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1 プロローグ

 はじめまして。アシスタントのマイケルくんです。  崎先生のお話の、ナレーションをするよ。  眩しい朝。  ギリシャの最高峰オリンポスの山頂に、白く広大な神殿がある。そこは、神々の住まう聖地である。  その一室にある天蓋つきの大きなベッドで、一人の少年が眠っている。十三歳くらいで、輝く金の髪にさらさらの白い肌、長い睫毛は誘うようにカールしており、閉じても大きいことが分かる目の上に、二重目蓋のあとがある。眠っていても美少年であった。  部屋の中央には白くて丸いテーブルがあり、その上には、一輪の赤い百合のような花を挿した花瓶と、盆のような石の円盤が置かれている。  陽光が少年の顔を撫でる。  ふと、少年の目蓋が震えた。 「んん・・・・・」  細い身体がしなやかに動く。毛布から薄手の服が覗く。 「あ・・・・・」  とろんと、澄んだ青い瞳が現れた。ぼんやりと天蓋を眺める。  見知らぬ部屋である。  なぜここにいるのだろう。意識がなくなる前、自分は確か・・・・・。  不意に、誰かが少年の手をにぎった。  少年はそちらを見る。  青年と目が合った。自分と同じ金の髪、白い肌、青い瞳。神のように美しい青年である。後ろには、黒衣を纏った女が控えている。  少年ははっと上体を起こした。胸もとに毛布をつかみ、目を見開き、主に青年を見つめる。 「あ・・、ア・・・・・」  顔が赤くなってゆく。  すると、青年が太陽のように優しく微笑み、少年に言った。 「お帰り。ヒュアキントス」  その声に導かれ、ようやく少年も、相手の名を口にした。 「アポロン様・・・・・」 ―――――「あの方が、アポロン様よ」  黒い服の母が教えてくれた。  あれは、幼い日の記憶。 「アポロンさま・・・・・」  僕はめいっぱい顔を上げ、母が見ているのと同じものを見た。  それは白い彫刻。動かないし、白い神殿の中にある。本来なら、目立たないはずのものだった。  でも、輝いていた。 「あなたはこれから、この方を崇めるのよ」  母が教え諭す。  あがめる・・・・・  崇めなければいけないの?  愛しては、いけないの?――――― 「僕、死んだのかと思ってました」  ヒュアキントスはベッドに座り、冗談っぽく笑った。 「スパルタの丘で、アポロン様と円盤投げをして遊んでいて、アポロン様の投げた円盤が頭に当たって・・・・・」  記憶をたどりかけて、あっと口を噤んだ。アポロンを責めているように聞こえてしまう。 「あの。助けてくださって、ありがとうございました」  慌てて頭を下げる。  アポロンは苦笑した。 「いや。当然のことだ」  彼はベッドの横でひざまずいている。女はその後ろに立っている。  ひざまずかれているのが気恥ずかしくて、ヒュアキントスは目を逸らすように、部屋を見回した。 「ここ、神殿ですか?」  柱や家具などの、彫刻の繊細さから感じ取れる。 「ああ。オリンポスの神殿だ」  アポロンが答える。  ヒュアキントスはゆっくりと彼に目を戻し、 「本当に、太陽神のアポロン様だったのですか?」  その目が輝いているのは、光のせいだけではないかもしれない。  アポロンは微笑んだまま、首を傾げる。 「あっ、ごめんなさい。まさか、自分の知り合いが神様だなんて・・・・・」  ヒュアキントスはあたふたする。 「ほら。有名な神様は、名前を真似されることがあるでしょう。だからアポロン様もそうだと思って・・・・・」  失礼のない言葉を、懸命に考える。  アポロンはくすりと笑った。 「いいんだ。僕も、名前しか教えなかった」  ヒュアキントスはほっとする。それから女に目を向ける。 「お母さま・・・・・」  なぜここに?  女は静かに微笑み、 「“クレイオ”は、ムーサ(芸術の女神たち)のひとりよ」  ヒュアキントスはえっと、その女―――――母クレイオを見つめる。  ムーサは全員で九柱いる。叙事詩のカリオペ、抒情詩のエウテルペ、喜劇のタレイア、悲劇のメルポメネ、合唱のテルプシコラ、独唱のエラトー、讃歌のポリュムニア、天文のウラニア、そして歴史を司るクレイオ。  こちらも、名前が同じなだけではなかったのだ。 「今まで内緒にしてたんですか?」  ヒュアキントスの問いに、クレイオは困ったような笑みになり、 「普通はそうするものなの」  だからアポロンも・・・・・ちょっと寂しいな。  この世界では、神と人が共存している。英雄の話にはよく神が現れ、人を助けたりする。なので、神がいること自体には驚かない。自分の前に現れたことに驚くのである。  でも、初めてアポロンと出会ったとき、感じたかもしれない。自分にとって、彼がアポロンなのだと。  ヒュアキントスはふと思った。 「お母さまが神様ってことは、もしかして僕も・・・・・」  するとクレイオは、 「あなたは、お父さまが人間だから、今は人間よ」  ヒュアキントスは安心した。 「なあんだ」  安心なような、残念なような。  アポロンが口を開いた。 「ヒュアキントス。君の怪我はもう治っているけれど、まだここで養生するといい」  ヒュアキントスはぶんぶんとかぶりを振る。 「これ以上、迷惑をかけられません。スパルタに帰ります」  これ以上、優しくされてしまったら・・・・・。  しかしクレイオが、 「ヒュアキントス。いさせてもらいなさい」  静かだが、逆らえない声である。  ヒュアキントスは小さく、「はい」と返事した。  アポロンはいたって優しく、 「食事はできそうかい?」 「はい。・・・・・いえ」  何だか遠慮してしまう。  しかしアポロンは、ヒュアキントスの最初の返事を、返事と見なし、 「それはよかった」  そう言うと、クレイオに目配せした。  クレイオは、いつの間にどこにあったのか、ワゴンを押してきた。  アポロンが立ち上がり、どいたその場所にワゴンが止まる。  上には、豪華な食事が並んでいる。 「嬉しいんですけど、こんなには・・・・・」  ヒュアキントスが言うと、 「残してもかまわないよ。ただこれだけは、必ず一つは食べてほしいな」  アポロンは言いながら、ヒュアキントスに一番近い、大きな皿を指差した。  載っているのは、一口サイズで、ピンクや白やセピアでデコレーションされた、たくさんの・・・・・ 「お菓子ですか?」  肉を差し置いて、デザートが最前列のセンター・・・・・。 「ここでは、アンプロシアと呼んでいる」  アポロンはそう言って、その皿をさらに、ヒュアキントスへと押し進めた。  ヒュアキントスは勧められるまま、菓子を一つ取り、口に入れる。  甘く、とろけてゆく。 「ああ。これ、おいしいです」  思わず顔を綻ばせた。  外国では、チョコレートというらしい。  神殿の広間には、多くの神が集められていた。  その最高神ゼウスは、妻のヘーラーと並んで王座に座し、長い白銀の髪と髭を垂らしている。手には宝石を散りばめた杖を持っている。  ゼウスの堂々たる声が響き渡る。 「かつて、ヴィーナスは夫である鍛冶の神ヘパイストスを裏切り、戦いの神アレスと不義を犯した。我々は罰として、ヴィーナスにはクレーター島、アレスにはトラキアの地での謹慎を命じた」  集まった神々の中に、ヴィーナスとアレスはいない。  クレーター島とトラキアは、それぞれギリシャの南端と北端に位置する。オリンポスはその間である。 「しかし、謹慎を終え、このオリンポスに戻ると、ヴィーナスはかつて愛した人間の少年アドニスを甦らせた。同じくアドニスを愛していた冥界の女王ペルセポネは(いか)り、クレーター島の花を枯らしている」  ゼウスの声は、高い天井にまで届く。  皆はじっと聞いている。 「また、スパルタの王子が亡くなって三年、スパルタは幾度となくデルポイに挙兵している。王子が亡くなったのはデルポイの神のせいだと信じているのだ。デルポイは神託(しんたく)を行う神聖な場所である。アポロンの加護を受けているが、それだけでは守りきれない」  言った後、ゼウスは一同を見渡し、 「そこで、我々はスパルタの王子を甦らせ、クレーター島を守りスパルタを治める、新たな花の神とする。ただし、これには少々時間がかかる。生き返ってから完全な神となるまで、お前たちは何としてでも王子を守るのだ」 「はい」  皆の返事が一斉に響く。  集会が終わり、神々が散らばって出てゆく。  そんな中、ヘーラーはでっぷりとした腕で、肘掛けに頬杖をつき、 「アドニスはどうするの?」  ゼウスは顔をしかめ、神々を見守りながら、 「冥界へ帰せば、ペルセポネはおとなしくなるだろう。だが、一度死んで甦らせたものを、そう何度も死なせるのはよくない」  つまり、検討中ということだ。  そのとき、 「ゼウス様」  ふたりの前に、青年がすっと降り立った。どこから降りたのかは分からない。細身の身体に、切れ長の涼しげな目、翼の生えた帽子をかぶり、翼の生えたサンダルを履いている。通信の神ヘルメスである。  ヘルメスは王座に向かってひざまずき、 「アポロンからの連絡です。ヒュアキントスが目を覚まし、アンプロシア(神食(しんしょく))を食べました」  ゼウスはゆっくりと頷く。 「これで、ヒュアキントスは不老の身となった。さて次は・・・・・」  壁際へ目をやり、 「ディオニューソス」  すると、壁にもたれて座っていた壮年の男が、おもむろに立ち上がり、歩いてきた。ふらついた足取りである。葡萄の蔓の冠をかぶり、大きな杯と酒瓶を手に、酔ったように顔を赤らめている。酒神(しゅじん)ディオニューソスである。  ディオニューソスは会釈すらせず、にやつきながらゼウスに言った。 「およびでしょぉか?」  ろれつの回らない声である。  ゼウスはかまわず、要件を告げた。 「用意してほしいものがある」 ―――――甘い香り。 (ダプネの弟?)  遠い丘の上に、少年が座っているのが見える。伸ばされた白い脚が、若草の色によく映えている。 (美しい・・・・・)  少年はうっとりしている。隣に座る青年の肩にもたれかかっている。  青年は、竪琴(たてごと)を弾いていた。 「タミュリス。素敵な音色だね」  少年が青年に何か言った。  僕だって、あれぐらいできるさ。  あれぐらい・・・・・―――――

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