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3 円盤投げ
―――――「大切な人を、亡くしてしまって」
僕の大切な人がそう言った。
「吟遊詩人で、旅に出たんです。その道中で・・・・・」
こうして隣に座って話を聞くのは初めてだ。
「そんな噂を・・・・・」
うつむいた金の髪から覗く、細いうなじが愛しい。
僕は懐に手を入れた。金の矢を何本も隠し持っていることがばれぬよう、そっと竪琴を取り出す。
少年は不思議そうにそれを見た。月桂樹の枝葉が巻きついた竪琴。
「僕もこれを弾けるんだ」
そう言うと、僕は竪琴を弾き始めた。
少年が黙っていたのは、聞き惚れていたからなのか、不思議に思っていたからなのか、分からない。
彼の大切な青年が竪琴を弾けることを、僕が知っていたからなのか―――――
「父上!何をなさっているのです!」
若きスパルタ王アルガロスは、駆けつけるなり叫んだ。
息子に王位を譲り、のんびりと暮らしていた先王アミュクラスは、振り返って微笑む。
「見てのとおり、祭壇を造っている」
「ヒュアキントスの墓の上にですか!」
「父上。これはいったい・・・・・」
王の補佐役であり、先王の次男であるキュノルテスも、遅れて駆けつける。
やけに城の外が騒がしいと思えば、近くにあるエウタロス湖畔の丘で、召し使いたちがせっせと働いていたのである。
それをそばで見物していたアミュクラスは、二人に言う。
「ヒュアキントスは生きている。墓は必要ない。それより、あの子の祭壇を用意せねば」
「また夢の中で、母上がそうおっしゃったとでも?」
「母上は、ヒュアキントスが亡くなってから、姿をくらましました。父上まで、アポロン神に洗脳されてしまっては・・・・・」
アルガロスは呆れ、キュノルテスも戸惑いを隠せない。
アミュクラスはのほほんと微笑む。
「洗脳ではない。お前たちも、デルポイに兵を挙げるくらいなら、庭の花に水をやったらどうだ?」
「召し使いがすませました」
アルガロスはかりかりしながら答える。
城の庭は、いつしか赤い百合のような花で溢れていた。
アミュクラスはゆっくりとかぶりを振る。
「いかんのお。弟の世話ぐらい、自分たちがやってやらんかい」
いつか夢の中でクレイオが言った言葉―――――“ヒュアキントスは花になりました”
アミュクラスは、できてゆく祭壇へ目を向け、
「あの子は、お前たち兄弟の中で、一番活発な子だった」
そして、にっこりする。
「今もどこかで、元気に走り回っているかもしれんぞ」
オリンポス神殿の庭を、ヒュアキントスが駆けてゆく。
白い石畳の道はどこまでも続き、手すりや柱は陽光に照らされて眩しく、色とりどりの花は咲き誇る。
ヒュアキントスはスキップしたり、段に上ったり、アーチに手を伸ばしてジャンプしたりする。外へ出たのは久しぶりである。
アポロンはその後ろをのんびりと歩きながら、彼の様子を見守る。庭の妖精を見ているようであった。
やがて、ヒュアキントスが駆け戻ってきた。
「アポロン様―――――」
胸に飛び込んできた小さな身体を、アポロンが抱き止める。
「思ったより元気そうで、安心したよ」
彼が言うと、ヒュアキントスはにっこりと顔を上げ、
「アポロン様。あれ」
そう言いながら、花壇の一画を指差す。
赤い百合のような花が咲き乱れている。
「あの花、何て言う名前なんですか?僕、この神殿に来て初めて見たんですけど」
アポロンは「ああ・・・・・」と呟き、
「ヒヤシンスだよ」
素っ気なく答えた。
ヒュアキントスは「へえ」と、再び花に目を向ける。
よく見ると、赤い花弁に、さらに濃い赤のぎざぎざ模様がある。
「何だか、AIAI って書いてあるように見えませんか?」
AIAI―――――ギリシャ語で、“悲しい”という意味。
アポロンは、黙り込んだ。
ヒュアキントスはそっと彼の様子を窺い、苦笑する。
「見えませんよね」
アポロンはひとしきり考え込んだ後、
「言い伝えがあるんだ」
意を決したように、口を開いた。
「昔、仲のいい青年と少年が、円盤投げをして遊んでいた。けれど、青年の投げた円盤が、誤って少年の頭に当たり、少年は亡くなってしまった」
遠い目をして物語る。
「青年は悲しみ、涙を流した。すると、涙が少年の血に落ちて、そこから赤い花が咲いた。青年は、この悲しみを忘れぬよう、その花びらにAIAIの文字を記した」
思い出を語るような、遠い目。
ヒュアキントスは感嘆の声を漏らす。
「へえ」
感心してはいるが、他人事のようである。言い伝えと違い、自分は生きているから。
「でも、僕ならそんな言葉、書かれるほうが悲しいな」
アポロンは、はっと胸を突かれ、ヒュアキントスを見る。
ヒュアキントスはにっこりしている。悪気はない。ただ、そう思っただけ。
「そう・・・・・だね」
アポロンも、そう言った。
僕は、この花が好きだ。そう言ってしまう前で、よかった。
「・・・・・作り直しておくよ」
新しい花に。
アポロンの呟きにも似た声に、ヒュアキントスは「え?」と、目を丸くする。
次の瞬間には、アポロンはいつもの笑顔で、
「薔薇園へ行こうか」
ヒュアキントスは、妙にほっとした。
「はい!」
アポロンの手を取り、急かすように歩き始める。
「いい気なもんだな~。こっちが人探しをしているときに」
そう言うヘルメスの顔は、笑っていた。
ゼウスの部屋のバルコニーから、アポロンとヒュアキントスの様子が見える。
ヘルメスの隣で、アルテミスが言った。
「キューピッドがまた薔薇園に、雑草の種をまいているわ」
こちらもくすくす笑っている。
「そんなことをしても、ここじゃあ決まった花しか咲かないのにね」
最上階であるこの部屋からは、全地上を見渡すことができる。薔薇園の上空を白いものが浮遊し、少し離れた場所でヴィーナスがアドニスを探しており、オリンポス山の外には神々が飛び交っている。
ヘルメスが尋ねた。
「なぜ、アテナは海へ向かってるんだい?」
アルテミスは肩を竦め、
「海王ポセイドンのところへ行って、海辺を探すよう頼んでくるみたい。いくら何でも、アドニスがそんなところまで行けるはずないのに」
「けど、ここから見ても、どこにも見当たらないからなぁ・・・・・」
ぐるりとヘルメスが下界を見回す。
「ゼウス様の占いも、あの調子だし」
そう言いながら、アルテミスは部屋を振り返った。
室内では、大きなテーブルいっぱいに広げた地図を前に、ゼウスが唸っている。
「うーむ・・・・・」
床にはサイコロが転がっている。
何度振っても、サイコロは地図のどこにも止まらず、床に落ちてしまう。この世界に、アドニスはいないということ。
そばで見ていたヘーラーが言った。
「あなた。腕が落ちたんじゃないの?」
「たわけ!神々 の探し方が悪い!」
「あなたの占いが悪いのよ!」
夫婦喧嘩は犬も食わぬ。
アルテミスはヘルメスに視線を戻し、
「考えたくないけど、アドニスはもう冥界へ行ってしまったのかもね」
ヘルメスは、雲に乗って飛び回る神を、目で捕らえる。
「アレスもアドニスを探している。彼は殺していないということだ」
「ペルセポネが連れ去ったのかもしれないわ。冥界だって、アドニスを探しているでしょ」
戦いの神アレスと冥界は、もとより仲がよい。アレスの起こす戦により、死者―――――すなわち冥界の住人が増えるからである。さらに、かつて冥界の女王ペルセポネの愛したアドニスを殺し、その魂を彼女のもとへ送ったのはアレスである。
アルテミスが言った。
「共謀する可能性だってあるわよ」
ヘルメスは言葉を失う。
アレスは冥王ハーデスから、冥界の死者の軍隊を指揮する権限を与えられている。敵に回すと恐ろしい。
はしゃぐふりして、どさくさに紛れてつないだ手を、もう絶対に離したくない。
つないだ手からアポロンの気を逸らすべく、ヒュアキントスは懸命に会話を続けさせようとする。
「自分はアポロン様の孫なんだって、自慢してたことがあったんですよ。タミュリスは」
しかし続かない。
「ふーん・・・・・」
アポロンは、生返事をする。
ヒュアキントスは不安になった。
「アポロン様。僕の話、面白くないですか」
「あ、いや。そんなことは・・・・・」
面白くない。
時折、今でもヒュアキントスは、タミュリスの話をする。
・・・・・死んだ人間のことを、まだ忘れていなかったのかい?
言えない。自分も忘れることができなかった。
「本当ですか?」
ヒュアキントスが尋ねた。
「ああ。本当だよ」
「そうじゃなくて。アポロン様がタミュリスのおじい様だって、本当なんですか?」
アポロンはすっとんきょうな目で、ヒュアキントスを見る。そして声を上げて笑った。
「そんなわけないだろう」
ヒュアキントスもつられて笑う。
「ですよね」
「タミュリスは、ヘルメスの孫だよ」
「えっ!」
予想外の返答をされ、ヒュアキントスはびっくりした。
アポロンはかまわず、
「ヘルメスと、キオネという人間の女との間に、双子のアウトリュコスとピラムモーンが生まれた。タミュリスは、そのピラムモーンの子だから、ヘルメスの孫だ」
「えーと・・・・・」
「キオネが、自分はアルテミスより美貌だと自慢したから、怒ったアルテミスがキオネを殺した。残された双子のうち、ヘルメスがアウトリュコスを、僕がピラムモーンを育てたから、ピラムモーンは僕の子だと勘違いされたのかもね」
「と・・・・・」
「なんていう神話があるけど、所詮は神話だ」
ヒュアキントスはきょとんとする。
「もしかして、今の話、全部嘘ですか?」
「嘘にも真実にも、僕は興味ない」
大切なのは、僕がここにいて、君がここにいること。それが僕の全てだ。君も同じように思っていてくれたら、もっといいのに。
ヒュアキントスが言った。
「でも、アポロン様とタミュリス、似てますよ」
「似ている他人も、似てない家族も、珍しくないだろ?」
「そうですけど・・・・・」
言いかけてから、ヒュアキントスはふと思った。
「そう言えば、アポロン様とアルテミス様は、双子なのに髪の色が違うんですね」
今さらではある。
アポロンは簡潔に答えた。
「それはね、僕が昼に生まれて、アルテミスが夜に生まれたからだよ」
「・・・・・そんなでいいんですか?」
「神はそれで通用する」
ヒュアキントスは半分呆れ、半分面白かった。
「ところで、アポロン様、お歳は・・・・・」
「忘れちゃった」
予想していた返答であった。
「やっぱり、長く生きていらっしゃるんですか?」
「うん。神は精神が充分に成長すると、身体の成長が止まる。いつ止まるのかは様々だ」
「だから、不老なのに、おとなの方がいらっしゃるんですね」
「君は情緒が安定しているから、神になってもその姿のままだろうね」
ヒュアキントスは苦笑する。
「やだなあ、アポロン様」
冗談として受け取っている。
アポロンも、ただ苦笑した。
そろそろ薔薇園が見えてくる。
「じゃあ、アポロン様は、お子さんや奥さん、いないんですか?」
急に話をもとに戻して、不審に思われないだろうか。
「ああ。いないよ」
「恋人は?」
それでも、ヒュアキントスが本当に聞きたかったこと。
「いない」
「好きな方も、ですか?」
「・・・いない」
ヒュアキントスはにっこりする。
よかった。
(あれ?どうして僕、よかったって思ったんだろう)
気づいてしまうと、悲しくなってしまう。彼の幸せは、自分の幸せとは違うのかな?
(アポロン様・・・・・本当は僕が、あなたを幸せにしたかった)
(だからせめて、あなたの幸せを・・・・・心から祈っています)
ヒュアキントスはそっとアポロンから手を離す。
薔薇園の花は、ヒュアキントスの手の平より大きかった。
「わあ」
ヒュアキントスは駆け寄り、薔薇の花に触れようとする。
「棘に気をつけて」
アポロンが声をかけたとき、
「いたっ」
「大丈夫かい!」
「な~んちゃって」
笑いながら、ヒュアキントスが傷のない手をひらひらさせた。
アポロンはむっと眉を寄せる。
「薔薇園はおしまい。噴水へ行こう」
「えーっ」
歩き出したアポロンを、ヒュアキントスが追いかける。
「アポロン様が先に僕をからかったんですよ」
ヘルメスの孫の話を、まだ根に持っていたらしい。
遠ざかってゆくふたりの姿を、淡い緑の蝶が見ていた。
(ヒュアキントス・・・・・)
―――――「なぜ私ではいけない!」
怒っていたのではない。必死だったのだ。
「アポロンか」
「違います!・・・・・アポロン様は、友達です」
弁解する少年をじっと見つめる。
「あなたのことも、尊敬しています」
睨んでいると思われただろうか。
「ですから、そういう関係にはなれません」
なあ、ヒュアキントス。世の中は理不尽だな―――――
薔薇園の中で、ヒュアキントスを見ていた少年が呟く。
「馬鹿だろ。あいつ」
アポロンと一緒にいるなんて。
また神々の餌食となる人間が現れたのか。
(助けたほうがいいのかな・・・・・)
ちらっと、そんなことを思ったとき、
「アドニス―――――」
薔薇園の外から声がした。
少年は素早く、薔薇園の奥へと走り去る。
「アドニス―――――」
庭を彷徨いながら、ヴィーナスは小声で叫んだ。アレスに見つかるとまずいので、大声を出せない。それが余計に口惜しい。
「アドニス―――――」
薔薇園の中へ入ろうとしたが、不意に足を止めた。
振り向くと、アポロンとヒュアキントスが、噴水のほうへ歩いている。
「いい気なものね。こっちが人探しをしているときに」
癪に障る。
なぜ、自分はアドニスに逃げられるのに、アポロンはヒュアキントスに逃げられないのだろうか。
気になって、ヴィーナスは灌木の陰に身を潜め、ふたりの様子を観察した。
薔薇園の上空を、タンポポの綿毛を散らしながら、キューピッドは飛び回っていた。
「ん?」
灌木に隠れているヴィーナスを発見。
(あやしい)
茎だけになったタンポポをぽいっと投げ捨て、キューピッドは方向転換した。
そっとヴィーナスの背後へ回り、
「何してるの?」
ヴィーナスはびくっと肩を震わせ、振り返る。
「あら、キューピッド。丁度よかったわ」
相手が分かるや否や、にんまりと笑う。嫌な予感。
「あなた、鉛の矢を持っているでしょ。刺さって最初に見た者を嫌いになる矢。それであのふたりを喧嘩させたら、面白いと思わない?」
ヴィーナスはそう言って、アポロンとヒュアキントスを指差す。
キューピッドは眉を顰める。
「鉛の矢は、ヘパイストスに取り上げられたよ」
ヴィーナスも眉を寄せ、
「じゃあ、金の矢は?あれであのふたりのどちらかを、別の相手とくっつけて―――――」
「金の矢も、ヘパイストスに取り上げられた」
キューピッドが遮る。
ヴィーナスは息をつく。
「使えないわね」
キューピッドはカチンときた。
「子どもを使おうとするおとなはもっと使えないよ」
そして飛び去った。いや、戻ってきた。
「ヴィーナスのばーか、ばーか、あっかんべぇ~。お前なんか絶対、絶対、親じゃない!」
今度こそ飛び去った。
ヴィーナスは呆然とする。
「何を怒ってんのかしら」
そして再び、アポロンとヒュアキントスに目を戻す。
オリンポス神殿に併設されている鍛冶場は、ヘパイストスの仕事場である。神々の武器や調度品は、そこで作られる。
ヴィーナスから逃げるようにして、キューピッドが向かった先はそこであった。なぜなのかは自分でも分からない。
鍛冶場へ近づくと、カン、カン、と音がする。
危ないから入ってはいけないと言われているので、キューピッドは入り口の外から、中へ向かって声をかける。
「ヘパイストス。何してるの?」
金槌の音はやまず、ヘパイストスの返事が返ってくる。
「ヒュアキントスのために、剣を作っているんだ」
「ヒュアキントスはもうすぐ誕生日?」
「そうじゃないけど、近いうちに必要になるだろうと思って」
キューピッドはにっこりする。
「僕ね、誕生日には弟が欲しいな」
どこか挑戦的な笑みであった。
「そうだなあ」
ヘパイストスの返事は平静である。
キューピッドはむっつりし、どこかへ飛び去った。
話しかける声が途絶えたので、キューピッドはまた薔薇園へ遊びに行ったのだろうと、ヘパイストスは思う。
「そうだなあ・・・・・」
もう一度、最後の言葉を繰り返した。
「抱っこされても、あまり嬉しそうじゃなかったんです」
噴水の周りをぐるぐると回りながら、ヒュアキントスは話す。と、不意に足を止めた。
「キューピッド、ヘパイストス様のこと好きじゃないのかな」
自分のことのように、悲しげな顔をする。
噴水のへりに座りながら、アポロンは言った。
「あのふたりは、本当の親子じゃないから」
ヒュアキントスはアポロンを見る。
「そうなんですか?」
アポロンは、「君にこんな話をするのはなんだけど」と言い添え、
「最初は、ヘパイストスとヴィーナスが夫婦だった。ヘーラー様の取り決めでおこなった結婚だったから、ヴィーナスはヘパイストスが気に入らなかった」
「ヘパイストス様は、いい方ですよ」
「ヴィーナスは外観に厳しいんだ。ヘパイストスの足が曲がっているのが、気に入らなかった」
アポロンは苦笑し、続ける。
「ヴィーナスは、ヘパイストスに黙って、アレスと浮気した。キューピッドは、アレスとヴィーナスとの間にできた子なんだ」
「えっ」
浮気した妻と、妻の浮気相手の子を、ヘパイストスが育てている?
アポロンは続ける。
「浮気が発覚して、ヘパイストスとヴィーナスは離婚し、アレスとヴィーナスも別れさせられた。で、キューピッドをどうするかってことになって、ヘパイストスが自ら進み出て育てることにした」
「どうしてですか?」
そう尋ねるのは不躾かと思ったが、ヒュアキントスは尋ねた。
アポロンはにっこりする。
「彼は性格がいいんだ」
よすぎて損をしていると、心配しているのはヘルメスとアルテミスである。
「アレスやヴィーナスには、任せておけないしね。ヘパイストスは、純粋にキューピッドを可愛がっている。でも、キューピッドは戸惑っている」
言った後、アポロンは真顔になり、
「キューピッドは、成長が止まるのが早すぎた。心配したヘパイストスが、僕のところへ相談してきたよ。僕の占いでは、弟か妹ができれば、キューピッドは成長する」
「でも・・・・・」
「でも、両親が別れてしまっている」
ヒュアキントスの言いかけた言葉を、アポロンが引き継いだ。
水の音が辺りに響く。
不意に、ヒュアキントスが言った。
「きっとできますよ」
アポロンは彼を見、微笑む。
「ヘパイストスも、そう言っている」
言葉だけそう言われ、キューピッドが嬉しいかどうかは、定かではない。
雲を飛ばしながら、アレスは上空から、アドニスを探し回っていた。
(ヴィーナスめ。嘘をついたな)
ただし、アドニスの安全を図って彼を探す、他の神とはわけが違う。
(部屋にいると言ったのに。アドニスの部屋はもぬけの殻だったではないか)
アドニスを殺めそこなった剣を、固くにぎる。
ふと前方を見ると、赤、青、黄の三つの飛行物体が、こちらへ近づいている。
(ん?)
目を凝らして確認する。
それは衣であった。中央の青い衣を纏った巨漢が、それぞれ赤と黄の衣を纏ったふたりの男を従え、空を飛んでいる。
「アネモイ(風の四兄弟)か・・・・・」
青い衣は、長男である北風の神ボレアス。
赤い衣は、次男である南風の神ノトス。
黄の衣は、三男である東風の神エウロス。
・・・・・。
(ひとり足りない)
三柱の風の神はアレスの前で止まり、中央のボレアスが声をかける。
「アレスよ。我らの末の弟の、ゼピュロスを見なかったか」
どすの利いた声であった。
アレスは怯みもせず、
「知らんな。こちらも探しものをしている。失礼するぞ」
通り過ぎようとしたとき、
「ときにアレス。スパルタの王子が甦ったという噂を聞いたが」
ボレアスが言った。
雲を止め、アレスは振り向く。
「ああ。それがどうした」
ボレアスは冷笑する。
「何でもない。確認しただけだ」
アレスは訝しげな顔をしたが、それ以上聞くこともなく、去って行った。
彼の姿が遠ざかった頃、ノトスはボレアスに言う。
「兄貴。ゼピュロスはヒュアキントスに惚れている。あのふたりをくっつけてしまえば、フローラは完全に兄貴のもんだ」
「だが、アポロンが邪魔だぞ」
エウロスが口を挟んだ。
ボレアスは、不敵な笑みを浮かべる。
「どう引き離すかは、おいおい考えておこう」
クレーター島の枯れ野は、以前より範囲が広がっている。
大きな花びらに乗って空を飛びながら、フローラは険しい表情でその光景を見つめる。例年ならば、自分がこうして通った場所に、軌跡を描くように花は咲くのだが。
「フローラ!」
不意に名を呼ばれ、顔を上げる。
アテナがフクロウに乗って、海からオリンポスへ帰るところであった。普段、彼女の肩に止まっているフクロウは、彼女を乗せて飛ぶときには巨大化する。
「西からの風が途絶えている。ゼピュロスはいるのだろうな」
「えっ―――――」
フローラは、頭の中が真っ白になった。
気づいたときには猛スピードで、アネモイの住むトラキアの地へ向かっていた。
オリンポス神殿の庭の外は、丘陵地帯になっていた。山の頂上に、これだけ大きな神殿と庭と、丘陵地帯があるとは考えがたい。
そもそもヒュアキントスは、この山に神殿があるなど、今まで聞いたことがなかった。山の外から山頂を見ても、建物で一番高い塔でさえ見えない。
ひょっとすると、ここは異次元の世界となっているのだろうか。このまま歩き続けても、山を下ることはないのかもしれない。また、ただ人間が山に登っても、ここへたどり着くことはできないのかもしれない。
神に許された者のみが、たどり着ける場所。
(ときがとまれば・・・・・)
竪琴を奏でながら、アポロンは尋ねる。
「何か言ったかい」
彼の肩にもたれたまま、ヒュアキントスは、
「アポロン様の竪琴、素敵な音色だって」
昔、こうして丘に並んで座って、このようなやり取りをした記憶がある。
アポロンはにっこりし、竪琴を奏で続ける。
(そう。このまま時が進んでも、この思いは前へ進めない)
(ならばいっそ、止まってしまえば・・・・・)
ヒュアキントスはぼんやりと、そんなことを考えていた。
演奏が終わると、ヒュアキントスはアポロンの竪琴を見ながら尋ねる。
「その曲、歌はあるんですか?」
月桂樹の枝葉が巻きついた竪琴。
「歌?」
「はい」
にっこりと頷くヒュアキントスを、アポロンはしばらく見つめ、
「あるにはあるけど、楽しい歌じゃないよ」
あまり歌いたくなさそうである。
「そうですか・・・・・。また今度でいいです」
ヒュアキントスのその言い方は、いつか聞かせてほしいということだろう。
アポロンは曖昧に頷いた。
「そうだ。僕も一曲弾けるんですよ」
唐突に、ヒュアキントスが言った。
アポロンは驚かない。
「タミュリスが弾いていた曲かい?」
ヒュアキントスはぺろっと舌を出す。
「分かっちゃいました?」
多分、教えてもらっていたのだろうとは思っていた。
アポロンは、あまり乗り気ではなさそうである。
ヒュアキントスは少し考え、
「でも、アポロン様ほど上手には弾けないので、もう少し練習してからにしますね」
と言うことは、いつか聞いてほしいということだろう。
「その竪琴、しばらくお借りしてもよろしいでしょうか」
アポロンは竪琴を見、それをヒュアキントスに差し出す。
「いいよ」
そう言うしかなかった。
「ありがとうございます」
ヒュアキントスは竪琴を大事そうに抱える。彼が持つと、それは少し大きく見えた。
普段、アポロンは竪琴を、懐に入れて持ち歩く。どういう仕組みなのか、入る大きさのものであれば懐にすっと吸い込まれ、小さな刺繍となって服の裏につく。取り出す際は、刺繍を摘まんで引き出すようにすると、それは本物となって服から離れる。
竪琴と一緒にいつもある、束ねられた金の矢の刺繍に、ヒュアキントスは気づいている。けれど、そのことに関しては、何も言わずにいた。
―――――「円盤投げは、裸になって、全身にオリーブオイルを塗ってするものなんだけど」
競技であれば、彼の言うとおりかもしれない。
「でも・・・・・僕のは、遊びですから」
紅潮しているかもしれない顔を見られたくなくて、僕はうつむく。
彼は苦笑した。
「分かった」
円盤を僕へ差し出す。
「君から投げていいよ」
受け取って、僕が顔を上げたときには、彼は背を向けて歩いていた。僕が投げやすいよう、距離を置いてくれるのである。
アポロン様。ご自分が投げるのは、簡単でしょうね。
でも僕は、本当に自分をさらけ出していいのか、分かりません―――――
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