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2 悲しみ
デルポイはギリシャの中心に位置し、アポロン神殿はさらにその中心に建っている。
神殿に併設されている神託所は、人々でごった返していた。
「ああ、偉大なるアポロン神よ。どうか我々をお救いください」
「スパルタとの戦いを、早くやめさせてください」
人々は手をすり合わせ、必死に祈る。
祭壇の前では、巫女が三脚の上に腰掛け、右手に持った月桂樹 の葉を、左手に持った杯の水に浸している。水は白く濁り、薬のようである。
巫女は頭から白い布をかぶっており、口もとしか見えない。若そうではある。祭壇の上は、白いカーテンで隠されている。
神託所の床は、あちこちにひびが入っている。巫女の三脚の真下にも。それは、建物が古いからではなく、何か意図があるように感じられる。
やがて、巫女は浸し終えた月桂樹を杯から持ち上げ、その葉先にかじりついた。
プシューッ
葉先から、杯から、部屋中のひび割れから、白い煙が噴き出した。みるみる辺りに広まってゆく。
人々は咳き込み、手や袖で口を覆う。
巫女は気持ちよさそうに煙を吸い、残りの葉を食べ、杯の水を飲み干した。
ガシャン!
「ああああああああっ」
突然、喉を押さえ、奇声を発した。杯が床で砕ける。
人々はぎょっとする。
床の破片を顧みず、巫女は落ちるように三脚から滑り降り、人々へ近づいてゆく。老婆のように腰を曲げている。足は衣で隠れているが、歩いた場所に血はついていない。
人々は退きそうになるのを、ぐっとこらえた。巫女のこれが、神託の予兆なのである。
群衆の前にたどり着くと、巫女は一番前にいた男の腕を、がしっとつかんだ。
男は震え上がる。
巫女は男に顔を近づけ、にっと笑った。
「神託を申し上げます・・・・・デルポイはスパルタを・・・・・エウタロス湖畔の丘まで攻め返すとよいでしょう・・・・・」
巫女の声は震え、幽霊のようである。
「・・・・・そこに救世主が現れます・・・・・デルポイとスパルタのどちらが勝つことも負けることもなく、和解できる・・・・・両国の守護神となるお方でございます」
人々は冷や汗を浮かべ、黙り込む。
いつしか煙はおさまっていた。
神託所を出て帰ってゆく行列を、窓からそっと見送ると、巫女は祭壇へ歩み寄る。もう腰は曲げていない。喉を押さえてもいない。
三脚の上には、先ほどと同じ杯が新品同様、ぴかぴかの状態で伏せ置かれている。床には何も落ちていない。
そっとカーテンを開けると、巫女は祭壇の上を見上げ、口を開いた。
「アポロン様。ヒュアキントス様は、いずれこちらにお住まいになりますか」
祭壇の上には白い彫刻が立っていた。背が高く、筋肉の隆起が滑らかな、美しい男の彫刻。柔らかな眼差しを、まっすぐに前方へ向けている。
巫女は口もとを嬉しそうに微笑ませ、
「分かりました。では、お部屋のご用意をさせていただきます」
そう言うと、一礼し、背を向けようとした。
「はい?」
しかし、すぐに祭壇へ向き直り、彫刻を見上げる。
彫刻は静かに佇んでいる。
巫女はさらに嬉しそうに、
「そうですね。花瓶も必要ですね。すぐにご用意いたします」
そう言って、再び礼をし、そそくさとその場を後にする。
彫刻は、金の光を放っている。
―――――翼の生えた小さな男の子が、金の矢をこちらへ放った。
矢が僕の胸に突き刺さる。痛くはなかった。
心が痛かった。
次に、男の子は鉛の矢を、そばを歩いていた女に放った。
女の背中に矢が刺さる。女は振り返る。
「ダプネ・・・・・」
僕は、その名を口にしていた。
とたんに、女は背を向けて走り出した。
・・・・・僕は、なぜ追いかけているのだろう。
鉛の矢が、女の背中に溶け込んだ。なのに、僕の金の矢は残っている。
女が逃げる。僕は追う。
心で、別のものを追っている。
(行かないで。ヒュアキントス・・・・・)―――――
「ヒュアキントスが目覚めてから、三日目になるね」
オリンポス神殿の廊下を、両足を引きずるようにして歩きながら、ヘパイストスが言った。彼は生まれつき、足が不自由なのである。
隣を歩くヘルメスは笑う。
「まさか、君があの子を甦らせてしまうなんてね」
ヘパイストスの歩くスピードに合わせている。
ヘパイストスは照れ隠しに、頭をかきながら、
「甦らせたなんて。僕はゼウス様のご命令で、あの子の傷口を塞いだだけだ」
すると、後ろからついてきていた月神 アルテミスが、ひょっこりと顔を出した。
「充分偉業だわ。鍛冶の神が、金属以外のものをくっつけてしまうんだから」
黒髪で、裾の長い黄色の衣を纏っている。
ヘルメスは頷く。
「そうそう。アポロンは医術を駆使しているはずなのに、できなかったしさ」
「あなた、お兄様より優秀ではなくて?」
ヘルメスはアポロンの親友、アルテミスはアポロンの双子の妹である。そのせいか、ふたりともアポロンには遠慮がない。
ふたりして褒めてくるので、ヘパイストスは困ってしまった。
アルテミスの隣を歩く、戦いの女神アテナが窘める。
「ふたりとも。他者を褒めるのはよいが、同時に他者を貶すのはよくないぞ」
軽装ではあるが、鎧のような硬質の服を着ている。肩にフクロウを乗せている。
同じ戦いの神でも、アレスは敵対心、アテナは英雄を導く正義感の象徴である。正義を説くのが好きではあるが、アルテミスに言わせれば“おせっかい”。
「なによ、保護者面 」
「殊にお前は兄を敬え」
このような諍いはいつものこと。
一番後ろを歩いていた花の女神フローラは、くすくす笑っている。髪や服に巻きついた、茨の蔓が揺れる。
ヘルメスは呆れて振り返る。
「喧嘩はいいけど、僕たちから離れてやってくれない?」
ヘパイストスの肩を叩いているところを見ると、“僕たち”の中には彼が入るようだ。
ヘパイストスはふっと笑って、周りの諍いを聞いている。
やがて、道が三つに分かれた。まっすぐこのまま神殿内を通る廊下と、右に曲がって別の神殿へ続く渡り廊下、左に曲がって外へ出る道。
一行は立ち止まり、ヘパイストスが皆に振り返る。
「やっぱり、僕もアドニスを探したほうが・・・・・」
ヘルメスはゆっくりとかぶりを振る。
「あまり大勢で騒ぐと、アドニスが逃げ出したことが、アレスにばれてしまう。彼が先にあの子を見つけて、また殺してしまうかもしれない」
アルテミスは優しく微笑み、
「あなたはヒュアキントスを治したその腕を、しっかり冷やしておきなさい。アドニスのことは、私たちに任せて結構よ」
ヘパイストスは苦笑し、やっと背を向け、右の渡り廊下を歩き出した。
しばらくそれを皆で見送ると、ヘルメスは再びまっすぐ廊下を歩み出し、アルテミスとアテナとフローラは左に曲がって外へ出た。
ヒュアキントスの部屋に、アポロンの声が響く。
「季節ごとに見える星座が変わるのは、地球が太陽の周りを回っているからなんだ」
アポロンは教科書を片手に、もう片方の手にチョークを持ち、黒板に図を描いた。
いたって簡単な図である。円の中心に点を打っただけ。
「この点が太陽だとする。円は地球の軌道。今、地球は太陽の右側にあるとすると、左の空は眩しくて星が見えない。半年たって、地球が円を半周すると、今度は右の空が眩しくなる」
アポロンは図をなぞりながら説明する。黒板は壁に立てかけてある。
ヒュアキントスは椅子に座り、じっと聞いている。
「この現象は、地軸の傾きに関係なく起こる。また、オルペウスという詩人の詩 に、こんな表現がある」
アポロンは詩を朗読する。
「白羊宮 が双魚宮 を追う、冬が春へと移り変わる―――――。ちなみに、白羊宮というのはおひつじ座のことで、双魚宮はうお座のことだよ」
どうやら詩は、星座の部分しか聞けないらしい。
「質問」
ヒュアキントスは挙手した。
「何だい?」
アポロンが微笑む。
「他の星座のことは、何て言うんですか?」
我ながら、幼稚な質問であるとは思う。
それでもアポロンは応じてくれる。
「おうし座は金牛宮 、ふたご座は双児宮 、かに座は巨蟹宮 、しし座は獅子宮 、おとめ座は処女宮 ―――――」
声は淡々と流れ、
「てんびん座は天秤宮 、さそり座は天蝎宮 、いて座は人馬宮 、やぎ座は磨羯宮 、みずがめ座は宝瓶宮 だよ」
淡々と抜けて行った。
ヒュアキントスはうーんと考え、それからにっこりと、
「分かりました」
覚えなくていいや。
そのとき、扉がノックされた。
「どうぞ」
アポロンが返事する。
扉が開き、ヘルメスが晴れやかに入ってきた。
「やあ、ヒュアキントス。今日もキレっ、元気そうだね」
アポロンの鋭い視線を察知し、言い換える。
「おかげさまで」
ヒュアキントスの笑顔に、ヘルメスは満足そうに頷き、
「勉強中にごめんね。アポロン、ゼウス様がお呼びだ」
急に事務的になる。
アポロンは息をつき、教科書とチョークを黒板の桟に置いて、
「悪いけど、ここを片づけておいてくれるかい?」
ヒュアキントスに言った。
「はい」
ヒュアキントスの返事を聞いてから、アポロンとヘルメスは部屋を出てゆく。
扉が音もなく閉まる。
ヒュアキントスは立ち上がり、黒板へ歩み寄って、教科書を本棚にしまった。再び黒板に歩み寄り、黒板消しを手に取る。
取ったものの、消そうとしなかった。円の中の点を見つめる。
「そんなにアポロンが好き?」
不意に、後ろから声をかけられ、振り返った。
男の子が宙に浮いていた。背中に翼が生えている。五,六歳ほどで、くりっとした目にくるんとカールした髪の、可愛らしい男の子である。
そういえば、彼の後ろにある大きな窓が開いている。
ヒュアキントスはくすりと笑った。
「キューピッド。泥棒じゃないんだから、ちゃんとドアから入って」
「なんで僕には敬語使わないのさ!」
男の子―――――キューピッドがじたばた怒った。
ヒュアキントスは慌てて謝る。
「あっ、ごめん。・・・なさい」
慌ててつけ加える。
キューピッドは頬を膨らませ、そっぽ向く。
「もういいよ」
ヒュアキントスは苦笑する。こう見えても、キューピッドは愛の神。ヒュアキントスより遥かに年上のはずである。
それはさておき、キューピッドは再び尋ねる。
「ねえ。そんなにアポロンが好き?」
ヒュアキントスは、ふっと頬を紅潮させ、うつむいた。
「ん・・・・・」
頷いたのか、呟いたのか分からない。やがて顔を上げ、にっこりと、
「崇めているよ」
嘘はついていない。
キューピッドは別段追求するわけではなく、「ふうん」と呟き、
「・・・・・僕は、きらい」
ぽつりと言った。
「えっ」
ヒュアキントスは目を見張る。
―――――「キューピッド。そんな小さな矢で、人に恋をさせることができるのかい」
彼を責めたわけでも、からかったわけでもない。
欲しいものが手に入らなくて、いらついてたんだ。
この世に本当に、刺さってから最初に見た者に恋をする矢があるのなら、どうして丘の上にいるあの少年は、無傷なのだろう。
なぜ、僕を見ないんだろう―――――
「友達を亡くして悲しんでたとき、最初に声をかけてくれたのがアポロン様だったの」
黒板を消しながら、ヒュアキントスは話す。
「アポロン様、その友達と似てたの。顔つきとか、声とか、竪琴を弾けるところとか」
消し終えた黒板を、部屋の隅へ寄せる。その足取りが軽い。
それを横目でじろりと睨み、キューピッドは言った。
「でも、アポロンは僕を馬鹿にしたよ」
ヒュアキントスは、棚から水差しを取り出し、
「きっと本気じゃないよ」
テーブルの花瓶へ水を注ぐ。赤い百合のような花を挿した花瓶。
それを眺めつつ、キューピッドは、
「まっ、ちゃんと懲らしめたけどね」
ヒュアキントスは顔を上げる。
「何をしたの?」
心配そうな顔。
「追いかけっこ」
キューピッドは一言答えた。
ヒュアキントスの表情が和らぐ。
「そっか」
安心している。アポロンを心配して、アポロンのために安心している。
(ヒュアキントス。追いかけっこは遊びじゃないんだよ。可愛いヒュアキントス)
キューピッドは慈しむような目で、ヒュアキントスを見る。
ヒュアキントスは水差しをしまい、今度は棚からコップを取り出している。
不意に、キューピッドは思い出したように、
「ねえ。ヒュアキントスって、いつ神になるの?」
ヒュアキントスは、きょとんとする。
キューピッドもきょとんとした。
しばらくして、ヒュアキントスは「ああ」と、納得したように、
「僕が神殿にいるから、神様になると思ったんだね。僕は怪我をしたから、ここでお世話になっているだけだよ」
傷はあとかたもないけどね。
キューピッドは目をぱちくりし、それからぽつりと、
「アポロンは何も教えてくれないね」
「そんなことないよ」
ヒュアキントスは無邪気に笑う。
「さっき、勉強を教えてもらったよ」
やっぱり分かってない。
アポロンが何も言わないのなら、自分も何も言わないほうがいいだろうか。キューピッドは考える。
ヒュアキントスは、壺から柄杓でミルクをすくい、コップに注ぎ入れる。それをテーブルに置き、キューピッドに椅子を引いた。
「どうぞ」
キューピッドはそこにちょこんと座り、コップを両手で持ってミルクを飲む。彼が持つと、コップが大きく見える。
「あー。これ、おうし座のミルク?」
満足そうに息をつき、キューピッドは尋ねる。
「うん」
牡牛 からミルクが出るなんて―――――いや、こんなに大きな壺をひとりで軽々と運んでくるなんて、アルテミスは力持ちなのだろう。ミルクの味は普通と変わらない。
「僕はいつもおひつじ座のミルクを飲んでるんだ。ヘパイストスが、そのほうが栄養あるからって。でもにおいがきついんだよね」
キューピッドは足をぶらぶらさせながら言う。
牡羊 からミルクが―――――いや、
「温めればにおいは消えるし、甘くなるよ」
ヒュアキントスがアドバイスした。
キューピッドはにっこりし、再びコップを口へ運ぶ。
アルテミスといえば、ヒュアキントスは思い出すことがある。
「僕のお姉さま―――――異母姉弟なんだけど、お姉さまはアルテミス様を信仰しててね。自分も彼女と同じ処女でいるんだ、って言ってた」
キューピッドの向かいに腰掛け、ヒュアキントスは話す。
「お母さまは対抗してたのかな。僕には、アポロン様を崇めなさい、ってよく言ってた。彼は芸術の神様でもあるから、ムーサにとって、お偉いさんのようなものだもの」
ヒュアキントスは相当アポロンの話がしたいらしい。
キューピッドは黙ってミルクを飲んでいたが、やがてコップを置き、
「ダプネ」
ヒュアキントスは目を丸くする。
「お姉さまを知ってるの?そっか、アルテミス様に聞いたんだ」
アポロンだよ。
でも、キューピッドは言わない。代わりに、
「あの人、元気?」
ヒュアキントスは苦笑した。
「分からない。異母姉弟だから、あまり会わなかった。いつからか、まったく見かけなくなったし。でも、心配ないと思う。お父さまが、自分が月桂樹に変えてやった、って冗談を言うぐらいだから。結局お嫁に行ったんじゃないかな」
知ってるよ。本当のこと。
でもキューピッドは言わない。代わりに、
「おとおさまは、スパルタの王様?」
「よく知ってるね。アポロン様に聞いたの?」
「ヒュアキントスは王子様?」
ヒュアキントスの質問には答えず、キューピッドはさらに質問を重ねる。
スパルタは、デルポイとクレーター島の間にある。都市国家であり、王や王子が存在する。
ヒュアキントスは照れ臭そうに、
「そうだけど、末っ子だよ」
王位は継がないし、いなくても大して誰も困らないよ。と、言ってしまいそうである。
「ずっとここにいればいいのに」
キューピッドがニコニコしながら言ったとき、
「キューピッド―――――」
外で呼ぶ声がした。
ヒュアキントスはにっこりする。
「お迎えが来たよ」
しかしキューピッドは、
「おかわり」
コップを差し出す。まだ、半分くらい残っている。
「キューピッド―――――」
ヒュアキントスは窓のほうを見る。
「心配してるよ」
「いいの。おかわり」
「キューピッド―――――ッ!」
そろそろ声が怒ってきた。
キューピッドは息をつく。コップをテーブルに置き、すうっと浮き上がって、
「また来るね」
そう言うと、開けっぱなしの窓から外へ出て行った。
ヒュアキントスは、ふふっと笑う。
「キューピッド―――――ッ!」
渡り廊下で、ヘパイストスが叫んでいる。
キューピッドはすっと上空に現れた。
「ああ、キューピッド。ごめんね、集会が長引いたんだ。帰ろうか」
ヘパイストスは、キューピッドへ両腕を広げる。
しかし、キューピッドは動かない。
「ねえ。いつになったら弓矢を返してくれるの?」
少々、棘のある声音である。
ヘパイストスは、気にする様子はなく、
「君が悪戯をしなくなったらね」
すると、キューピッドはむっとした。
「もうしてないよ」
「弓矢がないから、できないだけだろ?」
ヘパイストスは平静である。
キューピッドは、泣きそうになった。
「それじゃあ、いつまでたっても返してくれないじゃないか」
ヘパイストスは優しく微笑む。
「君が少しでも成長すれば、必ず返すよ」
そう言うと、さっと両腕を伸ばし、キューピッドを抱っこした。
そのまま歩き出そうとして、
「ヘパイストス様―――――」
振り向くと、ヒュアキントスがバルコニーに出て、こちらへ手を振っていた。
ヘパイストスは大きく振り返す。
キューピッドはヘパイストスの腕の中で、ぶすっとしていた。
「かわい~。だあれ?あの子」
バルコニーで手を振る少年を見て、ヴィーナスはアレスに尋ねた。
彼女の目つきと髪のうねりは、キューピッドと似ている。その髪を背中まで流し、裾の長い服を着ている。
アレスは壁にもたれ、腕組みしながら、
「新たに神となる。アポロンの寵童だ」
甲冑を身に纏い、腰に剣を携えている。
ふたりは、神殿の別館の廊下に立っている。
「アポロンの?」
ヴィーナスは眉を顰めた。
アレスは冷静に、
「彼らが言ったわけではない。周りがそう囁いているだけだ」
ヴィーナスは、ふっと表情を緩める。
「そう」
再び、窓の向こうの少年を見る。
「似合わないわ」
似合いすぎて気に食わない。手を振る相手がヘパイストスというのは、似合わないが。
アレスはつけ足す。
「それから、クレイオの子だそうだ」
ヴィーナスはきっと目を剥く。
「クレイオ?」
その目がめらめらと燃える。
「へえ。あんな女から、よくもあんな可愛い子が・・・・・」
許せない。クレイオ。
アレスはその様子を面白そうに眺めていたが、ふと思い出したように、
「ところで、アドニスはどうした?」
ヴィーナスは肩を竦める。
「機嫌が悪いから、部屋でそっとしておいているわ。あんた、勝手にあの子の部屋に忍び込んで、ちょっかい出すんじゃないわよ」
「分かっている」
そう言うアレスの目は、冷笑していた。
ヴィーナスは訝しげに彼を見たが、それ以上何も言わず、窓の外に目をやる。
もう、バルコニーに少年の姿はない。
彼女は宙を見つめ、別のことを思う。
(アドニス。どこへ行ったの?)
ヘルメスに扉を開けられ、アポロンはゼウスの部屋の中へ入る。
そこではゼウスとヘーラー、そしてクレイオが待っていた。ゼウスの杖の先には、黒鷲が止まっている。
ヘルメスも入り、扉が閉まる。
「アポロン。ヒュアキントスの容態はどうだ?」
ゼウスが尋ねると、アポロンは一礼し、
「起きて勉強ができるほどまでに、回復しました」
ゼウスは柔らかく微笑む。
「それはよかった。そのヒュアキントスに、贈り物がある」
そう言うと、奥の部屋へ続く、小さな出入り口を振り返る。
扉のないその部屋の、闇の中から、ひとりの青年が歩いてきた。颯爽とした足取りで、長身をすっと伸ばし、長い衣をなびかせて、紫色の長い髪に葡萄の蔓の冠・・・・・なぜディオニューソスが若返っているのか、アポロンには謎だった。
いつもの杯と酒瓶はなく、ディオニューソスは見慣れない一本の細身の酒瓶を、両手を添えて美しく持っている。
ゼウスの前へたどり着くと、彼はいつになく恭しくひざまずき、酒瓶を掲げてゼウスに捧げる。
ゼウスはそれを受け取り、アポロンに差し出す。
「ネクタル(神酒 )だ。ディオニューソスに作らせた。これを飲めば、ヒュアキントスは不死になり、完全な神となる」
アポロンは、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
そして、酒瓶を受け取ろうと手を伸ばし・・・・・
「ただし」
ゼウスがそれを引っ込めた。
アポロンは不思議そうに彼を見る。
ゼウスはヘーラーから手渡された栓抜きで、酒瓶のコルクを開け、
「ただの酒ですら、子どもにはきつい。これを未成年が飲むと・・・・・」
同じくヘーラーから手渡されたグラスに、赤い酒を注ぎ入れる。
そして、
「おい。ガニュメデス」
奥の部屋に向かって呼んだ。
「はい」
優雅な声で返事が返され、闇の中から、カツ、カツ、と靴音が響いてきた。
現れたのは少年だった。ヒュアキントスよりやや成長した、十四歳くらいであろうか。ヒールの高い靴を履き、丈の短い着物からは白い腿が剥き出しで、ほんのりと化粧をしている。神々の宴でいつも酌をしている少年である。
なるほど。アポロンは、ディオニューソスを横目で見た。
・・・・・気に入った者の前で、若作りをする癖。
一同の前まで来ると、少年はアポロンに、にっこりと微笑んだ。
さすがに少し、どきっとする。
少年はゼウスと向かい合い、恭しく礼をすると、グラスを両手で受け取った。そのふちに口づけ、少しずつグラスを傾けて、酒を口へ流してゆく。
「ひどい。本当に実験台にしてる」
ヘルメスが囁き、クレイオがしーっと人差し指を口に当てる。
ガシャン!
アポロンは、目を見開いた。
赤い液体がこぼれた床の上へ、少年が倒れてゆく。何かを思い起こさせた。彼の膝頭に、ガラスの破片が突き刺さろうとした瞬間、
バサバサッ
ゼウスの杖から黒鷲が飛び立ち、少年を素早くキャッチした。
翼を広げると、人間の大人ほどの大きさである。少年の足が、床から浮いている。
「そのまま連れて帰ってやれ」
ゼウスが命じると、黒鷲は少年をつかんだまま、ヘーラーが開け放った大きな窓から外へ出て行った。
アポロンは、呆然とする。
他の者たちは何事もなかったかのように、ゼウスに目を戻す。
ゼウスはコルクを閉め直し、酒瓶をアポロンへ差し出す。
「こういうわけだ。これをヒュアキントスにどう与えるかは、よく考えておくように」
と言うことは、これをどう与えればよいのか、ゼウスは知らないのだ。
「はい・・・・・」
受け取ったものの、アポロンは複雑そうに酒瓶を見る。
ヘルメスが部屋の扉を開ける。
アポロンはゼウスに一礼し、背を向けて、部屋を出ようとした。
背後でゼウスの声がした。
「ディオニューソス。ここを片づけておけ」
「げっ」
ディオニューソスが、露骨に嫌な顔をした。気配がした。
「気にすることはない」
アポロンと並んで廊下を歩きながら、ヘルメスは言った。
「ガニュメデスがネクタルを飲んだのは、あれが初めてじゃないんだ。昔、ゼウス様が、知らずに飲ませたことがある」
アポロンはヘルメスを見る。
「本当かい?」
ヘルメスは頷き、
「まっ、あのときは百年間、寝込んだけどね。一度飲んで生きていられれば、それ以後は不死になるから、何度飲んでも死なない。彼は今でもああして倒れたりするけれど、寝込む時間はうんと短くなったよ」
あの少年は、いったい何歳なのだろう。
「でも、ガニュメデスの場合は、酒に相当強かったんだ。死んだ人間のほうが多いらしい」
さらりと言ってのけるヘルメスが凄い。
アポロンは、息をつく。
ヘルメスはじろりと彼を見て、
「まさか、ネクタルのことも、ヒュアキントスには内緒にするつもりかい?」
「いずれ話すよ。彼を神にすることも、何もかも。でも・・・・・」
アポロンは、伏し目がちに、
「彼を利用しているなんて、思われたくない」
本当は、ありのままの彼を受け入れたかった。
ヘルメスは、呆れようか慰めようか迷った末、
「まっ、好きにすればいいさ」
そして話題を変えた。
「それにしても、ディオニューソスは懲りないなあ。変身しても酔えばもとに戻るんだから、彼がおじさんだってこと、ガニュメデスはとっくに知ってるのに」
それでも気前よく酒をふるまうのだから、あの少年はプロである。
薔薇の木に囲まれた道を、どこまで走ったであろう。
走っても、走っても、道は延々と続く。神殿の庭は、果てがない。
この薔薇園は迷路のようである。びっしりと並ぶ薔薇の木は、高い壁を作り、身を隠してくれる。逃げ出しがたいが、見つかりがたくもあるので幸いである。
少年は足を止め、ぜいぜいと息を吐き出す。
そのとき、庭の向こうから声が聞こえた。
「フローラはどこへ行った?」
とっさに息を潜め、薔薇の隙間から様子を窺う。黄色い服を着た女と、フクロウを肩に乗せた女が歩いていた。
黄色い服の女が答える。
「クレーター島の様子を見に行ったわ。まったく、彼女がボレアスと無理につき合ってるから、クレーター島の花をもとに戻せないのよ。花の神が北風の神とつるんでも、風邪ひくだけだわ」
「またそんな言い方を」
フクロウの女が窘める。
黄色い服の女は負けじと、
「フローラはゼピュロスを愛しているのよ」
「ゼピュロスの兄であるボレアスに逆らえば、ゼピュロスまで酷い目に遭わされる。彼を庇っているのだから仕方あるまい」
「駆け落ちすればいいのよ!」
「それを処女神が言うか?」
「みんなもっと自由にすればいいのに!自分は自分のものよ!他の誰かが面倒を見きれるはずないでしょ!」
アポロンといい、フローラといい。
フクロウの女は頭を抱え、
「分かった!とにかく、アドニスを探すぞ」
黄色い服の女を引きずり、ふたりはそのまま、こちらに気づかず去ってしまった。
少年はほっと胸を撫で下ろす。しかし、
(もう探し始めたのか・・・・・)
迂闊に動けば、かえって見つかる。しばらく、ここで様子を見ていよう。
―――――「なぜ巡礼に来てくれないの?」
母の困ったような声が、頭上に降り注ぐ。
スパルタの城の、僕の部屋。僕はベッドに座り、黙ってうつむいている。
「アポロン様、お悲しみになるわ」
あれからもう何年も、デルポイの神殿へは行っていない。
「罰が当たってもいいの?」
何も言えない・・・・・
・・・・・お母さま、言えるはずがありません。
あなたの息子が
男神を、神としてではなく
一人の男性として見てしまったなんて―――――
オリンポス神殿は、他の神殿とは違う。建物は何階にもおよび、ヒュアキントスの部屋は、地上からかなり離れている。一番高い塔は雲の上まで伸び、ゼウスはその最上階から、全世界を見渡し、天界までも支配する。
備えつけの品も、目新しいものばかりである。時の神がタイムトラベルをして、未来から仕入れたものが、ここに集まっているのだという。
簡易キッチンでコップを洗った後、ヒュアキントスは椅子に座り、テーブルの上の花を眺めていた。何だか幸せそうである。
窓の外からそれをそっと窺う、淡い緑の蝶がいた。
(ヒュアキントス・・・・・)
花と一緒にテーブルに置かれた、石の円盤が心に痛い。
蝶は名残惜しげに身を翻し、ふらつきながら去って行った。
薔薇園へと去って行った。
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