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4 運迷
「ありがとうございます!」
ヘパイストスから贈られた剣を、ヒュアキントスは鞘から抜いた。刀身が煌めく。
ヒュアキントスの部屋へ来ていたヘルメスが、ヘパイストスに言う。
「相変わらず仕事が早いね」
照れ隠しに頭をかくのは、ヘパイストスの癖である。
アルテミスがアポロンに言う。
「お兄様。試しにヒュアキントスと打ち合ってみたら?」
アポロンは、右手で軽く拳をにぎる。すると拳が発光し、光が長く伸びて剣となり、彼の手ににぎられていた。
あっけに取られているヒュアキントスに、アポロンは微笑む。
「表でやろうか」
「あっ。はい」
もう、いちいち驚かないほうがいいだろうか。
カキン、カキンと、剣と剣がぶつかり合う。
表玄関の石段に腰を下ろし、ヘルメスとアルテミスとヘパイストスは、アポロンとヒュアキントスの打ち合いを見物する。
「やるじゃん。綺麗な顔してさ」
ヒュアキントスを見てヘルメスが言う。
もちろん、アポロンが加減しているが、それにしても凄い。身を引くことなく、盛んに打ち返してくる。
「アテナがいなくてよかったわね。彼女、武術に関してはスパルタ教育よ」
「ヒュアキントスはスパルタ教育に慣れてるけどね」
スパルタは、軍事教育が厳しい国家として有名である。
アルテミスに言った後、ヘルメスはヘパイストスに、
「さっきヒュアキントスに話してたけど、相手を斬るんじゃなく、眠らせる剣なんだって?」
ヘパイストスは頷く。
「万が一、アレスが死者の軍隊を使ってアドニスを殺そうとすれば、ヒュアキントスまで巻き込まれかねない。呪詛で動いている死者を斬っても仕方がないから、霊を鎮める剣にしたんだ」
彼もそのことについて考えていたのである。
ヘルメスは息をつく。
「アンプロシアを食べたところで、ネクタルを飲まなければ不死にはなれないからね」
「お兄様、あれからネクタルをどうしたの?」
アルテミスがヘルメスに尋ねる。
「ヒュアキントスの部屋の棚の、一番高いところに黙って寝かせている」
「それじゃあヒュアキントスは飲まないわ」
「勝手に飲みはしないだろうけど、飲めと言われても飲まないと思うよ。彼は真面目だし」
「そりゃあ、迂闊に飲ませていいものではないけど」
キューピッドのように、もともと神である子どもならば、飲んでも平気であろう。
頭の後ろで手を組みながら、ヘルメスは言う。
「アドニスも同じだ。ヴィーナスが彼にアンプロシアを食べさせたけれど、ネクタルには手を出せなかった」
「アンプロシアを食べさせたの?アドニスに関しては、死なせるとは決まってないけれど、生かしておくともまだ決まってないわ」
「ヴィーナスが無断で持ち出したんだ。隠れ蓑を使って。ゼウス様にすぐばれたけど」
アポロンにはともかく、打ち合いに夢中のヒュアキントスには、これらの会話は聞こえていない。
アルテミスは、ぽんと手を打つ。
「そうよ。アドニスは隠れ蓑を使って逃げ出したんじゃないかしら」
「あれは、姿を消すことはできても、気配を消すことまではできない。ゼウス様の占いにも見つかる」
ゼウスの側近だけあって、ヘルメスは詳しい。
ふたりの会話を聞いていて、ヘパイストスはふと気がついた。
「ところでふたりとも、アドニスを探さなくていいのかい?」
ヘルメスとアルテミスはのんきに笑う。
「休憩だよ。休憩」
「ヒュアキントスがいると癒されるの。ここじゃあ私たちに敬語使ってくれるの、あの子だけだし」
「他は皆、同格の神だからね」
どこにいても崇められるのは、ゼウスとヘーラーぐらいである。宴で酌を務めるガニュメデスは人間から神に昇格した身であり、今も他の神々を先輩として敬っているが、彼は以前にネクタルを飲んで以来、まだ寝込んでいる。
ヘパイストスは苦笑した。
そのとき、
「アポロン―――――」
空から声が聞こえ、剣を止めて、皆は振り仰ぐ。
花びらに乗ったフローラが着地し、フクロウに乗ったアテナが後から続いた。ふたりが降りると、花びらとフクロウは小さくなり、主の手もとへ飛ぶ。
フローラは花びらをにぎりしめ、アポロンへと駆け寄り、
「ゼピュロスがいないの」
ヒュアキントスの手前、小声で告げた。
聞いていた神々は、一瞬にして顔を強張らせる。
一晩じゅう探し回っていたのであろう、フローラは青ざめた顔で、
「トラキアの洞窟じゅうを探したし、スパルタにも行ってみたけれど、どこにも・・・・・」
言いかけて、はっとし、
「ごめんなさい。アドニスを探さなければいけないのに、私ったら、ついゼピュロスのことばかり・・・・・」
「それはいいんだ。それより、他にゼピュロスが行きそうな場所は?」
アポロンに問われ、フローラは力なくかぶりを振る。
「心当たりのある場所は、全て見たわ。あとはこのオリンポスだけ」
「分かった。僕たちも探す」
アポロンの言う“僕たち”の中に、ヘルメスとアルテミスが入るのは、神が定めた不文律である。
ヘルメスとアルテミスは立ち上がる。遅れてヘパイストスも立ち上がる。
「ヘパイストス。君は自分の部屋へ戻っていて」
アポロンに言われ、ヘパイストスは苦笑する。
「僕は邪魔かい?」
「いいや。君はキューピッドと一緒にいるほうがいい。彼がいつでも帰ってこられるよう、今は自分の部屋にいて」
キューピッドはふらりと出かけ、いつの間にか帰ってくる。
分かったと、ヘパイストスは背を向け、神殿内へと歩き出す。
「我々は、事の次第を父上へ報告しにゆく。父上に、ゼピュロスの行方を調べていただかねばならない」
アテナはゼウスの脳味噌から生まれ、ゼウスのみを親とする。彼女もフローラと連れ立ち、神殿の中へ入って行った。
ようやくアポロンは、ヒュアキントスに向き直る。
ヒュアキントスは困った顔をして、アポロンを見上げている。何が起きたのかさっぱり分からない。
アポロンは少し屈み、ヒュアキントスと目を合わせ、
「ごめんね、急用ができたんだ。君にも部屋で待っていてほしい」
「お仕事ですか?」
「まあ、そんなところかな」
ヒュアキントスは一瞬寂しげな様子をしたが、すぐに笑顔を見せ、
「お気をつけて」
そこへ、
「アポロン」
ヘルメスが呼んだ。
「一緒にいてあげたら?」
アルテミスも、そうするようにと目で語る。
ヒュアキントスは慌てて、
「一人で平気ですよ」
アポロンはしばらく彼を見つめ、それから微笑む。
「部屋まで送るよ」
「大丈夫です。五日間もこの神殿にいるんですよ。もう迷子にはなりません」
正確に言うと、永眠から目覚めて五日間である。
「それは、そうなんだが・・・・・」
アポロンは、またしばらく考えた。
神殿じゅうを巡る長い廊下の、どこをどうゆけば自分の部屋へたどり着けるのか、ヒュアキントスは確かに覚えた。しかし彼を一人で歩かせると、出会う神々から足止めを食らい、結局アポロンが見つけるまで帰れずにいる。
静寂の神に熱心に口説かれていたり、嘘の神に本気で口説かれていたり、泉の精に恋人よろしくあちこち連れ回されていたり・・・・・やっと部屋に着いたと思えば、色彩の神が背中にくっついていたり。
「やっぱり送るよ」
油断も隙もない神々のことを思い、アポロンはそう決断した。
ヘルメスとアルテミスを玄関で待たせ、アポロンとヒュアキントスは廊下を歩く。
ヒュアキントスの剣は鞘に収まり、彼の腰帯に挟まれている。
アポロンの剣は光でできているので、必要のないときにはすっと消える。彼の暮らしはつくづく便利である。
歩きながら、ヒュアキントスは何だか申し訳なかった。自分がアポロンの足手纏いになっているような気がする。
ヒュアキントスの部屋へ近づいた頃、アポロンは急に立ち止まった。
うつむいていたヒュアキントスも、慌てて立ち止まる。
ヒュアキントスの部屋の前に、女が立っている。裾の長い服を着て、長い髪をうねらせ、両目をぱっちり開いている。誰かと似ている気がする。
組んでいた腕をほどき、女は軽く片手を上げ、
「ごきげんよう」
アポロンは、低く呟く。
「ヴィーナス」
それを聞いて、ヒュアキントスは、彼女が誰と似ているのか分かった。
アレスやヴィーナスは、話には聞いていたが、今までヒュアキントスの前に姿を現したことはなかった。
「アドニスを探してたんじゃないのか」
アポロンの声は張りつめている。あまり仲がよくないのだろうか。
対するヴィーナスは、気怠げに肩を竦め、
「もう諦めたわ」
「諦めた?」
繰り返したアポロンの語尾が、不機嫌である。
「どんなに探しても見つからないんだもの。生きてやしないわよ。冥界の連中にさらわれたんだわ」
「無責任だな」
そんなアポロンの言葉を気に留めず、ヴィーナスはヒュアキントスへ視線を移した。
何の話なのか分からず、ヒュアキントスは狼狽している。
ヴィーナスは、別の話題を口にした。
「ヒュアキントス。何つけてるの」
初対面の神がこちらの名を知っていることには、ヒュアキントスはもう驚かない。
「何か、ついてますか?」
相手が自分の頭の辺りを見ているので、ヒュアキントスは頭を手で払ってみた。
ヴィーナスはヒュアキントスへ近づき、彼の肩に両手を置いて、深く息を吸う。
「とってもいい香り。何の香水をつけてるの」
「えっ」
ヒュアキントスはさらに狼狽した。
「何も・・・・・」
言いかけたとき、
「ヒヤシンスだよ」
アポロンが答えた。
ヒュアキントスは驚いて彼を見る。
しかしヴィーナスのほうは、
「そう・・・・・、そうだったわね」
すんなりと納得した。
ヒュアキントスはアポロンを見つめる。
(どうして・・・・・)
皆、自分に何か隠している。
ヴィーナスはヒュアキントスから手を離し、
「またね。ヒュアキントス」
そう言い置いて、廊下の向こうへ消えて行った。
アポロンは、ヒュアキントスの部屋の扉を開けて待っている。
ヒュアキントスが部屋の中へ入ると、アポロンも入り、扉が閉まる。
自分たちの留守中に誰かに掃除されているのか、部屋がひとりでに掃除しているのか、ヒュアキントスが何もしなくても、部屋はいつもきれいである。
部屋じゅうの窓を閉め、鍵をかけると、アポロンはヒュアキントスと向かい合う。
「僕が戻るまで、あまり外へ出ないようにね」
「はい」
「それから、怪しいものは中に入れないで」
「はい」
アポロンは扉へと歩き、部屋を出ようと把手に手をかけ、
「僕の帰りが遅ければ、夕食は先にすませておいて」
「はい」
かなり心配されている。
アポロンはようやく扉を開け、部屋を出た。
扉が閉まり、外から鍵がかかる。合い鍵は部屋の中にある。
ヒュアキントスは、剣をベッドの脇に立てかけた。
部屋に備えつけられている浴室で汗を流そうかと考え、そういえばアポロンはまったく汗をかいていなかったと思い出し、彼と自分との差を改めて感じさせられる。
「ヒュアキントス」
幼い声に名を呼ばれた。
「キューピッド。いらっしゃい」
やっぱり、窓から入ってくる。
(あれ?アポロン様、窓閉めたよね)
実は、部屋の主が術をかけない限り、神々にとっては窓も鍵も意味がない。アポロンはよくこの部屋を出入りするが、彼自身は別の部屋を持っている。
まあいいかと思い、ヒュアキントスはキューピッドを見る。
「今日は、どうしたの?」
キューピッドは、背中に何か隠し持っている。
「僕ね、ヒュアキントスにプレゼントがあるの」
「プレゼント?」
「はい!」
キューピッドが言ったとたん、大きな赤い薔薇の花束が差し出された。
「わあ、きれい。ありがとう」
小さな子どもにもらうと、なお嬉しい。ものだけでなく、もらったことが嬉しいのである。
キューピッドはニコニコしながら、
「誕生日おめでとう。ヒュアキントス」
「僕、まだ誕生日じゃないんだけど、ありがとう」
ヒュアキントスは、そっと花束を受け取る。
キューピッドが声をかける。
「棘に気をつけてね」
棘は全て切り取られている。
「ありがとう」
たくさんの意味で。
花束をテーブルに置き、リボンをほどいたところで、ヒュアキントスは思い出した。
今使っているもの以外に、花瓶がない。
「僕が飾ってあげる」
キューピッドは、一輪挿しの花瓶からヒヤシンスを抜き、薔薇の花束をぐっと挿し込んだ。
窮屈そうではあるが、きれいに収まっている。
「これは古いから捨てておいてあげるね」
キューピッドはヒヤシンスをちらつかせ、窓の外へ放り投げようとした。
「待って」
ヒュアキントスは慌ててヒヤシンスを取り戻す。
アポロンからもらった花。
「一緒に飾ろうね」
そう言うとヒュアキントスは、ヒヤシンスを薔薇の花束の中に捻じ込む。
何とか収まった。
「そんなの変だよ」
不満げに言うキューピッドに、ヒュアキントスはにっこりと、
「いいの。僕、どっちも好きだから」
アポロンの花を捨てさせようと思ったのだが、失敗した。キューピッドは頬を膨らませ、窓から外へ出てゆく。
ヒュアキントスはキューピッドを見送りながら、ふふっと笑う。
「あのふたり、好き合ってるよね」
ヘルメスがアルテミスに言う。
外でアポロンを待ちながら、アルテミスは金の毛並みの牛を撫でている。懐の中にある小さな金の牛の置物を、地に落とすとこの大きな牛になる。
撫でながらアルテミスは、
「当事者たちが気づいてないのよ。お互い自分の気持ちを隠すのに必死で。蓋を開ければ簡単にすむのにね」
「アポロンがあの調子で、ヒュアキントスはデルポイの神殿へ来てくれるんだか」
「お兄様、だめもとだそうよ。最初は、嫌われるのが怖くて、黙っているつもりだった。でもね、黙ったまま仲よくされると、今度はそっちがつらくなるの。言ってしまってから、相手がもし嫌がれば、別れたほうが楽だって」
「それ、本当?」
「分からない。そんなこと言いながら、今でもヒュアキントスに隠し事ばっかりだもの。本当は嫌われたくないんじゃないかしら」
そう言うと、アルテミスは牛を撫でる手を止め、
「変えられないと思うわ。だってお兄様は、ダプネを見初める前から、ヒュアキントスを見てたのよ。ダプネに恋をしたのも、一時的に大勢の相手と恋をしたのも、ヒュアキントスから気を紛らわすため・・・・・いいえ、彼を愛するための準備だったのかもしれない」
「今はヒュアキントスに恋をしたというより、彼のところへ戻ってきたという感じだね」
そのとき、アポロンが神殿から出てきた。
「何を話してるんだい」
アルテミスはごまかす。
「ヒュアキントスの残したアンプロシア、どこにあるんだろうって」
「ああ。僕とヘルメスで、碁を打ちながら全部食べたよ」
「えっ!なんで呼んでくれなかったの?」
「この前、アルテミスは間食を控えるって言ったよね」
アルテミスは言葉に詰まった。
その間にアポロンは、腰帯についている羽根飾りを一枚取り、宙へ投げる。羽根は煙を上げ、美しいペガサスに変わった。アポロンの神獣である。
花瓶に水を注ぎ、自身もシャワーを浴びた後、ヒュアキントスはベッドに座って、アポロンから借りた竪琴を練習していた。
案外、覚えているものである。長らく弾いておらず、音がつまずいたりもするが、着実に思い出している。
アポロンのように、毎日やっていれば、もっと上手くなるのであろう。
タミュリスに教わった曲を弾いていると、彼の語っていた夢が甦る。
彼はあらゆる土地を訪れ、多くの人に歌を聞かせた。特定の誰かと仲よくなることはなく、一人の者のために歌うこともなかった。
タミュリスは、ヒュアキントスに言っていた。
―――――「いつか、愛する者と巡り会えたら、その者のために歌を作りたい」
そんなに見つめられても、自分が手伝えるはずもないのに。
ヒュアキントスは苦笑する。
突然、両開きの窓が開き、風が吹き込んだ。キューピッドが去った後、窓を閉めたが、鍵をかけていなかった。
竪琴をベッドに置き、窓を閉めようと立ち上がると、
サアッ
風が散るように消え、窓の前に青年が佇んでいた。少年に近い年頃にも見える。精悍な顔つきで、瞳の色と同じ淡い緑の衣を、蝶の羽のように翻している。
「ゼピュロス様!お久しぶりです」
ヒュアキントスは親しげに歩み寄る。
「やっぱり、西風の神様だったんですね」
アポロンやクレイオがそうであったように、彼も神と同じ名を持つので、もしかしたらと思っていた。
ゼピュロスは微笑む。
「元気そうだな」
「はい。皆さん、よくしてくださいます」
ゼピュロスは、すっと手を伸ばす。
「見せてみろ」
ヒュアキントスの頭に手を添える。
「どの辺を打った?」
円盤投げの事故のことを知っている。
「それが、よく分からなくて」
ヒュアキントスは言った。
「きれいに治されているんです」
その声を聞きながら、ゼピュロスはヒュアキントスの髪をすくう。
「ああ」
金糸のような、細く柔らかい髪が、指の間をすり抜ける。
「本当に、綺麗だ・・・・・」
しばらくその髪を撫でる。
ヒュアキントスは口を開いた。
「安心しました」
ぴたりと、ゼピュロスの手が止まる。
「ゼピュロス様、あれから来てくださらなかったから、僕、嫌われたんじゃないかと」
ヒュアキントスは上目遣いにゼピュロスを見、
「まだ、怒ってますか?」
ゼピュロスは目を逸らし、手を離す。
「いいや」
ゆっくりと歩き出す。
「過ぎたことだ」
部屋の様子を窺い、テーブルの花瓶と、石の円盤を見る。
ヒュアキントスはそんな彼を目で追い、
「ゼピュロス様のことが、嫌いなわけではないんです」
不意に、ゼピュロスは立ち止まる。
「ただ、好きの種類って、たくさんあって・・・・・」
ゼピュロスは、ベッドの上の竪琴に目を留めている。
ヒュアキントスは椅子を引き、
「お掛けになってください。今、お茶を淹れますね」
ゼピュロスは踵を返す。
「帰る」
キッチンへ入りかけていたヒュアキントスは足を止め、
「ゆっくりなさってください」
「いい。様子を見にきただけだ」
ゼピュロスはそう言うと、バルコニーに出て、手すりの上に立つ。そして飛び降りる。
「ゼピュロス様っ」
ヒュアキントスがバルコニーへ出たときには、ゼピュロスは衣をはためかせて飛んでいた。
見えなくなった。
「・・・・・ありがとうございます」
あのとき、タミュリスが亡くなったことを、知らせにきてくださって。
飛びながら、ゼピュロスは思っていた。
あのとき、友人の死を嘆き悲しむ彼を、一人にさせてやったのが間違いだったのか。次にスパルタの丘へ来ると、彼の隣にはアポロンがいた。
ヒュアキントス、世の中は理不尽だと思う。全て円盤に壊され、お前と私だけが残されればよかったものを。
ゼピュロスの姿は鱗粉となって散り、淡い緑の蝶が薔薇園の中へ入って行った。
またしても、サイコロは地図に跳ね返された。
「なぜだ!」
ゼウスがテーブルをどんと叩く。
アテナとフローラは心配そうにゼウスを見守る。
ヘーラーが床に転がったサイコロを拾う。これで何千個目であろう。床のいたるところには、試し済みの幾千もの地図が山積みになっている。
「お兄様、みんな心配しているわ。円盤投げの事故のこと、なぜ濡れ衣をかぶっているの」
天を駆ける金の牛に跨り、アルテミスは腑に落ちない顔で言う。
アポロンはペガサスに乗り、ヘルメスは翼の生えたサンダルで空を飛んでいる。
「ヒュアキントスを混乱させてはならない」
「あの子の中では、お兄様が悪者になってしまうわよ。本当はそうじゃないのに」
アポロンは、黙り込む。
アルテミスは不敵に笑い、
「私が彼に、本当のことを話してあげましょうか」
「余計なことはしないでくれ」
「って、虹の女神 が言っていたわ」
「彼女にも、そう伝えてくれ」
アルテミスは肩を竦め、代わりにヘルメスが、
「アポロン。ヒュアキントスは明るくふるまっているけれど、内心どうだか。自分を死に追いやった相手が怖くないはずはないと思うよ」
「・・・・・分かっている」
分かっている。でも―――――
―――――「大切な人を、亡くしてしまって」
これ以上失うものがあれば、ヒュアキントスはどうなってしまうのだろう。タミュリスのことも、自分の命も、アポロンとの友情も、ゼピュロスとの友情も。
分からないということが、彼を守ることになるならば・・・・・。
水色にオレンジ色がマーブリングされた、暮れなずむ空。
アレスはなおも雲を飛ばし、下界を見回す。先ほど遠くにアポロンたちを見かけてから、少なからず焦りを覚えている。
新たに神となる少年の世話に勤しむはずの彼が、なぜアドニスを探しているのであろう。アドニスを探す役目の者が増えれば、自分が先を越されかねない。
「わー。ねえ、もっと高く飛べる?」
不意に、すぐ後ろで子どもの声がした。
アレスの雲の後ろ側に、キューピッドがちょこんと座っている。
「いつのまに」
「そうだ。ディオニューソスの果樹園へ連れてって。彼の苺、もう食べられると思うんだ」
ディオニューソスはオリンポスの庭にある果樹園で、葡萄をはじめとして林檎や苺など、多種多様な果物を作っている。
彼はキューピッドが果樹園へ無断で入っても、何も言わない。むしろ開放しているようである。その代わり、キューピッドに酒造を手伝わせる。キューピッドの足で踏み潰した葡萄は、綺麗な酒になるからである。
彼の果樹園で一年中実る“神の葡萄”は、ネクタルの原料になるらしい。
「私は忙しいのだ。そんな暇はない」
「どうして?アドニスは見つからないよ」
「うるさいっ。降りろ」
「やだ」
アレスは歯噛みする。
「落とすぞ!」
「ねえ、どうして?アレスは僕と一緒に出かけたことなんてなかったよ」
お父さんなのに。
アレスはキューピッドを、雲の外へ蹴り出そうとする。
が、キューピッドは動かない。
「一緒に遊んでくれたことも、一度もなかったよ」
・・・・・どうして?お父さんなのに。
アレスは腰に携えている剣を鞘から抜き、振りかざす。
・・・・・お父さん、だよね?
カキン
アレスと、それからキューピッドは、目を見開いた。
鉄の棒でアレスの剣を受け止めているヘパイストスが、キューピッドへ命じる。
「逃げろ」
キューピッドは我に返り、飛び去った。
アレスは、今度はヘパイストスに剣を振り下ろす。
ヘパイストスが、鉄の棒で受け止める。
ヘパイストスが雲に乗って、アドニスを探しにきたのか、キューピッドを探しにきたのかは定かではない。
しかし、ここでひとりでも多くの神を封じておけば、アレスにとってアドニスを探すのに有利である。
アレスの剣には、神の力を吸い取る能力がある。この剣で相手に傷を負わせれば、その傷口から相手の力を吸い取ることができる。
打ち合いは互角である。
戦いの神を相手に、鉄の棒でそうまでして立ち向かうヘパイストスの心情は、分からない。
―――――「君がキューピッドを育てるのかい?」
「子どもの守護神が、引き取る気満々で準備してたわよ」
ヘルメスとアルテミスの言葉が甦る。
少しの沈黙の後、ヘパイストスは口を開く。
「ゼウス様から、アレスとヴィーナスが謹慎を言い渡されたときに、キューピッドの表情を見たんだ」
家族がばらばらになる、暗く、絶望した瞳・・・・・でもねキューピッド、可哀相なのはあのふたりではないんだよ。
夫の僕を裏切ったのは、ヴィーナスと、アレスなんだ。僕もばらばらになってしまう。
「それで思った。自分もあんな顔をしてたんだろうなって」
だからこそ教えてあげたい。正しいことと、間違っていること。
そして教えてほしい。過去をどう乗り越えるのか。
ヘルメスとアルテミスは、何も言わなかった。
そこへアポロンがやってきた。
「ヘパイストス。回転木馬を置く場所はあるかい」
「もくば?」
「僕とアルテミスが小さいときに使ってたおもちゃ、デロス島の母さんがまだ置いてるんだ。使う子どもたちが大きくなったのに。僕とアルテミスで運んでくる間に、君たちの部屋に置き場所を作っておいて」
“君たち”。
ヘパイストスとキューピッドの部屋。
今日からそうなった―――――
ヘパイストスの向こう脛に、アレスが蹴りを入れた。
相手がバランスを崩して倒れた隙を狙い、アレスは剣を振り上げる。
カキン
今度は、杯が剣を受け止めた。
横を向くと、壮年の男が酔ったような赤い顔で、にやにやしている。ディオニューソスである。もう片方の手には、いつも持っている酒瓶がある。彼は黒鷲に乗って飛んでいる。
「邪魔をするな!」
「邪魔はそっちだ。ヘパイストス、仕事の注文がある」
アレスを制し、ディオニューソスはヘパイストスに言った。
ヘパイストスはゆっくりと起き上がる。
「鉄製の大きな鳥籠を作れ。そうだな・・・・・こいつと、もうひとりぐらい入る大きさがよかろう」
目で指し示されたアレスが抗議しようとしたが、ディオニューソスは続け、
「底が抜けていて、上からかぶせられるようにしておけ。入り口を設けたところでおとなしく入らんだろうからな。わしに感謝しろ」
最後の言葉は、黒鷲に言ったようである。
アレスは剣を動かそうとするが、杯にぴったりとくっついて離れない。
その杯を持ったまま、ディオニューソスはヘパイストスに、
「ゆけ」
ヘパイストスは困惑しながらも、飛んで行った。
「待て!まだ決着はついていないぞ」
「わしの注文が最優先だ」
ディオニューソスがアレスを制す。
ヘパイストスの姿が見えなくなると、ディオニューソスは杯をぽこっと剣から外し、アレスをにやりと一瞥して去って行った。
アレスは残された剣を、まじまじと眺め回す。あれほど密着していたものを・・・・仕方がないのでヘパイストスのことは諦め、再びアドニスを探すことにした。
「ヒュアキントス―――――」
開け放たれている窓から、キューピッドが飛び込んできた。
「キューピッド!どうしたの」
彼の顔を見るなり、ヒュアキントスは急いでハンカチを取り出す。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭われながら、キューピッドは訴えるように、
「ねえ、ヒュアキントス。親って何のために子どもを産むの?」
「えっ」
「僕は勝手に生まれたわけではないし、僕が生まれたのは僕のせいじゃないよ」
キューピッドの身に何が起きたのかは分からない。
でも、彼の伝えたいことは、分かるような気がする。
―――――「ねえ、どうして?どうして神様は人をお創りになるのに、その人たちを死なせてしまうの?」
「何のためにお創りになるの?」
昔、このような質問攻めをして、兄たちを困らせた記憶がある。
「ヒュアキントス。人の生きる意味は自ら作り出すものだ。神はそのきっかけをくださる。自分の思うように生きなさい」
そう教えてくれたのは、父王アミュクラスだった―――――
「キューピッド、もう自分で分かっているね。両親が揃っているのはいいことだと思う。でも、それが全てではないんだ」
ハンカチをどけ、キューピッドはこちらを見る。
ヒュアキントスはにっこりし、
「キューピッドの始まりが、アレス様とヴィーナス様だった。それから、キューピッドを導いてくれたのは誰?」
キューピッドはそれだけで、かけがえのない存在。そう思ってくれている相手を、
「自分が本当に大切にしたい相手を、大切にしていいんだよ」
誰にも強制されることなく、自分自身が必要であると感じるもの。
ぐすり。
キューピッドが、再び泣き出した。
ヒュアキントスは彼を抱きしめ、
「もうとっくに、よく分かっている」
気づく機会はたくさんあったはず。
「本当はね、キューピッドは、ちゃんとみんなに愛されているの」
だから回転木馬の後、皆が次々といろいろなものを運んできた。ヘルメスがキューピッドより大きなぬいぐるみを持っていたなんて知らなかったと、アポロンは話してくれた。
キューピッドのすすり泣く声が落ち着いた頃、ヒュアキントスはそっと彼を離し、
「じゃあそろそろ、キューピッドのお父さんのところへ帰ろうね」
キューピッド自身が、お父さんだと感じている相手のところへ。
キューピッドは頷き、ふわりと飛んで出て行った。
部屋へ戻っても、ヘパイストスはアレスと戦っていて、いないだろう。そう思っていたキューピッドは、のちに鍛冶場から金槌の音が聞こえてくるので、驚くこととなる。
ヒュアキントスはため息をつく。
自分が本当に大切にしたい相手を、大切にしていい・・・・・キューピッドに言えるのに、自分に言えない。
空は紺青に染まり、西の端だけかろうじて赤く燃えている。
夕食へは一人でゆくこととなった。
この神殿では皆、朝と昼は自室で、夜は広間に集まって食事するというしきたりがある。日中は集会などができるよう、広間では余計なものは取り除かれているが、夜になると椅子とテーブルが配置され、誰が用意しているのかたくさんのごちそうが並べられる。
最初は、ヒュアキントスは神の晩餐に参加することを躊躇していたのだが、アポロンに連れられてきてみると、皆当然のようにこちらの名を知っており、当然のようにこちらと接してくるのである。
ヒュアキントスは広間へ向かう。外は暗いが、神殿の中は照明のおかげで真昼のように明るい。
道すがら、誰にも会わないことを珍しく思ったが、皆は先に集まっているのであろう。そう思いつつ広間へ入ると、びっくり。食事の支度は整っているが、誰もいない。
「おい。ヒュアキントス」
ディオニューソスがいた。長い髪の若者の姿である。ゼウスの王座であぐらをかいている。
歩み寄りながらヒュアキントスは、
「他の方々は・・・・・」
「仕事だ。探しものが見つからんらしい。しかも増えたとか。ヘパイストスには別の用事がある。キューピッドは奴とともに自分たちの部屋で食うだろう。つげ」
ヒュアキントスは差し出された酒瓶を受け取り、ディオニューソスの隣へ座る。
「ガニュメデスもいないんですか?」
どうやら彼には、自分より年下に見える者や歳が近く見える者に対しては、親しみを込めて呼び捨てにする癖があるらしい。フローラや虹の女神、泉の精もその対象である。相手もそれを気にしない。
ディオニューソスは酒を注がれながら、
「おとといから二日酔いだ」
おととい・・・・・三日間。
「お酒を飲んでしまったんですか?」
「なあに。明日には起きてくるだろう」
そう言うと、ディオニューソスは酒をぐいっと飲む。
ヒュアキントスはその様子を眺め、
「ディオニューソス様、本当は酒飲みではないでしょう」
香草をまぶして焼いた肉にかぶりつき、ディオニューソスは問う。
「なぜそう思う」
「ガニュメデスが言っていました。本当の酒飲みは手酌が一番なんだって」
そう言ってヒュアキントスは、ザクロの実を一粒食べる。
ディオニューソスは杯の酒を飲み干し、
「幸福になれるなら、酒など飲む必要はない。まあ、飲んだところでどうにもならんし、嫌なことを忘れられるわけでもないがな。単なる慰めだ」
突き出された杯に、ヒュアキントスは酒を注ぐ。
「ディオニューソス様にも、嫌なことがおありなんですか?陽気な方に見えるのに」
再び満たされた酒を、ディオニューソスは苦そうに飲み、
「昔、ある詩人が、わしの祭りの日にアポロンの詩 を歌いおった」
アポロンの。
ディオニューソスには申し訳ないが、ヒュアキントスは内心嬉しかった。
「今もその詩を覚えている」
ディオニューソスは静かに歌い出す。
「白羊宮が双魚宮を追う
冬が春へと移り変わる」
「あっ。その詩、少し知ってます」
少しと言うより、この部分だけである。
ディオニューソスはにやりと笑い、続ける。
「緑の草原を色づけるのは
生まれ変わったヒュアキントス」
「えっ」
「我が父アポロンは―――――」
(我が父、アポロン?)
アポロン様に、子どもがいる・・・・・
子どもはいないって言ったのに
好きな相手、いないって・・・・・
食事の後、ヒュアキントスは自分の部屋へ戻り、本棚にあった分厚い本を開いていた。オウィディウス著『変身物語』。
でも、本当のことを知って、よかった・・・・・。
扉がノックされる。
アポロンだと思ってドキッとしたが、扉を開けるとヴィーナスが立っていた。
「何か、ご用でしょうか」
「アポロンがいなくて、あなた寂しいでしょうから、彼の代わりに話し相手にきたわ」
「あ・・・・・ご親切に」
ヴィーナスはつかつかと入り、勝手に椅子へ腰掛けると、ベッドの枕もとの竪琴に気がつく。
「珍しいわね。彼があれを貸すなんて」
「・・・・・アポロン様は、お優しい方です」
「あなたにはね」
ヒュアキントスは黄緑色の茶を淹れ、テーブルに置く。湯気はオリーブの香りがする。
ヴィーナスは無造作に茶碗を持ち、
「彼、人間みがあるでしょ」
「・・・・・少し」
ぶっ。少し?
ヴィーナスはひとしきり声を立てて笑うと、茶を一口飲み、
「昔はあんなじゃなかったわ。彼は美しく才長けて自信満々。ところが、ひょんなことから下界の花を気に入ってしまい、誤ってその花の上に石を落してから、やけに命というものに慎重になったの」
「そう・・・・・ですか」
「救えなかったのね。天界は時間の流れがゆっくりだから、それに慣れてしまうと、下界の花が萎れるスピードに追い着けないのよ」
正直、ヒュアキントスは誰かと話す気分ではなかった。
ヴィーナスは知ってか知らずか、
「あの月桂樹、つけてると弾きづらくない?」
竪琴を指差した。
「お借りしているものですから、勝手に外すことはできません」
「そうね。・・・・・形見だものね」
「形見?」
ヴィーナスはにんまり笑い、
「アポロンは、昔キューピッドを怒らせて、あの子の懲らしめで人間の女に恋をしたの。あの子はその女にも術をかけ、彼女にはアポロンを嫌いになるよう仕向けた。アポロンは彼女を追うけれど、彼女は逃げる。それでも追いかけてくるの」
ヒュアキントスはじっと聞いている。
「彼女は父親に助けを求めた。父親は妻を亡くし、女神を後妻にしていたの。その女神の力で、娘の姿を木に変えた。その木は彼女の名を取り、月桂樹 と呼ばれている」
ヒュアキントスは何も言わない。しかしその様子は、落ち着いているようにも見える。
ヴィーナスは目を丸くし、
「あら。知っていた様子ね」
ヒュアキントスはにっこりする。
「いいえ。知りませんでした」
ヴィーナスはヒュアキントスを見つめ、
「あなた、ダプネと似てるわね。もしかしてアポロンは、ダプネの代わりにあなたとくっついてんじゃないの?」
「異母姉が同じ名前です。でも僕たちは、似てないとよく言われていましたよ」
「そう?じゃあ私の目が悪いのね」
そう言うと、ヴィーナスはまた茶を一口飲み、
「この話は知らない?ダプネに失恋した後、アポロンはカッサンドラという女に恋をし、彼女に予言能力を与えた。でも彼女は、自分がアポロンに裏切られると予言してしまい、彼女もアポロンのもとを去った」
ヒュアキントスは、やはり落ち着いている。
ヴィーナスは肩を竦め、
「そうそう。私とアレスが恋仲になったとき、アポロンは私たちを侮辱したわ。ヘパイストスを裏切ったって。私とヘパイストスは好きで結婚したわけじゃなく、ヘーラーにやらされただけなんだから、仕方ないのに。美の女神の夫が醜いなんて恥だもの」
茶を飲み干し、「おかわり」と茶碗を差し出す。キューピッドとそっくり。
ヒュアキントスが茶を淹れる間にも、ヴィーナスはしゃべり続ける。
「だから、キューピッドに恋の矢を射させて、アポロンを今度はレウトコエーという女に恋させた。その頃、彼はすでにクリュティエーという別の女と愛し合っていて、嫉妬したクリュティエーはレウトコエーの父に、あなたの娘が男と密会していると告げたわ」
「キューピッドをそんなことに利用してたんですか」
アポロンの懐にある金の矢の刺繍、あれら全て・・・・・。
ヒュアキントスの咎めるような眼差しは、あのときのアポロンと重なる。気に食わない。
「話を逸らさないで。怒ったレウトコエーの父は、娘を砂へ生き埋めにしたわ。アポロンは彼女を乳香の木に変えた。クリュティエーは結局アポロンに振り向いてもらえず、ヒマワリとなって、いつまでも愛しい彼を目で追っている」
「・・・・・僕に何が言いたかったんですか」
ヴィーナスは真顔になる。
「ゼピュロスになさい」
「えっ」
ヴィーナスは二杯目の茶を飲み、
「あなたのお相手は、ゼピュロスになさい。彼はあなたを大切にするわ。あなた、彼から愛していると告白されたことがあるでしょう。アポロンはいつあなたを裏切るか分からない」
「ヴィーナス!」
突然、勢いよく扉が開き、クレイオが入ってきた。
ヒュアキントスは驚く。
「お母さま・・・・・」
クレイオはヴィーナスを睨 めつけ、
「この子に、いい加減なことを吹き込まないで。あなたが仕組んだことでしょう。ヒュアキントス、彼女を信用してはいけない。あなたに円盤をぶつけたのは、ゼピュロスなの」
ヒュアキントスはクレイオを見つめる。
ヴィーナスは冷静に、
「いいのかしら。アポロンがこの子に内緒にしていることを、私はともかく、彼の子分であるムーサがばらしてしまって」
「あなたも本当は言ってはいけなかったのよ。もう仕方がない。ヒュアキントス、あなたがアポロン様と円盤投げをしていた際、あなたに拒絶されたゼピュロスが風を吹かせ、アポロン様の投げた円盤の軌道を逸らしてしまったの」
ヒュアキントスは微動だにしない。
ヴィーナスは嘲笑する。
「この子の拠り所をなくさせてどうするの?アポロンは、自分の愛した相手が不幸になるから、自分は何も言わず、ゼピュロスをこの子の命綱にしようとしてたのよ」
それからヒュアキントスに目を向け、
「ゼピュロスが何であれ、アポロンがあなたにとって危険であることに変わりはないわ。彼とはさっさと別れてしまいなさい」
ヒュアキントスは黙ってヴィーナスを見ていたが、やがてふふっと笑う。
「ヴィーナス様、誤解しておられます」
ヴィーナスは眉を顰める。
「どういうこと」
ヒュアキントスは微笑み、
「僕はアポロン様を神様として崇めています。アポロン様のお教えくださる学問や技術を身につけ、彼へ貢献できるよう。天文学、音楽、剣術、円盤投げ、全てそのために存在します。それ以外の何ものでもなく、そのことはいつまでも変わりありません」
本当ですよ。アポロン様。
「アポロン様にとっても、きっとそれが一番いいのだと思います。他の感情を抱くのは、彼に対して失礼で・・・・・彼は困るだけだろうと思っていました」
それは、自分に言い聞かせてきた言葉でもある。
「本当なら、姿さえお目にかかることのできない方です。いてくださるだけで充分嬉しいし、僕は何も求めていないし・・別れるも何も、もともとそんな関係では・・・・・」
彼のために、期待しないようにしてた。心に封じ込めるつもりだった。けど・・・・・。
ヴィーナスはけたたましく笑う。
「そう。あなたもともと、アポロンを神としか思ってなかったのね。クレイオ、聞いた?あんたのボスは、また同じ過去を繰り返していたわ」
クレイオは心なしか、悲しげに見える。お母さま、アポロン様を崇めるよう言ったのは、ご自分ですよ。
笑いがおさまると、ヴィーナスはヒュアキントスに目を戻し、
「でもね、崇めるのもどうかしら。アポロンは、あなたの大切な人を死に追いやったのよ」
「ヴィーナス!」
クレイオは怒鳴るが、ヴィーナスはかまわず、
「まっ、実際に仕掛けたのはムーサだけどね。あなたがアポロンと出会う以前につき合っていたタミュリスは、ムーサの催眠によってあなたから離れて旅立ち、ムーサとの竪琴の腕比べに負けて彼女たちに殺されたの」
「えっ・・・・・」
ヒュアキントスは、目を見開いた。
クレイオはうつむいている。
ヴィーナスは平然と、
「彼女たちは、自分のボスのためなら何でもするわ。彼がわざわざ頼まずともね。ヒュアキントス、あなたがアポロンを信仰し始めたのは、タミュリスが死んだと聞いてからよね。タミュリスがいる間は彼に夢中で、デルポイの神殿へ巡礼に来たのは幼い頃に一度きり」
ヒュアキントスは硬直している。
「タミュリスがいなくならなければ、あなたはアポロンを信仰しなかったんじゃないの?」
「そんな、こと・・・・・」
そんなことは、ありません。
「じゃあ、なぜ泣いているの」
「えっ―――――」
・・・・・生温かい感触が、ヒュアキントスの頬を伝った。
クレイオは目を見開く。
ヴィーナスは茶碗の中身を飲み干し、
「あなた、キューピッドのことは上手く泣かせておいて、自分が泣くのは下手なのね」
椅子から立ち上がり、扉へと歩きながら、
「そんなんだから、アポロンに心配されるのよ」
我慢なんてしなくていいのに。無理する必要なんて、これっぽっちもないのに。
(・・・・・見てたんですか。キューピッドのこと)
ヒュアキントスの心を見透かしたように、ヴィーナスは把手に手をかけ、
「何となく分かったわ。・・・・・何だか、よく分からないけど」
そう言うと、扉を開け、部屋から出て行った。
クレイオはどうしようか迷った末、もう一度ヒュアキントスを窺い、彼女も部屋を出た。
扉はそっと閉まる。
消灯しても寝つけず、ヒュアキントスはベッドに横になってぼんやりしていた。
「タミュリス・・・・・」
不意に、窓が開き、風が吹き込んできた。風がやむと、ゼピュロスが立っていた。
「呼んだか」
「・・・・・いいえ」
身を起こすヒュアキントスに、ゼピュロスはゆっくりと歩み寄りながら、
「怖くないのか」
「・・・・・怖いです。でも、もっと怖いものを知っています」
タミュリスを殺したのが、自分の母親だなんてね。しかも、僕のため?僕に神を信仰させるため?
自分のせいで、彼が殺されてしまったようなものである。
ゼピュロスはベッドの前で立ち止まり、
「後悔している。悔やんでも悔やみきれない。もしも、お前が私に、もう一度チャンスをくれるのならば、二度とあんなことにならないと誓う」
「・・・・・どういう意味ですか」
「トラキアの洞窟で、一緒に暮らしてほしい」
ヒュアキントスは、じっとゼピュロスを見つめる。
「嫌です」
「洞窟と言っても、内装はここと変わらないのだぞ。広いし、必要なものは揃っている。床と天井は大理石だ」
「そういうのを求めているんじゃなく、僕、ゼピュロス様のことは・・・・・」
ゼピュロスはヒュアキントスを見据えていたが、不意に「来れば分かる」と手をつかみ、彼を連れてゆこうとした。
「離してください!」
手を振りほどこうとするヒュアキントスを、ゼピュロスは軽々と抱え上げる。
「アポロン様!」
未だにアポロンに助けを求める自分が虚しい。彼に頼らないようにしたいのに。
ゼピュロスはそのまま、窓のほうへと歩き出す。
と、テーブルの横を通りかかった拍子に、もがいていたヒュアキントスの足が、花瓶に当たった。
ヒュアキントスがあっと叫ぶまもなく、花瓶は床へ落ちてゆき・・・・・受け止められた。
見知らぬ少年が、花瓶をテーブルへ戻す。ヒュアキントスと同じ年頃に見える。茶色の巻き毛が月明かりに照らされ、精悍な黒い瞳がゼピュロスを睨む。
「アドニス」
呟いたゼピュロスに、少年は体当たりした。ヒュアキントスの身体を押さえ、ゼピュロスから引き離す。
思いの外、強い力で飛ばされ、ゼピュロスは丁度、ベッドの上へと倒れた。上体を起こしたときに、枕もとの竪琴に手が当たる。彼はその竪琴を見つめる。
大丈夫かと声をかけられ、ヒュアキントスは呆然と少年を見る。
「どうやって・・・・・」
この部屋へ来たのだろう。ゼピュロスやキューピッドなら、飛んで窓から侵入できるが。
ゼピュロスはベッドを下り、足早に窓へと歩いて、
「お前がここにいることを、ヴィーナスに伝えておく」
少年に言うと、バルコニーへ出て、飛び去った。
少年はゼピュロスが出て行った窓を閉め、鍵をかける。そして懐から糸巻きを取り出す。
ヒュアキントスはおずおずと、
「アドニス・・・・・?」
返事はない。窓の把手と把手に糸を結びつけている。
脱走する前に、ヴィーナスから適当に盗んでおいた、赤い糸。この糸で結び合わせれば、窓と窓は引かれ合い、容易には開かない。
「助けてくれてありがとう。あの・・・・・」
ヒュアキントスの声が聞こえないかのように、少年は他の窓や扉にも同じことをする。
だが、赤い糸というのは儚いもので、一度使った分は朝になると消えてしまう。それでも夜の間はヒュアキントスを守れるだろう。
「ヴィーナス様が、探してたみたいだけど・・・・・」
諦めたと言っていたが。
ようやく作業を終え、少年はこちらを向く。
「知ってるなら、匿ってくれ」
「ここにいても見つかるかもしれないよ」
「さっきゼピュロスが言ったのは脅しだ。あいつも他の神から隠れてるんだから」
大方こちらと争う気はなく、他者を追い出し、ヒュアキントスをさらいたいのであろう。
でも、と憂えるヒュアキントスに、アドニスは花瓶を指差し、
「あれがあるから大丈夫」
指し示されているのは、ヒヤシンスではなく、薔薇のようである。
それからベッドへ向かう。
「どうして逃げているの?」
尋ねるヒュアキントスに、アドニスは我が物顔で、ベッドにごろんと横たわり、
「明日話す。今夜は寝かせてくれ。ずっと外にいて疲れてるんだ」
毛布をかぶりかけ、どぎまぎしているヒュアキントスに、
「どうした?入っていいぞ」
そりゃあ、そうである。そこはヒュアキントスのベッドなのだから。
ヒュアキントスはこぼれた水を拭き取り、花瓶に水を注ぎ足してから、自分もベッドに入る。
いろいろあって眠れないかと思っていたが、アドニスに優しく胸を叩かれているうちに、うとうとし始めた。
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