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6 金の矢

 アポロンとヘルメスとアルテミスに連れられ、ヒュアキントスは神々の晩餐が行われる広間へ来た。  中に入ると、アドニスが見つかって安堵したためか、大勢の神々がまたいつものように、料理を囲って騒いでいる。  アドニスはゼウスとヘーラーとともにいるのであろう、彼らの姿は見当たらない。  しかし、王座はからではなかった。ゼウスとヘーラーが不在であるのをいいことに、そこではディオニューソスがあぐらをかき、ガニュメデスを隣に座らせて、酒をあおっている。ディオニューソスは変身していたようであるが、酔ってもとの姿に戻りかけていた。  他の誰かが王座を奪っているなど、全能なるゼウスが知らぬとは考えがたく、神々が黙認しているはずもない。 「あのディオニューソスを相手に本気で説教したところで、今さら無駄だと、ゼウス様は悟っていらっしゃるのだよ」 「いいや。案外、ゼウス様はディオニューソスを王座の番人としている」  ヒュアキントスが来るなり、皆は彼の周りに集まって、世話ばなしに花を咲かせる。  何はともあれ、ガニュメデスが二日酔いから立ち直っていることに、ヒュアキントスは安心した。 「クレイオもいないようだけど」 「用事があるからって、ムーサ全員で出かけて行ったわ」  ヘルメスとアルテミスの会話を聞いて、ヒュアキントスは内心ほっとする。正直、母とは顔を合わせづらい。  ヘパイストスとキューピッドの姿がないことは、気がかりである。ヘパイストスの仕事がまだ残っているのだろうか。  泉の精が、ヒュアキントスが座っている席のそばまでやってきた。 「ヒュアキントス。手品をやってみせるわね」  彼女がヒュアキントスの水を手に持つと、グラスの底から泡が湧き起こる。 「どうやったの?」 「分からない。さっきから、自分の意思に関係なくこうなるの。何だか胸騒ぎがするわ。エウタロス湖畔に異変が起きてなければいいけど」  アルテミスが窘める。 「あんた、ヒュアキントスに絡んでばかりいないで、向こうで先輩たちに酌をして回ったらどうなの?」  自分は何もしないくせに、とぶつくさ文句を言いながら、泉の精は追い払われた。 「まったく。近頃の若い娘ときたら」 「アルテミスにそっくり」  本来アポロンが言うべき台詞を、ヘルメスが口にするのは、アポロンが先ほどから飲んでばかりいるからである。  晩餐で出された酒ではない。ヒュアキントスの部屋に置いていたネクタルを、アポロンが持ち出し、自分で口にしているのである。  ヒュアキントスは心配になった。 (ディオニューソス様みたい)  いや、やけ飲みがこれほど上品であるものか。  ヒュアキントスは、アポロンとの間に置いてある竪琴に目を移す。返しそびれ、部屋に置いておく気にもなれずに、そのまま持ってきてしまった。今のアポロンにとってのネクタルは、この竪琴と同じなのかな。  ヒュアキントスは水を飲む。  シュワッ  炭酸水になっていたグラスの中身に、慌てて砂糖をほうり込んだ。 「まずい飲み方をしおって」  ヒュアキントスのことではない。上座からアポロンの様子を見とめ、ディオニューソスは隣へ命じる。 「ガニュメデス。邪魔してやれ」 「かしこまりました」  ガニュメデスが恭しくその場を立つと、ディオニューソスもゆっくりと立ち上がり、広間を後にする。  瓶の中のネクタルはなかなか減らない。ヒュアキントスと口を利くのはまだ気まずいかと思っていたが、口を利かずとも同じなのである。いっそ何事もなかったかのようにふるまうほうがいいだろうか。  アポロンは、ヒュアキントスの様子を窺う。  海底神殿に住むポセイドンは、ヒュアキントスとは初対面である。アテナの紹介を経て、彼はヒュアキントスに水晶玉を見せている。水晶玉の中で泳ぐ小さなイルカたちは、彼の神獣である。  水晶玉に指を当て、指のそばへ集まってくるイルカたちに微笑んでいる、そんなヒュアキントスを見ていると、非常に話しかけづらい。  アポロンの心情を察したポセイドンは、ヒュアキントスに別れの挨拶をする。 「それでは、ごゆっくり」  アテナと連れ立って、自分たちの席へと戻って行った。  さて、何を話そうか迷ってしまう。話したいことがありすぎて、話すことが何もない。  考えながら、アポロンが自分のグラスにネクタルを注ごうとしたとき、 「アポロン様」  アポロンとヒュアキントスの間に、光沢のある薄衣がするりと割り込んだ。ガニュメデスの縦に長いラインをなぞっている。  ガニュメデスはアポロンに、ふわりと微笑み、 「おつぎいたします」  アポロンの手から、そっと酒瓶を奪う。  アポロンは、ついでにヘルメスとアルテミスも、驚いた。 「ああ、ありがとう。でも・・・・・」  アポロンはヒュアキントスに目を向ける。  ヒュアキントスは黙々と食事している。気にしていないのか、気にしていないふりしているのか。 「ディオニューソスの相手をしなくていいのかい?」  尋ねるアポロンに、ガニュメデスはネクタルを注ぎながら、 「ディオニューソス様はお仕事です。これから忙しくなるようですよ」  当然のように、アポロンの膝の上に座っている。  ネクタルは、赤く鋭く輝いている。その輝きは、ガニュメデスが倒れたときのことを思い起こさせる。 「その・・・・・この間は、すまなかった。無理をさせてしまって」  すると、ガニュメデスはとろけるような眼差しでもって、アポロンを見上げ、 「いいんですよ。アポロン様のためですから」  ゼウスに頼まれた際には、ゼウス様のためですからと言っていたのを、ヘルメスは黙っておいた。 「体の調子は、もういいんだね?」 「あなたに倒されても、押し返せるほどに」  アポロンは思わず笑った。 「冗談を」  そしてネクタルを飲む。  からになったグラスの中に、ガニュメデスはネクタルを注ぎ、 「眠っている間、夢を見ていました。ディオニューソス様に、あなたと一緒に鳥籠に閉じ込められる夢を。鉄でできていて、底が抜けた大きな鳥籠でした。鳥籠の中で、あなたが僕に襲いかかり、反対に、僕があなたを押し倒すのです」 「凄い夢だね」 「夢から覚めると、その鳥籠が本当にありました。ディオニューソス様がヘパイストス様に作らせていたようで」  アポロンはグラスを口へ運びかけ、 「まさか、ディオニューソスは本当に君を閉じ込めるつもりじゃないだろうね」 「どうでしょうか。あの方は悪巧みの名人ですから」  悪戯っぽく微笑むガニュメデスに、妙に安堵した。  アポロンは再びネクタルを飲む。  ガニュメデスはヒュアキントスを横目で見、アポロンのグラスにネクタルを注ぐ。 「アポロン様。金の矢って、本当は金の矢ではないと思うんです」  満たされたネクタルを飲み干すと、アポロンはくすりと笑う。 「いきなり、どうしたんだい?」  そろそろ酔いが回ってきたらしく、ほんのりと頬を紅潮させている。 「恋の矢は、金色の矢の形とは限らないんです。それは声だったり―――――」  美しい声が耳をくすぐる。 「眼差しだったり―――――」  きらきらとした瞳がこちらを見つめる。 「香りだったり」 (香り・・・・・)  アポロンは、心の中で呟いた。  酒の香りがきつい。本格的に酔ったか、めまいを覚える。  ガニュメデスはヒュアキントスのほうへ、竪琴をさりげなく押しのける。  ジャラン  手に弦が当たり、ヒュアキントスははっとした。  やらなければいけないことがある・・・・・  ヒュアキントスはアポロンを見、何も言わず、ヘルメスのほうを向いて、 「僕、そろそろ失礼します」  立ち上がり、竪琴を手に持つと、 「これ。やっぱり、もう少しお借りしますね」  そう言って、足早に歩き出す。  アポロンが引き止めようとしたとき、 「ああっ。アポロン様の筋肉、すてき!」  アポロンの胸板に、ガニュメデスが抱きついた。  ヒュアキントスが広間から出てゆくと、ヘルメスとアルテミスは思った。 (終わった・・・・・)  自分の部屋へ帰ると、ヒュアキントスはベッドの端に座り、竪琴を奏でる。  タミュリスがくれた曲。  アポロンがこれを聞けば、自分が友人の死を受け入れられず、未練を抱いているだけのように思うかもしれない。  タミュリスのことを決して忘れないというのは、本当である。  でもね、アポロン様。  あなたに嘘をつかないためには、自分にも嘘をついてはいけない。  本当は、あなたを愛していた。その瞬間から、あなたを傷つけないと決心した。  あなたを諦める代わりに、タミュリスを愛した。タミュリスは、ヒュアキントスの心を汲み取ってくれていたのである。  彼の思いに応えたい。応えなくてはなるまい。  これはタミュリスがヒュアキントスにくれた曲。それをどのように自分のものにし、誰を思って表現するかは、全てヒュアキントス自身が決めていいこと。  タミュリスはきちんと理解した上で、ヒュアキントスに竪琴を弾かせてくれた。  そして、ヒュアキントスに歌を託した。  あなたを幸せにしたいと思っていた。それこそが、あなたを幸せにできない要因だとも思っていた。自分があげたいものをあなたは欲しがらない、あなたが欲しいものを自分はあげられないと。  どうすればいいのか、自分に何ができるのか、タミュリスが気づかせてくれた。  ヒュアキントスは、タミュリスとの約束も、アポロンとの約束も守る。  アポロンの歌を聞くことは、もうないであろう。それでもヒュアキントスには、やらなければいけないことがある。  ヒュアキントスは歌い出す。  タミュリスと一緒に築いてきたものが、アポロンの心の傷を埋めることになってもいいのである。  ディオニューソスはゼウスの部屋へ向かっていた。  扉を開き、室内へ入ると、さらに奥まった小部屋へと進む。  薄暗いその中央に、大きな桶が置かれており、その中でキューピッドがたくさんの葡萄を踏み潰している。そこにヘパイストスが蜂蜜を加える。  ゼウスとヘーラー、そしてハーデスとペルセポネに囲まれ、椅子に座りながらアドニスがその光景を見つめている。彼は縛られていない。  ディオニューソスは静かに彼のそばまで歩み寄ると、いつも持ち歩いている酒瓶の酒を、桶の中へほんの少し注ぐ。  すると、葡萄の果汁が発光し始めた。  ペルセポネはそっと、アドニスの肩に手を回す。  夜が更けた頃、ヒュアキントスは演奏を終える。  完成した。  アポロンはまだ広間にいるのだろうか。神々の宴は一晩じゅう続く。途中で抜け出す者もいれば、翌朝まで飲む者もいる。ディオニューソスなど、そこで寝てしまうのが常である。今宵はどういう風の吹き回しか知らぬが。  ヒュアキントスは竪琴を枕もとに置き、茶を飲んでから、ベッドに入る。  アポロンにこの曲を聞いてもらうのは、もう少し先でもいい。そう自分に言い聞かせ、眠りに落ちて行った。 ―――――「でも・・・・・何だか、怖いです」 「心配ないよ。痛くはないし、血も出ない」  手を振りほどこうとするヒュアキントスの腕を、アポロンがつかんでいる。もう片方の手には、金の矢を持っている。  夢を見ているのだろうか、昔を思い出しているのだろうか。  そして誰の夢なのか、思い出なのかさえも分からない。  ヒュアキントスか。それともアポロンか。 「刺さると願いが叶う矢なんだ」  アポロンの手に力がこもる。 「叶えば、矢は身体の中へと溶け込んでゆく。悪いことなんて何一つ起こらないよ」  誰の願い?・・・・・僕の願い。 「怪我なんてしないから」  させないから。  矢先が、ヒュアキントスの肌へと近づいてゆく。 「だったら」  ヒュアキントスが声を上げた。  アポロンは彼を見る。 「だったら、アポロン様、ご自分を刺せばよろしいではありませんか」  言ってしまってから、後悔したような瞳になる。そこに映った顔も。  なぜ・・・・・そんな必要ない。金の矢がなくとも、もう自分の気持ちは決まっているのだから。  なぜそんな顔をするの。後悔しているのは自分のほうなのに。 「・・・・・ごめんなさい」  謝ったのはヒュアキントスだった。  なぜなの?どちらが悪いの?  ・・・・・本当に、どちらも悪いの?  ヒュアキントスには分からない。アポロンには分からない。  傷つけたくないよ。彼を傷つけてしまったら、自分はもっと傷つくだろう―――――  晩餐を抜けてきたアポロンは、ヒュアキントスの部屋の扉を開ける。  中に入り、ベッドのそばまで歩み寄ると、そっとヒュアキントスの様子を窺う。  軽く閉ざされている目蓋は、開きそうで開かない。うっすらと開いた唇からは、規則正しくかすかな寝息が漏れている。  アポロンはヒュアキントスの顔に手をかざし、彼が起きないのを確かめると、彼の衣服の前を開いた。  小さな薄い胸が、夜目にも白く浮かび上がる。  壊れものを扱うような慎重さで、アポロンはヒュアキントスの胸に手を置く。  ドクン  心臓が飛び跳ねた。己の心音と錯覚したと思ったが、己の心音も同じ状態であった。  アポロンはもう一度ヒュアキントスの顔を見、相手が目を覚ます気配のないことを確認した後、彼の胸をくるりと撫で上げる。  普段の手足の冷たさと反比例し、ヒュアキントスの胸は異様なほどに熱い。  彼は生きている―――――これまで以上にそのことを実感し、嬉しさが込み上げてくる。  しかし、ヒュアキントスには役目がある。  アポロンは懐から、束ねられた金の矢を取り出し、そのうちの一本を、ヒュアキントスの胸をめがけて振り上げる。  そのとき、ヒュアキントスの唇が震えた。 「ごめん・・な、さ・・・・・」  すんでのところで、アポロンは手を止める。  ヒュアキントスは目を閉じ、安らかに寝息を立てている。彼の瞳からは、涙が流れている。  負けた・・・・・彼と争っていたわけではないが、そう感じた。そして、これでよかったとも思えた。  アポロンはふっと笑い、金の矢を振り下ろす。―――――自分自身の胸に突き刺した。  金の矢が、アポロンの胸に吸い込まれる。胸が内側から、じんわりと温かくなる。  二本目、三本目―――――残りの矢を一気に、自分に刺した。矢が全て吸い込まれ、身体じゅうが熱くなる。  アポロンはヒュアキントスの上へと倒れ込んだ。  それでもヒュアキントスは目を覚まさない。夢と戦っている。

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