに嘆息した。なんだか疲れた。目覚めてから延々誰かと喋っていた気がする。独りになるのは久しぶりだった。
赤石が帰りがけに言っていた「二人のこと信じてるからね」という言葉を、ぼんやりと天井を見ながら反芻していたら、再度間仕切りカーテンが開いた。言っておくがマナー違反である。カーテンを開ける前に一言声掛けをするべきだ。
「桐葉!」
現れたのはセーラー服姿の少女である。洒落た臙脂色のセーターなんか着ている。
「亜夜子か。久しぶり」
「ひ、久しぶり……だと……」
うつむきがちで目元に影が落ち、握り拳がわなわなと震えている。
「おい、怒ってるのか」
「おこ……怒ってるわけ……ないだろう」
「心配かけて悪かったよ。反省してるから、な」
「本当か……?」
「本当だ。だからそう怒るなよ」
がばりと、やっと顔を上げた。睫毛は涙で濡れていたが、しかし勇ましい面差しである。眉も目尻もつり上がって、眉間には皺が寄っていた。口は真一文字に結んでいる。
「怒ってるわけじゃないのか」
「いや、怒ってるぞ。お前、私がどれだけ心配したか知らないな?」
「知らん。杉本はあまり話さなかった」
亜夜子はとりあえずパイプ椅子に座り、荷物を置いた。色々と見舞いの品を持ってきたらしい。最初に出てきたのは瓶詰めキャンディである。丸い小瓶にカラフルな飴玉が詰まっているレトロなもの。
「飴が好きでよく舐めてるって杉本が言ってたから」
お次はこれまた瓶詰めの……花らしい。細長い瓶の中に瑞々しい花が浮遊している。
「ハーバリウムというんだ。油にドライフラワーを浸して作る。生花はよくないと聞いたから」
「へぇ。綺麗だな」
窓辺に飾ると太陽光を反射して幻想的な光を発した。どちらも、女子高校生が一所懸命に考えて選んだ品という感じがして初々しい。三つ目は大きな箱だ。蓋を開けるとタオルが詰まっていた。
「これは祖母が持っていけと言うんで持ってきた。新品だから安心して使ってくれ。ふわふわで気持ちいいぞ」
「そうか、ありがたい。タオルは入り用なんだ」
亜夜子は満足げに笑ったが、すぐにまた勇ましい面差しに戻る。
「桐葉。私と約束してほしいんだ」
黙って聞いていると、もう一度念を押すように言った。
「約束してくれないか」
「……わかったから、その先を言え」
「杉本を悲しませないでやってくれ」
その瞳は真剣そのものだ。
「驚いたな」
「変なことを言ったつもりはない」
「いや、おれはてっきり、杉本をくれと言い出すのかと思っていたから」
そのくらいマジの雰囲気だった。
「……なんだ、それは」
亜夜子は訝るように顔をしかめる。
「そんなこと言うわけないだろう。私はお前と杉本のこと応援してるんだぞ」
「だけどお前、杉本のこと好きだったろう」
「それは……」
ぽっと頬を赤らめ、途端に歯切れが悪くなる。
「そ、そんなのは、大昔の話だ。今は良い友人として接しているし、これからもそうだ」
暑くなったらしく、セーターを脱ぐ。
「全く、何を言い出すかと思えば」
「好きだったのは本当なんだろ」
亜夜子はやれやれといった風に溜め息をつく。
「隠し事はできないな。この際だから正直に言うが、私の初恋はたぶん杉本だ。たぶん一目惚れだった」
「やっぱりな。あいつ、無駄に顔がいいから」
浅黒い肌と鍛えられた筋肉に滴る汗が似合う男だ。野性的で精悍な面立ちのわりに笑顔は爽やかで、そのギャップにやられる。
「あとは、私は杉本の髪も好きだぞ。本人は癖っ毛だからって気にしてるけど、そこがかわいいと思う」
「あー、わかる。あのモフモフがいいんだよな」
これは何トークなのだ。女子トークか? おれは女子ではないが。何となく手持ち無沙汰で、さっき赤石が置いていった菓子を勧めた。亜夜子はポッキーの箱を豪快に開け、ぽりぽりと音を立てて食べ始める。
「その頃私は中学生で……ありがちだろう? 無条件で年上の男に惹かれるお年頃だったんだ。杉本はちょっぴり女癖が悪かったが、私に対しては誠実であろうとした。そこがまた良かったんだろうが、杉本は決して私をそういう目で見ないと気づいた」
「どうして? お前、髪切ればあいつの好みドンピシャだと思うぜ」
「あいつの好みって、それはお前のことだろう」
全てを見透かしたような苦々しい笑みを浮かべる。
「わかってる。でも私は、あえて髪を伸ばしたんだ。誰かの代わりなんて真っ平ごめんだし、私は私を好きになってもらいたかった。しかしまぁ、結果はわかるな? 杉本にとって私はいつまで経っても、近所に住んでる年下の女の子でしかない。そのうち私も、これはこれで心地良い距離感だと感じるようになった」
やたらと大人びた少女だが、菓子を食べる手だけは止まらない。
「話が逸れたな。ただの昔話だ。今は本当に、純粋に友達としか思ってないからな。勘違いしないでくれ」
「お前はそれでいいのか」
「いいんだ。これがいいんだ。それに、言っただろう。私はお前と杉本のことを応援してるんだ。これは本心だ」
「よくわからんな。お前と杉本の立場が逆だったら、杉本はおれを殺してでもお前を略奪するだろうに」
「桐葉お前、杉本のことそんな風に思ってたのか……」
また話が逸れた。
「これは私が感じただけの話で本当のところどうなのかはわからないんだが」
そう前置きして亜夜子は続ける。
「お前と会って杉本は変わった。昔はな、もっと生気のない目をしてたんだ。感情表現は豊かな方なのに、目だけはいつも遠くを見てるんだ。でもお前が現れてから急に生き生きし始めた。死んだ魚の目だなんて揶揄するやつはもう誰もいないだろう」
いまいちぴんと来ない。
「ぴんと来ないかもしれないが、それは杉本が桐葉の前ではいつも生き生きしてるからだ。逆に言えばお前は、死んだ目をした杉本を知らないんだ。だから――」
順調に食べ進めていたポッキーが無くなったらしい。すぐさま二袋目を開ける。
「だから私は、杉本の運命の相手は桐葉なんだと思っている」
「馬鹿馬鹿しいことを言うな。たまたまだろ」
「まぁそうかもしれないが、運命って単語はお前たちにぴったりだと思わないか。一回離れ離れになったのに九年も経って地元を離れた場所で偶然再会するなんて、とっても運命的じゃないか。もしかしたら前世で深い因縁があるのかも、とか。ないか」
含みを持たせた言い方に焦れて、結局何が言いたいんだと促した。
「作り上げた関係を大事にしてほしいんだ。杉本のことも、もちろんお前自身のことも大事にしてほしい。私のためだと思って。頼む」
「どうしてお前のためになるんだ」
亜夜子はふと閉口し言い淀んだ後、もじもじと照れくさそうにしながら、好きだからだと言った。
「杉本のこともお前のことも、私は大切に思ってるんだ。大切な友人が傷付くのは誰だって辛いものだ」
こんなこと言うつもりじゃなかったのにとぼやきつつ、苛立ちを隠すように顔を覆う。
「そうか、ありがとう」
「いきなり素直になるな! 余計恥ずかしい」
頭の一つでも撫でてやりたいところだが、肩が痛いのでやめる。その後、赤石の菓子を半分以上食い散らかして亜夜子は去った。
おれが亜夜子と息が合うのは、杉本に対する気持ちが似ているからなのかもしれない。でもおれは、亜夜子の知らない杉本の本質を知っている。あいつは時々手の施しようがないほど凶暴になるが、そのことを亜夜子は知らないだろう。――なんて、優越感に浸るのは大人げないな。
それから、亜夜子は夜の雰囲気を纏っていない。性を連想させる匂いがしない。こんな言い方をすると犯罪者じみているが、しかしおれにとっては重要なポイントである。
香水か白粉かわからないが、あの独特の匂いがどうしても生理的に受け付けない。しかしほとんどの女にはその匂いが染み付いていて取れない。だから女全般が苦手なのだ。煌びやかに着飾り、髪を巻き、酒を飲み、煙草なんか吸っていたら、個人的には数え役満である。
亜夜子は夜の蝶々とは無縁の女だ。春の麗らかな陽射しが似合う、清澄な世界で生きているのだろう。そういうわけで、おれとしては珍しく、亜夜子には気を許している。しかしこれもいつまで続くかわからない。もしも化粧を覚えてしまったら今のようには付き合えなくなるかもしれないと思うと、無性に切なくなった。
翌日からリハビリが始まった。歩く練習は骨が折れたが、徐々に通常通りの生活ができるようになっていった。点滴でなく固形物が食べられるようになったし、トイレにも自力で立てるようになった。杉本はまだ腕を吊っているがもう仕事に復帰したらしく、昼間しか顔を見せないようになった。
そんな折である。職場の上司が見舞いに来た。
「すいません、ご迷惑をお掛けして」
今井さんは至極真面目な会社員だ。おれとしても仕事のこと以外話すことがないので、話題は自然とそっち方面ばかりになる。
「ああ。やはり人手が足りん」
「っても、そろそろ新入社員が入るでしょう」
「忘れたのか。我々にとっての戦争は三月だ」
「はは、そうでしたね。それまでに退院できるといいんですが」
「お前がいないと心許なくて困る。早く帰ってきてくれ」
仕事は好きでも嫌いでもないが、誰かに必要とされるというのは悪い気分じゃない。今井さんは尊敬できる良い上司だと思うし、職場には恵まれた方かもしれない。
「ところで、あそこからずっとこっちを見てるのは誰だ」
「気にしないでください。おれの犬です」
杉本だ。杉本も面会に来ていたからちょうど鉢合わせた。病室で大人しく待っていろと言ったのに、廊下の陰から談話室の様子を窺っている。
「お前はまたそういうつまらん冗談を」
「犬ではないですが似たようなもんです」
今井さんは苦笑する。
「なんだ、思ったよりも普通だな」
「ただの骨折ですからね」
「しばらく意識が戻らなかったそうじゃないか。死ぬかもしれんと思って気が気じゃなかったぞ」
「もし死んだ時は葬式来てくださいね。香典もいっぱい包んでください」
「だから馬鹿な冗談はよせ。お前は生きてるじゃないか」
今井さんは杉本の方を見やる。おれも振り向くと、杉本はさっと顔を背けた。
「あの彼……杉本さんと言ったな。月曜の朝、会社から電話を掛けたら杉本さんが出てな。気が動転した様子だったが、必要なことはちゃんと伝えてくれたから助かった」
「あいつだっていい大人だし、それくらい当たり前にできますよ」
「ああ、いや……頼れる友人がいて良かったなと思っただけだ。お前は、何と言うか、一匹狼みたいなとこがあるからな」
今井さんは口角をほんの少し上げて微笑した。年の離れた弟を見守る兄のような穏やかな目付きである。
「そんな格好いいもんじゃないですよ。おれはただ、人間関係ってやつが苦手なだけです。会社に馴染むのも苦労したし……」
「そのお前が付き合えてるってことは、杉本さんとは余程波長が合うんだろう。会社の同期にだって誕生日プレゼントを贈ったことがなかったお前がまさかあんなに悩んで――」
「それは言わんでくださいよ。杉本にも絶対言っちゃだめですからね」
あの時、おれは今井さんに頼んで買い物に付き合ってもらったわけではない。何か良いものはないかと駅ビルを徘徊していたところ、偶然出会ったのだ。せっかくだから見繕ってもらおうということになり、一緒に色々な店を回って良さげな品を探して、ちょうど買い物を終えたところで偶然杉本に出会ってしまったわけだ。
財布を選んだのもたまたまだ。陳列してあるものを目にした時に、そういえば今使っている財布はぼろぼろだったなと気づいた。適当な値段のブランド品で、今井さんが言うにはプレゼントにもぴったりだそうだから、あれに決めたのだ。おれが選んだ財布を、杉本は大切に使っている。
今井さんは今日、個人的な付き合いとして来てくれたらしいが、赤石が持ってきたのと似たような白封筒に見舞金を包んでくれていた。一旦遠慮したが、退院したら美味いものでも食えと言うので、ありがたく受け取った。杉本にも軽く挨拶をして、今井さんは病院を去った。
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