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5 秘密の薔薇
―――――「アポロン様・・・・・」
あの神殿で見た彫刻にそっくりだった。
青年は微笑む。
「我が名は、タミュリス」
タミュリス・・・・・この人なら、愛していいだろうか。
彼の代わりに―――――
目が覚めると、アドニスが先に起床し、食事の準備をしていた。
「おはよう。ごめんね、任せちゃって」
アドニスは、別に、と小さく返す。
テーブルに並んでいるのはパンとミルク、生ハムと簡単なサラダである。朝は軽食ですませるヒュアキントスには、これぐらいが丁度よい。
洗顔して身支度を整えてから、ヒュアキントスはアドニスの向かいの席へ着く。
「ねえ。どうしてヴィーナス様から逃げてるのか、そろそろ教えて」
アドニスはちぎったパンを、皿に注いだミルクに浸し、
「お前と同じ。二柱の神の間で取り合いになってんだよ。ヴィーナスと、冥界の女王ペルセポネ」
パンを口にほうり込む。ヒュアキントスはその食べ方を真似してみた。
「僕が生まれる前のことだけど。どっかの王女がヴィーナスより美しいと言われて、ヴィーナスはそいつを憎んでいた。ヴィーナスはその王女が、自分の父親に恋するよう仕向けた。王女は夜中に母親に変装して、父親の部屋に忍び込み、赤ん坊を身ごもった。その赤ん坊が僕だ」
ヒュアキントスはパンに噎せ、水を飲む。
アドニスはかまわず、
「父親にばれ、王女は処罰された後、投薬の木に変じた。僕はその木の裂け目から生まれたんだ。そのとき、ヴィーナスが赤ん坊の僕に恋をし、アレスにばれぬよう、僕を冥界のペルセポネに預けた」
サラダを小皿に取り分け、ヒュアキントスの前に置く。
ヒュアキントスはフォークを使い、生ハムで器用にサラダを巻く。シャキッとかじる。
アドニスはその音を聞きながら、
「僕が少年期まで成長した頃、ヴィーナスが僕を迎えにくると、ペルセポネは僕を手放したくなくなっていた。どちらに親権があるのかゼウス様に判断してもらったところ、一年の三分の一はヴィーナス、もう三分の一はペルセポネが僕を育て、残りの三分の一は僕の好きなようにしていいことになった」
そう言うと、ため息をつき、
「でも、そのときはまだ、僕はヴィーナスが好きだった。だから残りの時間もヴィーナスと過ごした。すると、ペルセポネがアレスに、ヴィーナスが人間と浮気していると言った。僕は狩りの最中、猪に化けたアレスに身体を突かれ、一度死んで冥界へ連れ戻された」
ヒュアキントスはアドニスを見る。一度死んだと言ったが、彼は血色のよい顔である。
「その後、ヴィーナスがアネモネの花で人形を作り、僕の魂を呼び寄せて、僕は生き返っている。けど、甦ったところで、またアレスに殺されそうだから、逃げ出したんだ。ヴィーナスは全然あてにならないし」
説明した後、アドニスは呟くように、「神や女神なんて存在しない。疫病神ばかりだ」。
ヒュアキントスはしばらく彼を見つめ、やがて口を開く。
「どうして、そんなに詳しいの?自分が生まれる前のことまで」
すると、アドニスは意味ありげに笑う。
「神サマに聞いた」
・・・・・神サマ。先ほど、神はいないと言ったばかりではなかったか。
結局ゼピュロスは見つからず、アポロンとヘルメスとアルテミスは、ひとまずゼウスの部屋に集まっていた。途中で会ったクレイオも一緒である。
フローラの姿はない。再びゼピュロスを探しに外へ行ったことは、言わずもがな。
「むう・・・・・」
地図を見据えて唸るゼウスに、アテナは声をかける。
「父上。少し休まれては」
ヘーラーが口を挟む。
「それより、試しに他の誰かを占ったらどう?もし失敗すれば、あなたの腕が落ちただけ。成功したのなら、アドニスとゼピュロスはこの世界から消えたということ」
ヘルメスは隣にいるアポロンに言う。
「アドニスとゼピュロスが一緒に冥界へ行った、って可能性もあるんじゃないかな」
「何のために。ゼピュロスは、冥界とは関係ないよ」
「偶然出会って、アドニスがゼピュロスに、ヴィーナスを嫌いになったから冥界へ帰してくれと頼んだり・・・・・」
次第にヘルメスが口ごもってゆく。
アルテミスは痺れをきらし、
「他を試すなら、ヒュアキントスにしない?サイコロは彼の部屋の位置で止まるはずよ」
単純に、彼が可愛くて気になるのである。
ゼウスは広げた世界地図を、オリンポスの神殿図に換え、サイコロを投げる。―――――跳ね返された。
一同はえっと声を上げる。さすがにヘーラーも驚いている。
冷や汗を浮かべ、ゼウスは命じる。
「お前たち。様子を見にゆけ」
アポロンとヘルメスとアルテミスは、部屋から飛び出す。クレイオも後を追う。
食事の用意はアドニスがしてくれたので、後片づけはヒュアキントスが引き受ける。
キッチンで、洗った食器をヒュアキントスが拭いていると、椅子に座っているアドニスが話しかけてきた。
「お前、これからどうするつもり?」
ヒュアキントスは顔を上げ、
「怪我が治ったらスパルタに―――――」
「ずっとアポロンと関わる気か」
帰郷してからも。
アドニスは続ける。
「昨夜ヴィーナスが言ったのは本当のことだ。嘘をつきそうな顔して、本当のことを言うから始末が悪い。お前もアポロンに遊ばれてるのかもしれないぞ」
ヒュアキントスはアドニスを見つめ、やがて苦笑する。
「不思議に思っていたんだ。人間の死を何度も見ているはずの神様が、なぜ今さら自分を助けてくれるんだろう。そもそも、人間に寿命を与えたのは神様なんだよね」
拭いた皿を積み重ね、また一枚拭いてゆく。
「円盤がぶつかった後、気がつくとアポロン様に助けられていることが分かったとき、嬉しい半面、少し残念だった。あのまま死んでいれば、タミュリスに会えたかもしれない。助かった後だから、のんきなことが言えるんだろうけど」
拭き終えた皿をまとめて食器棚にしまい、アドニスのもとへ歩み寄る。
「いろいろな相手から話を聞くうちに知ったことは、アポロン様は自己中心だということ。でも、それは神様として当たり前なの。それをいいほうに受け止めるかどうかは、結局のところ、この僕にかかっている」
本当は誰もが、みんな自分中心なんだ。他者によくしても、どこか自己満足なんだ。
アドニスは訝しげにヒュアキントスを見据え、
「それで、お前はどうしたいんだ」
「もう一度、アポロン様とゆっくり話し合えたら―――――」
「そんな暇があるか!」
アドニスは立ち上がる。
「一緒に逃げよう」
彼の瞳は、明るい場所では淡い茶色に見える。ヒュアキントスはその瞳に優しく微笑み、
「たった一つ、アポロン様に聞きそびれたことがあるの」
そして棚を見上げる。一番上に酒瓶が置いてある。
「あのお酒。この部屋、グラスがないのに、どうやって飲めばいいんだろう」
アドニスはヒュアキントスに言う。
「お前、ワルだったの?」
「そんなことないよ」
ヒュアキントスは満面の笑顔で答える。
そのとき、扉がノックされた。
「ヒュアキントス。いるよね」
アポロンの声である。
アドニスがヒュアキントスの手をつかんだ。
「開けるよ」と扉を開けたアポロンの目に、窓の向こうのバルコニーから、二人の少年が手をつなぎ、飛び下りるのが見えた。
「アドニス!」
ヘルメスとアルテミスが同時に叫び、二人の後を追って飛び下りる。
クレイオも行こうとしたが、足を止めた。
アポロンを見ると、彼はテーブルの花瓶に目を留めている。ヒヤシンスを囲むように、薔薇の花が生けられている。
「ひゃ―――――」
ヒュアキントスは必死でアドニスにしがみつく。と、何階にもおよぶ高さの部屋から落下したにもかかわらず、二人とも足からすっと着地した。ヒュアキントスが不思議がっている暇もなく、アドニスは彼の手を引き、庭の中を走り出す。
続いて着地したヘルメスとアルテミスは、二人を追いながら、
「さすがにアンプロシアを食べてるだけあって、二人とも走るのが早いな」
「感心している場合じゃないわ。なぜアドニスがヒュアキントスの部屋にいたの」
「大方、外壁をよじ登って、窓から侵入したんじゃないの?あの運動能力なら朝飯前さ」
そこへ、アポロンとクレイオが追いついてきた。
アドニスはそれを見計らい、ヒュアキントスを横へ突き飛ばす。
神々は、目を見開く。
凄い力で飛ばされ、ヒュアキントスは灌木の間を転がってゆき、薔薇園の中へと入る。
アドニスは逃げきれずに勢い余り、いつのまにか前方に立ち塞がっていたフローラに抱き止められた。
「離せ!」
もがいているアドニスを、フローラは締めつけないようにしながら、しっかりと押さえる。
薔薇園の中で、ヒュアキントスはゆっくりと上体を起こし、茂みの外の様子を窺う。
アドニスはフローラに、神殿の中へと連れ戻されてゆく。
アポロンはしきりに辺りを見回し、
「ヒュアキントス―――――」
ヘルメスが声をかける。
「いったん中へ入ろう。ヒュアキントスが君から逃げる理由なんてないんだから」
アポロンはもう一度辺りを見渡し、肩を落として歩き出す。
他の者も彼に寄り添い、神殿のほうへと歩いてゆく。
ヒュアキントスはアポロンを目で追いながら、
「どうしよう」
そのとき、誰かが自分の手に触れた。
振り向くと、
「ゼピュロス様・・・・・」
外の騒ぎは神殿の中まで届いていた。
「アドニスが見つかったらしい」
部屋の窓から外を見、ヘパイストスが言った。
キューピッドはえっと、窓辺へ飛ぶ。
神々に囲まれ、アドニスが神殿の中へと入ってゆく。
彼が見えなくなっても、キューピッドは窓から離れなかった。
一方ヴィーナスは、アドニスが使っていた部屋にいた。外の出来事には気づいている。
けれども彼女は、花瓶を見つめていた。アネモネの花が飾られている。
―――――「人間に、しかも子どもに手を出すなんて」
黒衣の女がこっちを見下ろす。
「ゼウス様は、あなたが母性でアドニスを愛しているだけと思っているけれど、あなたの汚れた本心が知れたらどうなるか。ヘパイストスにもアレスにも。どう罪を償うのかしら」
うるさいわね、クレイオ。何ならあんたも、同じ目に遭わせてあげるわよ。
丁度妻を亡くした人間の王と結ばれ、ボスや仲間から罰せられるがいい―――――
でもクレイオ。予想外だったわ。
あんたがスパルタの王と結ばれて産んだ子が、あんたのボスに気に入られるなんてね。私はキューピッドから奪っておいた矢を、あのふたりには刺していないのよ。
ヴィーナスは思い出していた。いつか王女への恨みを晴らすべく、彼女に刺した金の矢。彼女が投薬の木に変じた後、木に突き刺さった矢を抜くと、自らをかすめてアドニスに恋をした。
あの矢はどこへやったのかしら。アドニスをペルセポネに預けた際、彼女に渡してしまったかしら。
ヴィーナスは部屋を後にする。アレスはきっと神々からアドニスを奪おうとするはず。彼に協力し、その後自分がアドニスを連れてどこかへ行ってしまおうか。
そしてアポロンとクレイオから、あのもう一人の可憐な王子も奪おうか。
同じ頃、アレスは玄関前にある大きな木の陰に身を隠し、アドニスが捕まる一部始終を窺っていた。
(なぜアドニスがヒュアキントスとともにいたのだ)
ヒュアキントスを人質に取れば、神々もアドニスもおとなしくこちらに従うであろう。
ヒュアキントスは逃げる途中で姿をくらましたが、見つけ出すのはわけない。ただし、アドニスを探したのと同じやり方では、また失敗する。
ヒュアキントスは必ずアポロンのもとへと戻ってくる。相手方が油断している隙を狙って彼をさらうまで、こちらは味方を増やしておこう。
すでにエウタロス湖畔の丘では、デルポイとスパルタの戦いは始まっているのだから。
ゼウスの部屋の中で、椅子に縛りつけられたままアドニスは言う。
「殺すならさっさと殺せ」
「早まるな。まずは、ヒュアキントスの居場所を教えてもらおう」
ゼウスの声は穏やかであるが、アドニスは口を噤む。
ゼウスは息をつき、テーブルに広げていた地図へサイコロを投げる。跳ね返される。
「どうやらある神の力が、わしの占いを妨げている」
そのとき、無作法に扉が開き、壮年のディオニューソスが姿を見せた。
「おきゃくです」
酔ったような声で言う彼の背後から、長い黒衣を身に纏った無骨な男が現れる。
「ハーデス殿」
ゼウスが言ったそばから、同じく黒衣に骨の浮き出た細身の女が現れる。
「ペルセポネ・・・・・」
ヒュアキントスの帰りを待ち、彼の部屋の椅子に座ってテーブルに頬杖をつきながら、アポロンは静かにしている。
ヘルメスは開け放った窓の向こうのバルコニーで外を見下ろし、
「歳が近いから、気が合ったんだよ。アドニスがヴィーナスから逃げ回っているうちに、ヒュアキントスの部屋にたどり着いてさ」
「ヒュアキントスは、アドニスに無理矢理引っ張られたって感じだったものね。彼自身は逃げるつもりなんてなかったのよ」
ヘルメスの隣で、アルテミスも言う。
アポロンは黙っている。
不意に、彼の傍らに立ってうつむいていたクレイオが、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません」
ヘルメスとアルテミスはそちらを見る。アポロンは動かない。
「実は・・・・・」
クレイオは、昨夜ヴィーナスがヒュアキントスに言ったことを、全て打ち明けた。
薔薇園の中で、ヒュアキントスはゼピュロスと隣り合い、静かに腰を下ろしている。なぜ逃げないのかは自分でも分からない。
「トラキアへ帰ったのかと思っていました」
最初に口を開いたのはヒュアキントスである。
ゼピュロスは懐に手を入れ、
「これを返しにきた」
月桂樹の枝葉が巻きついている竪琴を取り出した。
気づかなかった。昨夜はアポロンのことを知り、タミュリスのことを考え、アドニスと出会った。竪琴がなくなっていることを気に留めている余裕はなかった。
もうアポロンから、何も借りられない。
「返す前に、聞いてほしいことがある」
おずおずと、ゼピュロスが言った。ヒュアキントスは彼を見つめる。
「昔、私は竪琴の名手だった。お前を得るため、クレイオをはじめムーサを探して旅立ち、竪琴の腕比べを挑んだ。ムーサは怒 り、私を盲目にし声を奪って、竪琴の弾き方を忘れさせてしまった」
ヒュアキントスは目を見開く。
「死ぬ間際、そばを通った風の神の身体を借りねば、お前を見ることも、お前と話すことも叶わぬ。それに、お前に竪琴を聞かせることも」
「まさか・・・・・」
ゼピュロスの身体から、淡い緑の鱗粉のような光が発せられる。光は強さを増してゆき、目がくらんだと思えば、その姿はタミュリスに変わっていた。
閉じたままの両目をこちらに向け、タミュリスは口の動きでこう伝える。
“竪琴の弾き方を、私に思い出させてくれないか”
ヒュアキントスは涙を浮かべて微笑み、頷いた。
「なんでそんな大事なことをもっと早く言わないの!」
アルテミスがクレイオを叱りつける。
クレイオは、頭を下げるばかりであった。
そこへ、
「クレイオ」
アポロンが呼んだ。クレイオは顔を上げる。
「ヒュアキントス、どっちのことで泣いていた。僕が嘘をついていたことか、タミュリスの死の真相か」
クレイオは答えに詰まった。それが答えであった。
「そっか」
アポロンは薄く笑う。それは自嘲にも見える。
本当は、分かっていたんだ。ヒュアキントスにとって、僕はタミュリスの代わりなのだと。
そよ風が吹き、髪や衣や花瓶の花を揺らす。その風に乗って、どこからか竪琴の音色が聞こえてきた。
ヘルメスとアルテミスとクレイオは、はっとする。アポロンの竪琴の、タミュリスの曲。
ヘルメスは南を指差し、
「海のほうから聞こえるよ」
アルテミスは頭上を振り仰ぎ、
「空から聞こえるわ」
クレイオは胸に手を当て、
「自分から聞こえる」
それらの声を聞き流し、アポロンは目の前にある花瓶を見つめていた。
秘密を守る花。
かつてヴィーナスが、アレスとの不義がヘパイストスにばれぬよう、秘密の神に薔薇を贈ったことがある。以来、認められぬ恋人同士が人知れず愛を交わすとき、薔薇の木の下で会うとされる。
秘密の神は姿を見せない。それは、薔薇園を覆う空気だともいわれる。己の力の一切を表には出さぬため、それを妨げる術を知る者もない。
薔薇園では、他のどんな神々の力もおよばず、ゼウスの占いさえも跳ね返されてしまう。そんなことまで、今まで忘れさせられていた。
ヒュアキントス、薔薇は秘密なんて守ってくれないよ。ヴィーナスも結局、ヘパイストスに秘密がばれてしまっただろう。ヴィーナスの機嫌を取るために、ヘパイストスも薔薇を持っていたからなんだ。その花は、彼自身に捨てられてしまったけどね。
もう僕も、君がどこにいるのか分かってしまった。
でも、無理には連れ戻さない。また逃げられるのは悲しいから、君のほうから別れを告げに戻ってくるのを待っている。
金の矢を用意して。
アポロンは懐からグラスを取り出す。透明なものは彼の懐に入ると、透明な刺繍となる。他の者には見えず、彼だけがその存在を感じることができる。
グラスを隠したのは、ヒュアキントスを危険にさらしたくないから。それでもいずれは彼にネクタルを飲ませることになるのだろう。そう思っていた。
だが、どうやらその時は来ない。
アポロンは棚からネクタルを取り、グラスに注いで、自らの口に運んだ。
窓を開き、キューピッドは桟に寄りかかってぼんやりしていた。
「キューピッド」
ヘパイストスに声をかけられ、小さな背中がぴくりと動く。
「君、今までアドニスがどこに隠れていたのか、本当は知っていたんじゃないのかい」
「知らないよ」
「と言うより、どこに隠れたら見つからないか、教えたのは君じゃないのかい」
「違うよ。僕、ずっとヒュアキントスに贈る薔薇を選んでいたんだよ」
ヘパイストスは苦笑する。
「まったく」
キューピッドは、竪琴の音色に耳を傾けるふりをする。
(僕はヴィーナスが嫌い。アドニスもヴィーナスが嫌い。僕たち仲よしなんだよ)
オリンポスじゅうの神々を振り回していたのは、この小さな神サマだった。
突然、
「キューピッド。足を洗え」
窓の外から、黒鷲に乗ったディオニューソスが現れた。
「だから悪いことしてないよ」
「そういう意味ではない。また葡萄を踏み潰すのだ」
キューピッドと、後ろにいるヘパイストスは、目を丸くする。
「ネクタルを作るぞ」
ディオニューソスの言葉に、キューピッドは酒造場へと飛んで行った。
次に、ディオニューソスはヘパイストスへ顔を向ける。
ヘパイストスは黒鷲を示し、
「注文された鳥籠なら、今朝でき上がって彼が・・・・・」
「ああ、受け取った。今度は、お前に返すものがある」
ディオニューソスが言うと、黒鷲はつかんでいた包みをヘパイストスに渡した。
「もう預かる必要はあるまい。こんなものを持っていると、売ってしまいそうだ」
開けずとも分かる。包みの中は、金の弓矢と鉛の矢。
ヒュアキントスが竪琴を膝の上に置くと、空は夕闇に染まっていた。夢中で幾度も演奏しているうちに、こんなにも時間が過ぎていたのである。
タミュリスの口が動く。
“ありがとう”
これでもう心残りはない、と言っているように受け取れる。
タミュリスの身体が、淡い緑の光に包まれる。
「行ってしまうのですか」
ヒュアキントスが言うと、光に包まれている彼はゼピュロスの声で、
「ヒュアキントス。初めて私と出会ったとき、お前は何と言っていた?」
―――――「アポロン様・・・・・」
「お前が寄り添う相手は、お前自身がよく知っていた」
私は誰の代わりにもならないし、なろうとも思わないよ。タミュリスはにっこりする。
「あの曲は、お前にやろう」
「・・・・・歌はあるんですか」
なぜこのようなことを尋ねるのか、自分でも分からなかった。
だが、タミュリスは分かっているように、
「詩 を作る前に旅立ってしまった。あの歌は、お前に作ってほしい」
光は強くなってゆく。
「いつでもそばで見守っている」
そう言い残し、タミュリスの身体は光の中へと溶け込んでゆく。光がすうっと消えると、彼の姿はゼピュロスに戻っていた。
タミュリスは、冥界へ行ったのである。
ヒュアキントスはゼピュロスの顔を覗き込み、
「ゼピュロス様・・・・・?」
まばたきをした後、ゼピュロスはヒュアキントスを見、ふわりと微笑む。
「亡霊に取りつかれているような感じがしていたのだが、目が覚めたよ。ありがとう」
今までのことを彼が覚えているか否かは謎であるが、ヒュアキントスはこれでよしとする。
「おいで。送ってゆこう」
当然のようにゼピュロスから言われ、ヒュアキントスも立ち上がる。
そこにはもう、ぎくしゃくとした雰囲気はない。
薔薇園を出、庭を通り抜けて、神殿の玄関先まで着くと、ゼピュロスは立ち止まる。
「ここまでにしておこう。アポロンの妬みをかうような趣味は、生憎持ち合わせていない」
あれ。やっぱり覚えている?
「気をつけて」
そう手を振るゼピュロスに、ヒュアキントスは微笑み返す。
「ゼピュロス様も」
そして、竪琴をしっかりと抱きしめ、扉を開けて中へと入る。
扉が閉まると、神殿の中ではアポロンとヘルメスとアルテミスが待っていた。
ヒュアキントスは彼らの前まで歩み寄ると、頭を下げる。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
ヘルメスが屈託なく笑う。
「いいよ。気にしないで」
「心配をかけなくても、私たちはいつもあなたを心配しているわ。特にお兄様は」
アルテミスがアポロンに目を向ける。
アポロンは、すっと右手を伸ばし、ヒュアキントスの前に掌をかざす。膝のかすり傷も、茨の棘によってあちこちにできた小さな切り傷も、たちまちにヒュアキントスの身体から消えた。
「あ・・・・・」
ありがとうございますとヒュアキントスが言う前に、アポロンは苦笑した。
「棘に気をつけてと言ったのに」
いつかふたりで、薔薇園を散歩しようとしていた日。
キューピッドから薔薇の花束を贈られたとき、彼にも言われた。キューピッドは、先読みしてたのか。
「ごめんなさい」
アポロンは、ヒュアキントスが抱えている竪琴に目を移す。
「それは」
「ゼピュロス様が持ち出していて・・・・・返していただきました」
ゼピュロスには申し訳ないが、タミュリスの霊の話をアポロンに信じてもらうのは難しいと思った。
「本当に、すみません」
先ほどから、謝ってばかりである。
「これはもう二度となくさないよう、お返しいたします」
ヒュアキントスは竪琴を差し出した。
しかしアポロンはそれを受け取らず、「部屋へ戻って着替えておいで。夕食に行くから」と、自身も背を向けて、ヒュアキントスの部屋へと歩き出す。
狼狽えつつも、ヒュアキントスは彼に続いて歩み出そうとし、ふと思った。
「アドニスは・・・・・」
なぜかアポロンではなく、ヘルメスに尋ねる。
「彼なら、ゼウス様に保護されているよ。心配ない」
ヘルメスの言葉をどこまで信用していいのやら、今のヒュアキントスには計りかねた。
フローラを乗せた花びらは、彷徨うように何度も同じ場所を行き来しては、ゼピュロスを探し回っている。
そのとき、突風が吹いた。
振り落とされそうになったフローラは体勢を立て直し、前方を見据える。
北風の神ボレアスが衣をなびかせながら、宙に立ちはだかっていた。左右を振り向くと、南風の神ノトスと東風の神エウロスもいる。囲まれた。
ボレアスがフローラに言う。
「いくら探しても同じだ。ゼピュロスはお前のもとへなど戻らぬ。おとなしく私と帰れ」
フローラは踵を返そうとしたが、再びボレアスに強風を吹かれ、足を踏み外した。
何も乗っていない花びらはもとの大きさに戻る。
落ちてゆくフローラを、ここぞとばかりにボレアスは捕らえようとしたが、ゼピュロスの背が受け止めた。ゼピュロスは止まらず、猛スピードで空中を駆け抜けてゆく。
フローラは驚くよりも、彼にしっかりとつかまっていた。
ボレアス、ノトス、エウロスは急いで追いかけるが、距離は縮まらない。
「兄貴。今の季節じゃあ西風のほうが有利だ。作戦を変えよう」
ノトスが言った。
ボレアスが止まると、ノトスとエウロスも止まる。
エウタロス湖畔の上空まで来ていた。湖面が赤黒く光っている。
ボレアスは冷笑した。ゼピュロスをおびき出すのは容易い。スパルタの王子を襲うのだ。
「アレスに協力を要請する」
三柱の風の神は、エウタロス湖畔へと下りて行った。
アレスとヴィーナスが、冥界と通じる扉を開いている。
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