1 / 9
1 プロローグ
はじめまして。アシスタントのマイケルくんです。
崎先生のお話の、ナレーションをするよ。
眩しい朝。
ギリシャの最高峰オリンポスの山頂に、白く広大な神殿がある。そこは、神々の住まう聖地である。
その一室にある天蓋つきの大きなベッドで、一人の少年が眠っている。十三歳くらいで、輝く金の髪にさらさらの白い肌、長い睫毛は誘うようにカールしており、閉じても大きいことが分かる目の上に、二重目蓋のあとがある。眠っていても美少年であった。
部屋の中央には白くて丸いテーブルがあり、その上には、一輪の赤い百合のような花を挿した花瓶と、盆のような石の円盤が置かれている。
陽光が少年の顔を撫でる。
ふと、少年の目蓋が震えた。
「んん・・・・・」
細い身体がしなやかに動く。毛布から薄手の服が覗く。
「あ・・・・・」
とろんと、澄んだ青い瞳が現れた。ぼんやりと天蓋を眺める。
見知らぬ部屋である。
なぜここにいるのだろう。意識がなくなる前、自分は確か・・・・・。
不意に、誰かが少年の手をにぎった。
少年はそちらを見る。
青年と目が合った。自分と同じ金の髪、白い肌、青い瞳。神のように美しい青年である。後ろには、黒衣を纏った女が控えている。
少年ははっと上体を起こした。胸もとに毛布をつかみ、目を見開き、主に青年を見つめる。
「あ・・、ア・・・・・」
顔が赤くなってゆく。
すると、青年が太陽のように優しく微笑み、少年に言った。
「お帰り。ヒュアキントス」
その声に導かれ、ようやく少年も、相手の名を口にした。
「アポロン様・・・・・」
―――――「あの方が、アポロン様よ」
黒い服の母が教えてくれた。
あれは、幼い日の記憶。
「アポロンさま・・・・・」
僕はめいっぱい顔を上げ、母が見ているのと同じものを見た。
それは白い彫刻。動かないし、白い神殿の中にある。本来なら、目立たないはずのものだった。
でも、輝いていた。
「あなたはこれから、この方を崇めるのよ」
母が教え諭す。
あがめる・・・・・
崇めなければいけないの?
愛しては、いけないの?―――――
「僕、死んだのかと思ってました」
ヒュアキントスはベッドに座り、冗談っぽく笑った。
「スパルタの丘で、アポロン様と円盤投げをして遊んでいて、アポロン様の投げた円盤が頭に当たって・・・・・」
記憶をたどりかけて、あっと口を噤んだ。アポロンを責めているように聞こえてしまう。
「あの。助けてくださって、ありがとうございました」
慌てて頭を下げる。
アポロンは苦笑した。
「いや。当然のことだ」
彼はベッドの横でひざまずいている。女はその後ろに立っている。
ひざまずかれているのが気恥ずかしくて、ヒュアキントスは目を逸らすように、部屋を見回した。
「ここ、神殿ですか?」
柱や家具などの、彫刻の繊細さから感じ取れる。
「ああ。オリンポスの神殿だ」
アポロンが答える。
ヒュアキントスはゆっくりと彼に目を戻し、
「本当に、太陽神のアポロン様だったのですか?」
その目が輝いているのは、光のせいだけではないかもしれない。
アポロンは微笑んだまま、首を傾げる。
「あっ、ごめんなさい。まさか、自分の知り合いが神様だなんて・・・・・」
ヒュアキントスはあたふたする。
「ほら。有名な神様は、名前を真似されることがあるでしょう。だからアポロン様もそうだと思って・・・・・」
失礼のない言葉を、懸命に考える。
アポロンはくすりと笑った。
「いいんだ。僕も、名前しか教えなかった」
ヒュアキントスはほっとする。それから女に目を向ける。
「お母さま・・・・・」
なぜここに?
女は静かに微笑み、
「“クレイオ”は、ムーサ(芸術の女神たち)のひとりよ」
ヒュアキントスはえっと、その女―――――母クレイオを見つめる。
ムーサは全員で九柱いる。叙事詩のカリオペ、抒情詩のエウテルペ、喜劇のタレイア、悲劇のメルポメネ、合唱のテルプシコラ、独唱のエラトー、讃歌のポリュムニア、天文のウラニア、そして歴史を司るクレイオ。
こちらも、名前が同じなだけではなかったのだ。
「今まで内緒にしてたんですか?」
ヒュアキントスの問いに、クレイオは困ったような笑みになり、
「普通はそうするものなの」
だからアポロンも・・・・・ちょっと寂しいな。
この世界では、神と人が共存している。英雄の話にはよく神が現れ、人を助けたりする。なので、神がいること自体には驚かない。自分の前に現れたことに驚くのである。
でも、初めてアポロンと出会ったとき、感じたかもしれない。自分にとって、彼がアポロンなのだと。
ヒュアキントスはふと思った。
「お母さまが神様ってことは、もしかして僕も・・・・・」
するとクレイオは、
「あなたは、お父さまが人間だから、今は人間よ」
ヒュアキントスは安心した。
「なあんだ」
安心なような、残念なような。
アポロンが口を開いた。
「ヒュアキントス。君の怪我はもう治っているけれど、まだここで養生するといい」
ヒュアキントスはぶんぶんとかぶりを振る。
「これ以上、迷惑をかけられません。スパルタに帰ります」
これ以上、優しくされてしまったら・・・・・。
しかしクレイオが、
「ヒュアキントス。いさせてもらいなさい」
静かだが、逆らえない声である。
ヒュアキントスは小さく、「はい」と返事した。
アポロンはいたって優しく、
「食事はできそうかい?」
「はい。・・・・・いえ」
何だか遠慮してしまう。
しかしアポロンは、ヒュアキントスの最初の返事を、返事と見なし、
「それはよかった」
そう言うと、クレイオに目配せした。
クレイオは、いつの間にどこにあったのか、ワゴンを押してきた。
アポロンが立ち上がり、どいたその場所にワゴンが止まる。
上には、豪華な食事が並んでいる。
「嬉しいんですけど、こんなには・・・・・」
ヒュアキントスが言うと、
「残してもかまわないよ。ただこれだけは、必ず一つは食べてほしいな」
アポロンは言いながら、ヒュアキントスに一番近い、大きな皿を指差した。
載っているのは、一口サイズで、ピンクや白やセピアでデコレーションされた、たくさんの・・・・・
「お菓子ですか?」
肉を差し置いて、デザートが最前列のセンター・・・・・。
「ここでは、アンプロシアと呼んでいる」
アポロンはそう言って、その皿をさらに、ヒュアキントスへと押し進めた。
ヒュアキントスは勧められるまま、菓子を一つ取り、口に入れる。
甘く、とろけてゆく。
「ああ。これ、おいしいです」
思わず顔を綻ばせた。
外国では、チョコレートというらしい。
神殿の広間には、多くの神が集められていた。
その最高神ゼウスは、妻のヘーラーと並んで王座に座し、長い白銀の髪と髭を垂らしている。手には宝石を散りばめた杖を持っている。
ゼウスの堂々たる声が響き渡る。
「かつて、ヴィーナスは夫である鍛冶の神ヘパイストスを裏切り、戦いの神アレスと不義を犯した。我々は罰として、ヴィーナスにはクレーター島、アレスにはトラキアの地での謹慎を命じた」
集まった神々の中に、ヴィーナスとアレスはいない。
クレーター島とトラキアは、それぞれギリシャの南端と北端に位置する。オリンポスはその間である。
「しかし、謹慎を終え、このオリンポスに戻ると、ヴィーナスはかつて愛した人間の少年アドニスを甦らせた。同じくアドニスを愛していた冥界の女王ペルセポネは怒 り、クレーター島の花を枯らしている」
ゼウスの声は、高い天井にまで届く。
皆はじっと聞いている。
「また、スパルタの王子が亡くなって三年、スパルタは幾度となくデルポイに挙兵している。王子が亡くなったのはデルポイの神のせいだと信じているのだ。デルポイは神託 を行う神聖な場所である。アポロンの加護を受けているが、それだけでは守りきれない」
言った後、ゼウスは一同を見渡し、
「そこで、我々はスパルタの王子を甦らせ、クレーター島を守りスパルタを治める、新たな花の神とする。ただし、これには少々時間がかかる。生き返ってから完全な神となるまで、お前たちは何としてでも王子を守るのだ」
「はい」
皆の返事が一斉に響く。
集会が終わり、神々が散らばって出てゆく。
そんな中、ヘーラーはでっぷりとした腕で、肘掛けに頬杖をつき、
「アドニスはどうするの?」
ゼウスは顔をしかめ、神々を見守りながら、
「冥界へ帰せば、ペルセポネはおとなしくなるだろう。だが、一度死んで甦らせたものを、そう何度も死なせるのはよくない」
つまり、検討中ということだ。
そのとき、
「ゼウス様」
ふたりの前に、青年がすっと降り立った。どこから降りたのかは分からない。細身の身体に、切れ長の涼しげな目、翼の生えた帽子をかぶり、翼の生えたサンダルを履いている。通信の神ヘルメスである。
ヘルメスは王座に向かってひざまずき、
「アポロンからの連絡です。ヒュアキントスが目を覚まし、アンプロシア(神食 )を食べました」
ゼウスはゆっくりと頷く。
「これで、ヒュアキントスは不老の身となった。さて次は・・・・・」
壁際へ目をやり、
「ディオニューソス」
すると、壁にもたれて座っていた壮年の男が、おもむろに立ち上がり、歩いてきた。ふらついた足取りである。葡萄の蔓の冠をかぶり、大きな杯と酒瓶を手に、酔ったように顔を赤らめている。酒神 ディオニューソスである。
ディオニューソスは会釈すらせず、にやつきながらゼウスに言った。
「およびでしょぉか?」
ろれつの回らない声である。
ゼウスはかまわず、要件を告げた。
「用意してほしいものがある」
―――――甘い香り。
(ダプネの弟?)
遠い丘の上に、少年が座っているのが見える。伸ばされた白い脚が、若草の色によく映えている。
(美しい・・・・・)
少年はうっとりしている。隣に座る青年の肩にもたれかかっている。
青年は、竪琴 を弾いていた。
「タミュリス。素敵な音色だね」
少年が青年に何か言った。
僕だって、あれぐらいできるさ。
あれぐらい・・・・・―――――
ともだちにシェアしよう!