4 / 9

4 運迷

「ありがとうございます!」  ヘパイストスから贈られた剣を、ヒュアキントスは鞘から抜いた。刀身が煌めく。  ヒュアキントスの部屋へ来ていたヘルメスが、ヘパイストスに言う。 「相変わらず仕事が早いね」  照れ隠しに頭をかくのは、ヘパイストスの癖である。  アルテミスがアポロンに言う。 「お兄様。試しにヒュアキントスと打ち合ってみたら?」  アポロンは、右手で軽く拳をにぎる。すると拳が発光し、光が長く伸びて剣となり、彼の手ににぎられていた。  あっけに取られているヒュアキントスに、アポロンは微笑む。 「表でやろうか」 「あっ。はい」  もう、いちいち驚かないほうがいいだろうか。  カキン、カキンと、剣と剣がぶつかり合う。  表玄関の石段に腰を下ろし、ヘルメスとアルテミスとヘパイストスは、アポロンとヒュアキントスの打ち合いを見物する。 「やるじゃん。綺麗な顔してさ」  ヒュアキントスを見てヘルメスが言う。  もちろん、アポロンが加減しているが、それにしても凄い。身を引くことなく、盛んに打ち返してくる。 「アテナがいなくてよかったわね。彼女、武術に関してはスパルタ教育よ」 「ヒュアキントスはスパルタ教育に慣れてるけどね」  スパルタは、軍事教育が厳しい国家として有名である。  アルテミスに言った後、ヘルメスはヘパイストスに、 「さっきヒュアキントスに話してたけど、相手を斬るんじゃなく、眠らせる剣なんだって?」  ヘパイストスは頷く。 「万が一、アレスが死者の軍隊を使ってアドニスを殺そうとすれば、ヒュアキントスまで巻き込まれかねない。呪詛で動いている死者を斬っても仕方がないから、霊を鎮める剣にしたんだ」  彼もそのことについて考えていたのである。  ヘルメスは息をつく。 「アンプロシアを食べたところで、ネクタルを飲まなければ不死にはなれないからね」 「お兄様、あれからネクタルをどうしたの?」  アルテミスがヘルメスに尋ねる。 「ヒュアキントスの部屋の棚の、一番高いところに黙って寝かせている」 「それじゃあヒュアキントスは飲まないわ」 「勝手に飲みはしないだろうけど、飲めと言われても飲まないと思うよ。彼は真面目だし」 「そりゃあ、迂闊に飲ませていいものではないけど」  キューピッドのように、もともと神である子どもならば、飲んでも平気であろう。  頭の後ろで手を組みながら、ヘルメスは言う。 「アドニスも同じだ。ヴィーナスが彼にアンプロシアを食べさせたけれど、ネクタルには手を出せなかった」 「アンプロシアを食べさせたの?アドニスに関しては、死なせるとは決まってないけれど、生かしておくともまだ決まってないわ」 「ヴィーナスが無断で持ち出したんだ。隠れ蓑を使って。ゼウス様にすぐばれたけど」  アポロンにはともかく、打ち合いに夢中のヒュアキントスには、これらの会話は聞こえていない。  アルテミスは、ぽんと手を打つ。 「そうよ。アドニスは隠れ蓑を使って逃げ出したんじゃないかしら」 「あれは、姿を消すことはできても、気配を消すことまではできない。ゼウス様の占いにも見つかる」  ゼウスの側近だけあって、ヘルメスは詳しい。  ふたりの会話を聞いていて、ヘパイストスはふと気がついた。 「ところでふたりとも、アドニスを探さなくていいのかい?」  ヘルメスとアルテミスはのんきに笑う。 「休憩だよ。休憩」 「ヒュアキントスがいると癒されるの。ここじゃあ私たちに敬語使ってくれるの、あの子だけだし」 「他は皆、同格の神だからね」  どこにいても崇められるのは、ゼウスとヘーラーぐらいである。宴で酌を務めるガニュメデスは人間から神に昇格した身であり、今も他の神々を先輩として敬っているが、彼は以前にネクタルを飲んで以来、まだ寝込んでいる。  ヘパイストスは苦笑した。  そのとき、 「アポロン―――――」  空から声が聞こえ、剣を止めて、皆は振り仰ぐ。  花びらに乗ったフローラが着地し、フクロウに乗ったアテナが後から続いた。ふたりが降りると、花びらとフクロウは小さくなり、主の手もとへ飛ぶ。  フローラは花びらをにぎりしめ、アポロンへと駆け寄り、 「ゼピュロスがいないの」  ヒュアキントスの手前、小声で告げた。  聞いていた神々は、一瞬にして顔を強張らせる。  一晩じゅう探し回っていたのであろう、フローラは青ざめた顔で、 「トラキアの洞窟じゅうを探したし、スパルタにも行ってみたけれど、どこにも・・・・・」  言いかけて、はっとし、 「ごめんなさい。アドニスを探さなければいけないのに、私ったら、ついゼピュロスのことばかり・・・・・」 「それはいいんだ。それより、他にゼピュロスが行きそうな場所は?」  アポロンに問われ、フローラは力なくかぶりを振る。 「心当たりのある場所は、全て見たわ。あとはこのオリンポスだけ」 「分かった。僕たちも探す」  アポロンの言う“僕たち”の中に、ヘルメスとアルテミスが入るのは、神が定めた不文律である。  ヘルメスとアルテミスは立ち上がる。遅れてヘパイストスも立ち上がる。 「ヘパイストス。君は自分の部屋へ戻っていて」  アポロンに言われ、ヘパイストスは苦笑する。 「僕は邪魔かい?」 「いいや。君はキューピッドと一緒にいるほうがいい。彼がいつでも帰ってこられるよう、今は自分の部屋にいて」  キューピッドはふらりと出かけ、いつの間にか帰ってくる。  分かったと、ヘパイストスは背を向け、神殿内へと歩き出す。 「我々は、事の次第を父上へ報告しにゆく。父上に、ゼピュロスの行方を調べていただかねばならない」  アテナはゼウスの脳味噌から生まれ、ゼウスのみを親とする。彼女もフローラと連れ立ち、神殿の中へ入って行った。  ようやくアポロンは、ヒュアキントスに向き直る。  ヒュアキントスは困った顔をして、アポロンを見上げている。何が起きたのかさっぱり分からない。  アポロンは少し屈み、ヒュアキントスと目を合わせ、 「ごめんね、急用ができたんだ。君にも部屋で待っていてほしい」 「お仕事ですか?」 「まあ、そんなところかな」  ヒュアキントスは一瞬寂しげな様子をしたが、すぐに笑顔を見せ、 「お気をつけて」  そこへ、 「アポロン」  ヘルメスが呼んだ。 「一緒にいてあげたら?」  アルテミスも、そうするようにと目で語る。  ヒュアキントスは慌てて、 「一人で平気ですよ」  アポロンはしばらく彼を見つめ、それから微笑む。 「部屋まで送るよ」 「大丈夫です。五日間もこの神殿にいるんですよ。もう迷子にはなりません」  正確に言うと、永眠から目覚めて五日間である。 「それは、そうなんだが・・・・・」  アポロンは、またしばらく考えた。  神殿じゅうを巡る長い廊下の、どこをどうゆけば自分の部屋へたどり着けるのか、ヒュアキントスは確かに覚えた。しかし彼を一人で歩かせると、出会う神々から足止めを食らい、結局アポロンが見つけるまで帰れずにいる。  静寂の神に熱心に口説かれていたり、嘘の神に本気で口説かれていたり、泉の精に恋人よろしくあちこち連れ回されていたり・・・・・やっと部屋に着いたと思えば、色彩の神が背中にくっついていたり。 「やっぱり送るよ」  油断も隙もない神々のことを思い、アポロンはそう決断した。  ヘルメスとアルテミスを玄関で待たせ、アポロンとヒュアキントスは廊下を歩く。  ヒュアキントスの剣は鞘に収まり、彼の腰帯に挟まれている。  アポロンの剣は光でできているので、必要のないときにはすっと消える。彼の暮らしはつくづく便利である。  歩きながら、ヒュアキントスは何だか申し訳なかった。自分がアポロンの足手纏いになっているような気がする。  ヒュアキントスの部屋へ近づいた頃、アポロンは急に立ち止まった。  うつむいていたヒュアキントスも、慌てて立ち止まる。  ヒュアキントスの部屋の前に、女が立っている。裾の長い服を着て、長い髪をうねらせ、両目をぱっちり開いている。誰かと似ている気がする。  組んでいた腕をほどき、女は軽く片手を上げ、 「ごきげんよう」  アポロンは、低く呟く。 「ヴィーナス」  それを聞いて、ヒュアキントスは、彼女が誰と似ているのか分かった。  アレスやヴィーナスは、話には聞いていたが、今までヒュアキントスの前に姿を現したことはなかった。 「アドニスを探してたんじゃないのか」  アポロンの声は張りつめている。あまり仲がよくないのだろうか。  対するヴィーナスは、気怠げに肩を竦め、 「もう諦めたわ」 「諦めた?」  繰り返したアポロンの語尾が、不機嫌である。 「どんなに探しても見つからないんだもの。生きてやしないわよ。冥界の連中にさらわれたんだわ」 「無責任だな」  そんなアポロンの言葉を気に留めず、ヴィーナスはヒュアキントスへ視線を移した。  何の話なのか分からず、ヒュアキントスは狼狽している。  ヴィーナスは、別の話題を口にした。 「ヒュアキントス。何つけてるの」  初対面の神がこちらの名を知っていることには、ヒュアキントスはもう驚かない。 「何か、ついてますか?」  相手が自分の頭の辺りを見ているので、ヒュアキントスは頭を手で払ってみた。  ヴィーナスはヒュアキントスへ近づき、彼の肩に両手を置いて、深く息を吸う。 「とってもいい香り。何の香水をつけてるの」 「えっ」  ヒュアキントスはさらに狼狽した。 「何も・・・・・」  言いかけたとき、 「ヒヤシンスだよ」  アポロンが答えた。  ヒュアキントスは驚いて彼を見る。  しかしヴィーナスのほうは、 「そう・・・・・、そうだったわね」  すんなりと納得した。  ヒュアキントスはアポロンを見つめる。 (どうして・・・・・)  皆、自分に何か隠している。  ヴィーナスはヒュアキントスから手を離し、 「またね。ヒュアキントス」  そう言い置いて、廊下の向こうへ消えて行った。  アポロンは、ヒュアキントスの部屋の扉を開けて待っている。  ヒュアキントスが部屋の中へ入ると、アポロンも入り、扉が閉まる。  自分たちの留守中に誰かに掃除されているのか、部屋がひとりでに掃除しているのか、ヒュアキントスが何もしなくても、部屋はいつもきれいである。  部屋じゅうの窓を閉め、鍵をかけると、アポロンはヒュアキントスと向かい合う。 「僕が戻るまで、あまり外へ出ないようにね」 「はい」 「それから、怪しいものは中に入れないで」 「はい」  アポロンは扉へと歩き、部屋を出ようと把手に手をかけ、 「僕の帰りが遅ければ、夕食は先にすませておいて」 「はい」  かなり心配されている。  アポロンはようやく扉を開け、部屋を出た。  扉が閉まり、外から鍵がかかる。合い鍵は部屋の中にある。  ヒュアキントスは、剣をベッドの脇に立てかけた。  部屋に備えつけられている浴室で汗を流そうかと考え、そういえばアポロンはまったく汗をかいていなかったと思い出し、彼と自分との差を改めて感じさせられる。 「ヒュアキントス」  幼い声に名を呼ばれた。 「キューピッド。いらっしゃい」  やっぱり、窓から入ってくる。 (あれ?アポロン様、窓閉めたよね)  実は、部屋の主が術をかけない限り、神々にとっては窓も鍵も意味がない。アポロンはよくこの部屋を出入りするが、彼自身は別の部屋を持っている。  まあいいかと思い、ヒュアキントスはキューピッドを見る。 「今日は、どうしたの?」  キューピッドは、背中に何か隠し持っている。 「僕ね、ヒュアキントスにプレゼントがあるの」 「プレゼント?」 「はい!」  キューピッドが言ったとたん、大きな赤い薔薇の花束が差し出された。 「わあ、きれい。ありがとう」  小さな子どもにもらうと、なお嬉しい。ものだけでなく、もらったことが嬉しいのである。  キューピッドはニコニコしながら、 「誕生日おめでとう。ヒュアキントス」 「僕、まだ誕生日じゃないんだけど、ありがとう」  ヒュアキントスは、そっと花束を受け取る。  キューピッドが声をかける。 「棘に気をつけてね」  棘は全て切り取られている。 「ありがとう」  たくさんの意味で。  花束をテーブルに置き、リボンをほどいたところで、ヒュアキントスは思い出した。  今使っているもの以外に、花瓶がない。 「僕が飾ってあげる」  キューピッドは、一輪挿しの花瓶からヒヤシンスを抜き、薔薇の花束をぐっと挿し込んだ。  窮屈そうではあるが、きれいに収まっている。 「これは古いから捨てておいてあげるね」  キューピッドはヒヤシンスをちらつかせ、窓の外へ放り投げようとした。 「待って」  ヒュアキントスは慌ててヒヤシンスを取り戻す。  アポロンからもらった花。 「一緒に飾ろうね」  そう言うとヒュアキントスは、ヒヤシンスを薔薇の花束の中に捻じ込む。  何とか収まった。 「そんなの変だよ」  不満げに言うキューピッドに、ヒュアキントスはにっこりと、 「いいの。僕、どっちも好きだから」  アポロンの花を捨てさせようと思ったのだが、失敗した。キューピッドは頬を膨らませ、窓から外へ出てゆく。  ヒュアキントスはキューピッドを見送りながら、ふふっと笑う。 「あのふたり、好き合ってるよね」  ヘルメスがアルテミスに言う。  外でアポロンを待ちながら、アルテミスは金の毛並みの牛を撫でている。懐の中にある小さな金の牛の置物を、地に落とすとこの大きな牛になる。  撫でながらアルテミスは、 「当事者たちが気づいてないのよ。お互い自分の気持ちを隠すのに必死で。蓋を開ければ簡単にすむのにね」 「アポロンがあの調子で、ヒュアキントスはデルポイの神殿へ来てくれるんだか」 「お兄様、だめもとだそうよ。最初は、嫌われるのが怖くて、黙っているつもりだった。でもね、黙ったまま仲よくされると、今度はそっちがつらくなるの。言ってしまってから、相手がもし嫌がれば、別れたほうが楽だって」 「それ、本当?」 「分からない。そんなこと言いながら、今でもヒュアキントスに隠し事ばっかりだもの。本当は嫌われたくないんじゃないかしら」  そう言うと、アルテミスは牛を撫でる手を止め、 「変えられないと思うわ。だってお兄様は、ダプネを見初める前から、ヒュアキントスを見てたのよ。ダプネに恋をしたのも、一時的に大勢の相手と恋をしたのも、ヒュアキントスから気を紛らわすため・・・・・いいえ、彼を愛するための準備だったのかもしれない」 「今はヒュアキントスに恋をしたというより、彼のところへ戻ってきたという感じだね」  そのとき、アポロンが神殿から出てきた。 「何を話してるんだい」  アルテミスはごまかす。 「ヒュアキントスの残したアンプロシア、どこにあるんだろうって」 「ああ。僕とヘルメスで、碁を打ちながら全部食べたよ」 「えっ!なんで呼んでくれなかったの?」 「この前、アルテミスは間食を控えるって言ったよね」  アルテミスは言葉に詰まった。  その間にアポロンは、腰帯についている羽根飾りを一枚取り、宙へ投げる。羽根は煙を上げ、美しいペガサスに変わった。アポロンの神獣である。  花瓶に水を注ぎ、自身もシャワーを浴びた後、ヒュアキントスはベッドに座って、アポロンから借りた竪琴を練習していた。  案外、覚えているものである。長らく弾いておらず、音がつまずいたりもするが、着実に思い出している。  アポロンのように、毎日やっていれば、もっと上手くなるのであろう。  タミュリスに教わった曲を弾いていると、彼の語っていた夢が甦る。  彼はあらゆる土地を訪れ、多くの人に歌を聞かせた。特定の誰かと仲よくなることはなく、一人の者のために歌うこともなかった。  タミュリスは、ヒュアキントスに言っていた。 ―――――「いつか、愛する者と巡り会えたら、その者のために歌を作りたい」  そんなに見つめられても、自分が手伝えるはずもないのに。  ヒュアキントスは苦笑する。  突然、両開きの窓が開き、風が吹き込んだ。キューピッドが去った後、窓を閉めたが、鍵をかけていなかった。  竪琴をベッドに置き、窓を閉めようと立ち上がると、  サアッ  風が散るように消え、窓の前に青年が佇んでいた。少年に近い年頃にも見える。精悍な顔つきで、瞳の色と同じ淡い緑の衣を、蝶の羽のように翻している。 「ゼピュロス様!お久しぶりです」  ヒュアキントスは親しげに歩み寄る。 「やっぱり、西風の神様だったんですね」  アポロンやクレイオがそうであったように、彼も神と同じ名を持つので、もしかしたらと思っていた。  ゼピュロスは微笑む。 「元気そうだな」 「はい。皆さん、よくしてくださいます」  ゼピュロスは、すっと手を伸ばす。 「見せてみろ」  ヒュアキントスの頭に手を添える。 「どの辺を打った?」  円盤投げの事故のことを知っている。 「それが、よく分からなくて」  ヒュアキントスは言った。 「きれいに治されているんです」  その声を聞きながら、ゼピュロスはヒュアキントスの髪をすくう。 「ああ」  金糸のような、細く柔らかい髪が、指の間をすり抜ける。 「本当に、綺麗だ・・・・・」  しばらくその髪を撫でる。  ヒュアキントスは口を開いた。 「安心しました」  ぴたりと、ゼピュロスの手が止まる。 「ゼピュロス様、あれから来てくださらなかったから、僕、嫌われたんじゃないかと」  ヒュアキントスは上目遣いにゼピュロスを見、 「まだ、怒ってますか?」  ゼピュロスは目を逸らし、手を離す。 「いいや」  ゆっくりと歩き出す。 「過ぎたことだ」  部屋の様子を窺い、テーブルの花瓶と、石の円盤を見る。  ヒュアキントスはそんな彼を目で追い、 「ゼピュロス様のことが、嫌いなわけではないんです」  不意に、ゼピュロスは立ち止まる。 「ただ、好きの種類って、たくさんあって・・・・・」  ゼピュロスは、ベッドの上の竪琴に目を留めている。  ヒュアキントスは椅子を引き、 「お掛けになってください。今、お茶を淹れますね」  ゼピュロスは踵を返す。 「帰る」  キッチンへ入りかけていたヒュアキントスは足を止め、 「ゆっくりなさってください」 「いい。様子を見にきただけだ」  ゼピュロスはそう言うと、バルコニーに出て、手すりの上に立つ。そして飛び降りる。 「ゼピュロス様っ」  ヒュアキントスがバルコニーへ出たときには、ゼピュロスは衣をはためかせて飛んでいた。  見えなくなった。 「・・・・・ありがとうございます」  あのとき、タミュリスが亡くなったことを、知らせにきてくださって。  飛びながら、ゼピュロスは思っていた。  あのとき、友人の死を嘆き悲しむ彼を、一人にさせてやったのが間違いだったのか。次にスパルタの丘へ来ると、彼の隣にはアポロンがいた。  ヒュアキントス、世の中は理不尽だと思う。全て円盤に壊され、お前と私だけが残されればよかったものを。  ゼピュロスの姿は鱗粉となって散り、淡い緑の蝶が薔薇園の中へ入って行った。  またしても、サイコロは地図に跳ね返された。 「なぜだ!」  ゼウスがテーブルをどんと叩く。  アテナとフローラは心配そうにゼウスを見守る。  ヘーラーが床に転がったサイコロを拾う。これで何千個目であろう。床のいたるところには、試し済みの幾千もの地図が山積みになっている。 「お兄様、みんな心配しているわ。円盤投げの事故のこと、なぜ濡れ衣をかぶっているの」  天を駆ける金の牛に跨り、アルテミスは腑に落ちない顔で言う。  アポロンはペガサスに乗り、ヘルメスは翼の生えたサンダルで空を飛んでいる。 「ヒュアキントスを混乱させてはならない」 「あの子の中では、お兄様が悪者になってしまうわよ。本当はそうじゃないのに」  アポロンは、黙り込む。  アルテミスは不敵に笑い、 「私が彼に、本当のことを話してあげましょうか」 「余計なことはしないでくれ」 「って、虹の女神(イリス)が言っていたわ」 「彼女にも、そう伝えてくれ」  アルテミスは肩を竦め、代わりにヘルメスが、 「アポロン。ヒュアキントスは明るくふるまっているけれど、内心どうだか。自分を死に追いやった相手が怖くないはずはないと思うよ」 「・・・・・分かっている」  分かっている。でも――――― ―――――「大切な人を、亡くしてしまって」  これ以上失うものがあれば、ヒュアキントスはどうなってしまうのだろう。タミュリスのことも、自分の命も、アポロンとの友情も、ゼピュロスとの友情も。  分からないということが、彼を守ることになるならば・・・・・。  水色にオレンジ色がマーブリングされた、暮れなずむ空。  アレスはなおも雲を飛ばし、下界を見回す。先ほど遠くにアポロンたちを見かけてから、少なからず焦りを覚えている。  新たに神となる少年の世話に勤しむはずの彼が、なぜアドニスを探しているのであろう。アドニスを探す役目の者が増えれば、自分が先を越されかねない。 「わー。ねえ、もっと高く飛べる?」  不意に、すぐ後ろで子どもの声がした。  アレスの雲の後ろ側に、キューピッドがちょこんと座っている。 「いつのまに」 「そうだ。ディオニューソスの果樹園へ連れてって。彼の苺、もう食べられると思うんだ」  ディオニューソスはオリンポスの庭にある果樹園で、葡萄をはじめとして林檎や苺など、多種多様な果物を作っている。  彼はキューピッドが果樹園へ無断で入っても、何も言わない。むしろ開放しているようである。その代わり、キューピッドに酒造を手伝わせる。キューピッドの足で踏み潰した葡萄は、綺麗な酒になるからである。  彼の果樹園で一年中実る“神の葡萄”は、ネクタルの原料になるらしい。 「私は忙しいのだ。そんな暇はない」 「どうして?アドニスは見つからないよ」 「うるさいっ。降りろ」 「やだ」  アレスは歯噛みする。 「落とすぞ!」 「ねえ、どうして?アレスは僕と一緒に出かけたことなんてなかったよ」  お父さんなのに。  アレスはキューピッドを、雲の外へ蹴り出そうとする。  が、キューピッドは動かない。 「一緒に遊んでくれたことも、一度もなかったよ」  ・・・・・どうして?お父さんなのに。  アレスは腰に携えている剣を鞘から抜き、振りかざす。  ・・・・・お父さん、だよね?  カキン  アレスと、それからキューピッドは、目を見開いた。  鉄の棒でアレスの剣を受け止めているヘパイストスが、キューピッドへ命じる。 「逃げろ」  キューピッドは我に返り、飛び去った。  アレスは、今度はヘパイストスに剣を振り下ろす。  ヘパイストスが、鉄の棒で受け止める。  ヘパイストスが雲に乗って、アドニスを探しにきたのか、キューピッドを探しにきたのかは定かではない。  しかし、ここでひとりでも多くの神を封じておけば、アレスにとってアドニスを探すのに有利である。  アレスの剣には、神の力を吸い取る能力がある。この剣で相手に傷を負わせれば、その傷口から相手の力を吸い取ることができる。  打ち合いは互角である。  戦いの神を相手に、鉄の棒でそうまでして立ち向かうヘパイストスの心情は、分からない。 ―――――「君がキューピッドを育てるのかい?」 「子どもの守護神が、引き取る気満々で準備してたわよ」  ヘルメスとアルテミスの言葉が甦る。  少しの沈黙の後、ヘパイストスは口を開く。 「ゼウス様から、アレスとヴィーナスが謹慎を言い渡されたときに、キューピッドの表情を見たんだ」  家族がばらばらになる、暗く、絶望した瞳・・・・・でもねキューピッド、可哀相なのはあのふたりではないんだよ。  夫の僕を裏切ったのは、ヴィーナスと、アレスなんだ。僕もばらばらになってしまう。 「それで思った。自分もあんな顔をしてたんだろうなって」  だからこそ教えてあげたい。正しいことと、間違っていること。  そして教えてほしい。過去をどう乗り越えるのか。  ヘルメスとアルテミスは、何も言わなかった。  そこへアポロンがやってきた。 「ヘパイストス。回転木馬を置く場所はあるかい」 「もくば?」 「僕とアルテミスが小さいときに使ってたおもちゃ、デロス島の母さんがまだ置いてるんだ。使う子どもたちが大きくなったのに。僕とアルテミスで運んでくる間に、君たちの部屋に置き場所を作っておいて」  “君たち”。  ヘパイストスとキューピッドの部屋。  今日からそうなった―――――  ヘパイストスの向こう脛に、アレスが蹴りを入れた。  相手がバランスを崩して倒れた隙を狙い、アレスは剣を振り上げる。  カキン  今度は、杯が剣を受け止めた。  横を向くと、壮年の男が酔ったような赤い顔で、にやにやしている。ディオニューソスである。もう片方の手には、いつも持っている酒瓶がある。彼は黒鷲に乗って飛んでいる。 「邪魔をするな!」 「邪魔はそっちだ。ヘパイストス、仕事の注文がある」  アレスを制し、ディオニューソスはヘパイストスに言った。  ヘパイストスはゆっくりと起き上がる。 「鉄製の大きな鳥籠を作れ。そうだな・・・・・こいつと、もうひとりぐらい入る大きさがよかろう」  目で指し示されたアレスが抗議しようとしたが、ディオニューソスは続け、 「底が抜けていて、上からかぶせられるようにしておけ。入り口を設けたところでおとなしく入らんだろうからな。わしに感謝しろ」  最後の言葉は、黒鷲に言ったようである。  アレスは剣を動かそうとするが、杯にぴったりとくっついて離れない。  その杯を持ったまま、ディオニューソスはヘパイストスに、 「ゆけ」  ヘパイストスは困惑しながらも、飛んで行った。 「待て!まだ決着はついていないぞ」 「わしの注文が最優先だ」  ディオニューソスがアレスを制す。  ヘパイストスの姿が見えなくなると、ディオニューソスは杯をぽこっと剣から外し、アレスをにやりと一瞥して去って行った。  アレスは残された剣を、まじまじと眺め回す。あれほど密着していたものを・・・・仕方がないのでヘパイストスのことは諦め、再びアドニスを探すことにした。 「ヒュアキントス―――――」  開け放たれている窓から、キューピッドが飛び込んできた。 「キューピッド!どうしたの」  彼の顔を見るなり、ヒュアキントスは急いでハンカチを取り出す。  涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭われながら、キューピッドは訴えるように、 「ねえ、ヒュアキントス。親って何のために子どもを産むの?」 「えっ」 「僕は勝手に生まれたわけではないし、僕が生まれたのは僕のせいじゃないよ」  キューピッドの身に何が起きたのかは分からない。  でも、彼の伝えたいことは、分かるような気がする。 ―――――「ねえ、どうして?どうして神様は人をお創りになるのに、その人たちを死なせてしまうの?」 「何のためにお創りになるの?」  昔、このような質問攻めをして、兄たちを困らせた記憶がある。 「ヒュアキントス。人の生きる意味は自ら作り出すものだ。神はそのきっかけをくださる。自分の思うように生きなさい」  そう教えてくれたのは、父王アミュクラスだった――――― 「キューピッド、もう自分で分かっているね。両親が揃っているのはいいことだと思う。でも、それが全てではないんだ」  ハンカチをどけ、キューピッドはこちらを見る。  ヒュアキントスはにっこりし、 「キューピッドの始まりが、アレス様とヴィーナス様だった。それから、キューピッドを導いてくれたのは誰?」  キューピッドはそれだけで、かけがえのない存在。そう思ってくれている相手を、 「自分が本当に大切にしたい相手を、大切にしていいんだよ」  誰にも強制されることなく、自分自身が必要であると感じるもの。  ぐすり。  キューピッドが、再び泣き出した。  ヒュアキントスは彼を抱きしめ、 「もうとっくに、よく分かっている」  気づく機会はたくさんあったはず。 「本当はね、キューピッドは、ちゃんとみんなに愛されているの」  だから回転木馬の後、皆が次々といろいろなものを運んできた。ヘルメスがキューピッドより大きなぬいぐるみを持っていたなんて知らなかったと、アポロンは話してくれた。  キューピッドのすすり泣く声が落ち着いた頃、ヒュアキントスはそっと彼を離し、 「じゃあそろそろ、キューピッドのお父さんのところへ帰ろうね」  キューピッド自身が、お父さんだと感じている相手のところへ。  キューピッドは頷き、ふわりと飛んで出て行った。  部屋へ戻っても、ヘパイストスはアレスと戦っていて、いないだろう。そう思っていたキューピッドは、のちに鍛冶場から金槌の音が聞こえてくるので、驚くこととなる。  ヒュアキントスはため息をつく。  自分が本当に大切にしたい相手を、大切にしていい・・・・・キューピッドに言えるのに、自分に言えない。  空は紺青に染まり、西の端だけかろうじて赤く燃えている。  夕食へは一人でゆくこととなった。  この神殿では皆、朝と昼は自室で、夜は広間に集まって食事するというしきたりがある。日中は集会などができるよう、広間では余計なものは取り除かれているが、夜になると椅子とテーブルが配置され、誰が用意しているのかたくさんのごちそうが並べられる。  最初は、ヒュアキントスは神の晩餐に参加することを躊躇していたのだが、アポロンに連れられてきてみると、皆当然のようにこちらの名を知っており、当然のようにこちらと接してくるのである。  ヒュアキントスは広間へ向かう。外は暗いが、神殿の中は照明のおかげで真昼のように明るい。  道すがら、誰にも会わないことを珍しく思ったが、皆は先に集まっているのであろう。そう思いつつ広間へ入ると、びっくり。食事の支度は整っているが、誰もいない。 「おい。ヒュアキントス」  ディオニューソスがいた。長い髪の若者の姿である。ゼウスの王座であぐらをかいている。  歩み寄りながらヒュアキントスは、 「他の方々は・・・・・」 「仕事だ。探しものが見つからんらしい。しかも増えたとか。ヘパイストスには別の用事がある。キューピッドは奴とともに自分たちの部屋で食うだろう。つげ」  ヒュアキントスは差し出された酒瓶を受け取り、ディオニューソスの隣へ座る。 「ガニュメデスもいないんですか?」  どうやら彼には、自分より年下に見える者や歳が近く見える者に対しては、親しみを込めて呼び捨てにする癖があるらしい。フローラや虹の女神、泉の精もその対象である。相手もそれを気にしない。  ディオニューソスは酒を注がれながら、 「おとといから二日酔いだ」  おととい・・・・・三日間。 「お酒を飲んでしまったんですか?」 「なあに。明日には起きてくるだろう」  そう言うと、ディオニューソスは酒をぐいっと飲む。  ヒュアキントスはその様子を眺め、 「ディオニューソス様、本当は酒飲みではないでしょう」  香草をまぶして焼いた肉にかぶりつき、ディオニューソスは問う。 「なぜそう思う」 「ガニュメデスが言っていました。本当の酒飲みは手酌が一番なんだって」  そう言ってヒュアキントスは、ザクロの実を一粒食べる。  ディオニューソスは杯の酒を飲み干し、 「幸福になれるなら、酒など飲む必要はない。まあ、飲んだところでどうにもならんし、嫌なことを忘れられるわけでもないがな。単なる慰めだ」  突き出された杯に、ヒュアキントスは酒を注ぐ。 「ディオニューソス様にも、嫌なことがおありなんですか?陽気な方に見えるのに」  再び満たされた酒を、ディオニューソスは苦そうに飲み、 「昔、ある詩人が、わしの祭りの日にアポロンの(うた)を歌いおった」  アポロンの。  ディオニューソスには申し訳ないが、ヒュアキントスは内心嬉しかった。 「今もその詩を覚えている」  ディオニューソスは静かに歌い出す。 「白羊宮が双魚宮を追う  冬が春へと移り変わる」 「あっ。その詩、少し知ってます」  少しと言うより、この部分だけである。  ディオニューソスはにやりと笑い、続ける。 「緑の草原を色づけるのは  生まれ変わったヒュアキントス」 「えっ」 「我が父アポロンは―――――」 (我が父、アポロン?)  アポロン様に、子どもがいる・・・・・  子どもはいないって言ったのに  好きな相手、いないって・・・・・  食事の後、ヒュアキントスは自分の部屋へ戻り、本棚にあった分厚い本を開いていた。オウィディウス著『変身物語』。  でも、本当のことを知って、よかった・・・・・。  扉がノックされる。  アポロンだと思ってドキッとしたが、扉を開けるとヴィーナスが立っていた。 「何か、ご用でしょうか」 「アポロンがいなくて、あなた寂しいでしょうから、彼の代わりに話し相手にきたわ」 「あ・・・・・ご親切に」  ヴィーナスはつかつかと入り、勝手に椅子へ腰掛けると、ベッドの枕もとの竪琴に気がつく。 「珍しいわね。彼があれを貸すなんて」 「・・・・・アポロン様は、お優しい方です」 「あなたにはね」  ヒュアキントスは黄緑色の茶を淹れ、テーブルに置く。湯気はオリーブの香りがする。  ヴィーナスは無造作に茶碗を持ち、 「彼、人間みがあるでしょ」 「・・・・・少し」  ぶっ。少し?  ヴィーナスはひとしきり声を立てて笑うと、茶を一口飲み、 「昔はあんなじゃなかったわ。彼は美しく才長けて自信満々。ところが、ひょんなことから下界の花を気に入ってしまい、誤ってその花の上に石を落してから、やけに命というものに慎重になったの」 「そう・・・・・ですか」 「救えなかったのね。天界は時間の流れがゆっくりだから、それに慣れてしまうと、下界の花が萎れるスピードに追い着けないのよ」  正直、ヒュアキントスは誰かと話す気分ではなかった。  ヴィーナスは知ってか知らずか、 「あの月桂樹、つけてると弾きづらくない?」  竪琴を指差した。 「お借りしているものですから、勝手に外すことはできません」 「そうね。・・・・・形見だものね」 「形見?」  ヴィーナスはにんまり笑い、 「アポロンは、昔キューピッドを怒らせて、あの子の懲らしめで人間の女に恋をしたの。あの子はその女にも術をかけ、彼女にはアポロンを嫌いになるよう仕向けた。アポロンは彼女を追うけれど、彼女は逃げる。それでも追いかけてくるの」  ヒュアキントスはじっと聞いている。 「彼女は父親に助けを求めた。父親は妻を亡くし、女神を後妻にしていたの。その女神の力で、娘の姿を木に変えた。その木は彼女の名を取り、月桂樹(ダプネ)と呼ばれている」  ヒュアキントスは何も言わない。しかしその様子は、落ち着いているようにも見える。  ヴィーナスは目を丸くし、 「あら。知っていた様子ね」  ヒュアキントスはにっこりする。 「いいえ。知りませんでした」  ヴィーナスはヒュアキントスを見つめ、 「あなた、ダプネと似てるわね。もしかしてアポロンは、ダプネの代わりにあなたとくっついてんじゃないの?」 「異母姉が同じ名前です。でも僕たちは、似てないとよく言われていましたよ」 「そう?じゃあ私の目が悪いのね」  そう言うと、ヴィーナスはまた茶を一口飲み、 「この話は知らない?ダプネに失恋した後、アポロンはカッサンドラという女に恋をし、彼女に予言能力を与えた。でも彼女は、自分がアポロンに裏切られると予言してしまい、彼女もアポロンのもとを去った」  ヒュアキントスは、やはり落ち着いている。  ヴィーナスは肩を竦め、 「そうそう。私とアレスが恋仲になったとき、アポロンは私たちを侮辱したわ。ヘパイストスを裏切ったって。私とヘパイストスは好きで結婚したわけじゃなく、ヘーラーにやらされただけなんだから、仕方ないのに。美の女神の夫が醜いなんて恥だもの」  茶を飲み干し、「おかわり」と茶碗を差し出す。キューピッドとそっくり。  ヒュアキントスが茶を淹れる間にも、ヴィーナスはしゃべり続ける。 「だから、キューピッドに恋の矢を射させて、アポロンを今度はレウトコエーという女に恋させた。その頃、彼はすでにクリュティエーという別の女と愛し合っていて、嫉妬したクリュティエーはレウトコエーの父に、あなたの娘が男と密会していると告げたわ」 「キューピッドをそんなことに利用してたんですか」  アポロンの懐にある金の矢の刺繍、あれら全て・・・・・。  ヒュアキントスの咎めるような眼差しは、あのときのアポロンと重なる。気に食わない。 「話を逸らさないで。怒ったレウトコエーの父は、娘を砂へ生き埋めにしたわ。アポロンは彼女を乳香の木に変えた。クリュティエーは結局アポロンに振り向いてもらえず、ヒマワリとなって、いつまでも愛しい彼を目で追っている」 「・・・・・僕に何が言いたかったんですか」  ヴィーナスは真顔になる。 「ゼピュロスになさい」 「えっ」  ヴィーナスは二杯目の茶を飲み、 「あなたのお相手は、ゼピュロスになさい。彼はあなたを大切にするわ。あなた、彼から愛していると告白されたことがあるでしょう。アポロンはいつあなたを裏切るか分からない」 「ヴィーナス!」  突然、勢いよく扉が開き、クレイオが入ってきた。  ヒュアキントスは驚く。 「お母さま・・・・・」  クレイオはヴィーナスを()めつけ、 「この子に、いい加減なことを吹き込まないで。あなたが仕組んだことでしょう。ヒュアキントス、彼女を信用してはいけない。あなたに円盤をぶつけたのは、ゼピュロスなの」  ヒュアキントスはクレイオを見つめる。  ヴィーナスは冷静に、 「いいのかしら。アポロンがこの子に内緒にしていることを、私はともかく、彼の子分であるムーサがばらしてしまって」 「あなたも本当は言ってはいけなかったのよ。もう仕方がない。ヒュアキントス、あなたがアポロン様と円盤投げをしていた際、あなたに拒絶されたゼピュロスが風を吹かせ、アポロン様の投げた円盤の軌道を逸らしてしまったの」  ヒュアキントスは微動だにしない。  ヴィーナスは嘲笑する。 「この子の拠り所をなくさせてどうするの?アポロンは、自分の愛した相手が不幸になるから、自分は何も言わず、ゼピュロスをこの子の命綱にしようとしてたのよ」  それからヒュアキントスに目を向け、 「ゼピュロスが何であれ、アポロンがあなたにとって危険であることに変わりはないわ。彼とはさっさと別れてしまいなさい」  ヒュアキントスは黙ってヴィーナスを見ていたが、やがてふふっと笑う。 「ヴィーナス様、誤解しておられます」  ヴィーナスは眉を顰める。 「どういうこと」  ヒュアキントスは微笑み、 「僕はアポロン様を神様として崇めています。アポロン様のお教えくださる学問や技術を身につけ、彼へ貢献できるよう。天文学、音楽、剣術、円盤投げ、全てそのために存在します。それ以外の何ものでもなく、そのことはいつまでも変わりありません」  本当ですよ。アポロン様。 「アポロン様にとっても、きっとそれが一番いいのだと思います。他の感情を抱くのは、彼に対して失礼で・・・・・彼は困るだけだろうと思っていました」  それは、自分に言い聞かせてきた言葉でもある。 「本当なら、姿さえお目にかかることのできない方です。いてくださるだけで充分嬉しいし、僕は何も求めていないし・・別れるも何も、もともとそんな関係では・・・・・」  彼のために、期待しないようにしてた。心に封じ込めるつもりだった。けど・・・・・。  ヴィーナスはけたたましく笑う。 「そう。あなたもともと、アポロンを神としか思ってなかったのね。クレイオ、聞いた?あんたのボスは、また同じ過去を繰り返していたわ」  クレイオは心なしか、悲しげに見える。お母さま、アポロン様を崇めるよう言ったのは、ご自分ですよ。  笑いがおさまると、ヴィーナスはヒュアキントスに目を戻し、 「でもね、崇めるのもどうかしら。アポロンは、あなたの大切な人を死に追いやったのよ」 「ヴィーナス!」  クレイオは怒鳴るが、ヴィーナスはかまわず、 「まっ、実際に仕掛けたのはムーサだけどね。あなたがアポロンと出会う以前につき合っていたタミュリスは、ムーサの催眠によってあなたから離れて旅立ち、ムーサとの竪琴の腕比べに負けて彼女たちに殺されたの」 「えっ・・・・・」  ヒュアキントスは、目を見開いた。  クレイオはうつむいている。  ヴィーナスは平然と、 「彼女たちは、自分のボスのためなら何でもするわ。彼がわざわざ頼まずともね。ヒュアキントス、あなたがアポロンを信仰し始めたのは、タミュリスが死んだと聞いてからよね。タミュリスがいる間は彼に夢中で、デルポイの神殿へ巡礼に来たのは幼い頃に一度きり」  ヒュアキントスは硬直している。 「タミュリスがいなくならなければ、あなたはアポロンを信仰しなかったんじゃないの?」 「そんな、こと・・・・・」  そんなことは、ありません。 「じゃあ、なぜ泣いているの」 「えっ―――――」  ・・・・・生温かい感触が、ヒュアキントスの頬を伝った。  クレイオは目を見開く。  ヴィーナスは茶碗の中身を飲み干し、 「あなた、キューピッドのことは上手く泣かせておいて、自分が泣くのは下手なのね」  椅子から立ち上がり、扉へと歩きながら、 「そんなんだから、アポロンに心配されるのよ」  我慢なんてしなくていいのに。無理する必要なんて、これっぽっちもないのに。 (・・・・・見てたんですか。キューピッドのこと)  ヒュアキントスの心を見透かしたように、ヴィーナスは把手に手をかけ、 「何となく分かったわ。・・・・・何だか、よく分からないけど」  そう言うと、扉を開け、部屋から出て行った。  クレイオはどうしようか迷った末、もう一度ヒュアキントスを窺い、彼女も部屋を出た。  扉はそっと閉まる。  消灯しても寝つけず、ヒュアキントスはベッドに横になってぼんやりしていた。 「タミュリス・・・・・」  不意に、窓が開き、風が吹き込んできた。風がやむと、ゼピュロスが立っていた。 「呼んだか」 「・・・・・いいえ」  身を起こすヒュアキントスに、ゼピュロスはゆっくりと歩み寄りながら、 「怖くないのか」 「・・・・・怖いです。でも、もっと怖いものを知っています」  タミュリスを殺したのが、自分の母親だなんてね。しかも、僕のため?僕に神を信仰させるため?  自分のせいで、彼が殺されてしまったようなものである。  ゼピュロスはベッドの前で立ち止まり、 「後悔している。悔やんでも悔やみきれない。もしも、お前が私に、もう一度チャンスをくれるのならば、二度とあんなことにならないと誓う」 「・・・・・どういう意味ですか」 「トラキアの洞窟で、一緒に暮らしてほしい」  ヒュアキントスは、じっとゼピュロスを見つめる。 「嫌です」 「洞窟と言っても、内装はここと変わらないのだぞ。広いし、必要なものは揃っている。床と天井は大理石だ」 「そういうのを求めているんじゃなく、僕、ゼピュロス様のことは・・・・・」  ゼピュロスはヒュアキントスを見据えていたが、不意に「来れば分かる」と手をつかみ、彼を連れてゆこうとした。 「離してください!」  手を振りほどこうとするヒュアキントスを、ゼピュロスは軽々と抱え上げる。 「アポロン様!」  未だにアポロンに助けを求める自分が虚しい。彼に頼らないようにしたいのに。  ゼピュロスはそのまま、窓のほうへと歩き出す。  と、テーブルの横を通りかかった拍子に、もがいていたヒュアキントスの足が、花瓶に当たった。  ヒュアキントスがあっと叫ぶまもなく、花瓶は床へ落ちてゆき・・・・・受け止められた。  見知らぬ少年が、花瓶をテーブルへ戻す。ヒュアキントスと同じ年頃に見える。茶色の巻き毛が月明かりに照らされ、精悍な黒い瞳がゼピュロスを睨む。 「アドニス」  呟いたゼピュロスに、少年は体当たりした。ヒュアキントスの身体を押さえ、ゼピュロスから引き離す。  思いの外、強い力で飛ばされ、ゼピュロスは丁度、ベッドの上へと倒れた。上体を起こしたときに、枕もとの竪琴に手が当たる。彼はその竪琴を見つめる。  大丈夫かと声をかけられ、ヒュアキントスは呆然と少年を見る。 「どうやって・・・・・」  この部屋へ来たのだろう。ゼピュロスやキューピッドなら、飛んで窓から侵入できるが。  ゼピュロスはベッドを下り、足早に窓へと歩いて、 「お前がここにいることを、ヴィーナスに伝えておく」  少年に言うと、バルコニーへ出て、飛び去った。  少年はゼピュロスが出て行った窓を閉め、鍵をかける。そして懐から糸巻きを取り出す。  ヒュアキントスはおずおずと、 「アドニス・・・・・?」  返事はない。窓の把手と把手に糸を結びつけている。  脱走する前に、ヴィーナスから適当に盗んでおいた、赤い糸。この糸で結び合わせれば、窓と窓は引かれ合い、容易には開かない。 「助けてくれてありがとう。あの・・・・・」  ヒュアキントスの声が聞こえないかのように、少年は他の窓や扉にも同じことをする。  だが、赤い糸というのは儚いもので、一度使った分は朝になると消えてしまう。それでも夜の間はヒュアキントスを守れるだろう。 「ヴィーナス様が、探してたみたいだけど・・・・・」  諦めたと言っていたが。  ようやく作業を終え、少年はこちらを向く。 「知ってるなら、匿ってくれ」 「ここにいても見つかるかもしれないよ」 「さっきゼピュロスが言ったのは脅しだ。あいつも他の神から隠れてるんだから」  大方こちらと争う気はなく、他者を追い出し、ヒュアキントスをさらいたいのであろう。  でも、と憂えるヒュアキントスに、アドニスは花瓶を指差し、 「あれがあるから大丈夫」  指し示されているのは、ヒヤシンスではなく、薔薇のようである。  それからベッドへ向かう。 「どうして逃げているの?」  尋ねるヒュアキントスに、アドニスは我が物顔で、ベッドにごろんと横たわり、 「明日話す。今夜は寝かせてくれ。ずっと外にいて疲れてるんだ」  毛布をかぶりかけ、どぎまぎしているヒュアキントスに、 「どうした?入っていいぞ」  そりゃあ、そうである。そこはヒュアキントスのベッドなのだから。  ヒュアキントスはこぼれた水を拭き取り、花瓶に水を注ぎ足してから、自分もベッドに入る。  いろいろあって眠れないかと思っていたが、アドニスに優しく胸を叩かれているうちに、うとうとし始めた。

ともだちにシェアしよう!