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7 狂争〜悲しみを越えた愛〜

 陽光に照らされ、ヒュアキントスは目を覚ます。  眩しい天蓋が、視界いっぱいに広がった。  とても暖かく、気持ちがよい朝である。つらい夢を見ていた気がするにもかかわらず、不思議と寝覚めはすっきりしている。  もう一度寝てしまいたくなり、瞳を閉じる。と、すぐに違和感を覚え、目を開けて横を向く。  アポロンの寝顔がそこにあった。  反射的に飛び起き、ヒュアキントスは彼の様子を見る。彼の片腕が、こちらの枕に伸びている。自分は今までその上に頭を載せていて、夜の間ずっと気がつかなかったなんて。  その腕をそっとどけ、ヒュアキントスはアポロンに背を向けるようにして、再び横になる。このまま狸寝入りを決め込んで、自分は何も見なかったことにしておこう。 「ヒュアキントス」  優しい声に名を呼ばれ、仕方なく振り返る。  アポロンが微笑んだ。 「起きてるよ」  ヒュアキントスはゆっくりと上体を起こし、冗談めかしながら、 「どうなさったんですか?僕の部屋で」  言ってしまってから、少し後悔する。この部屋は借りているだけ。  改めて起きると、また不審に思った。服の胸もとが、寝起きの割にきちんと整っている。  アポロンは、何も気にすることはなく、 「叶えたいことがあったんだ。難しいけど、簡単なことだよ」  ヒュアキントスはアポロンを見つめる。  アポロンは語る。 「最初は、僕が君の願いを叶えるつもりだった。けれど、いつの間にか、君に僕の願いを叶えさせようとしていた」  自分が彼を愛し、彼も自分を愛することが、ヒュアキントスのためになると思っていた。 「道具に頼ろうともした。そんなことをしても、本当には願いなど叶わないのに」  金の矢を使ってでも・・・・・自分のためではなく、彼のために彼を愛しているのだと、そう信じていた。 「だから、君の願いだけを叶えることにした。ヒュアキントスの言うとおりにしたんだよ」  薄く笑う。  ヒュアキントスははっと胸を突かれ、アポロンの襟を返す。懐にあるはずの金の矢の刺繍が、なくなっていた。 「・・・・・全部、ご自分に刺してしまったのですか」  僕の分、残しておいてくださらなかったのですか。  アポロンは天蓋を見上げ、 「すがすがしいよ。自分の本心を受け入れられるようになって、君の本心も受け入れられるようになった」  ヒュアキントスのほうへ向き、 「タミュリスの代わりなんだろう。僕は」  ヒュアキントスはしばらくアポロンを見つめた後、やがて苦笑する。 「アポロン様こそ。僕は、お姉さまの代わり・・・・・」 「それは・・・・・」 「ではありませんね」  アポロンは、目をしばたたく。  ヒュアキントスはにっこりし、 「ディオニューソス様から、オルペウス様の(うた)の続きを聞かせていただきました」  そして歌い始める。 「白羊宮が双魚宮を追う  冬が春へと移り変わる」 「・・・・・」 「緑の草原を色づけるのは  生まれ変わったヒュアキントス」 「・・・・・」 「我が父アポロンは」 「・・・・・」 「誰よりも彼を愛した――――― ―――――少年と神とは着物を脱ぎ捨て  身体に塗ったオリーブオイルを光らせ  大きな円盤で投げ比べを始める」  赤い花の咲く丘で、青年が竪琴を弾きながら歌っていた。青年はアポロンに似ていた。 「まず、アポロンが円盤を投げる  円盤はその重さで雲を払いのけ  長い間をおいて地面に落下する」 「オルペウス!」  若きディオニューソスが、酒宴の席でテーブルを叩く。 「わしの祭りだぞ!わしの歌を歌え!」  しかし、青年オルペウスは続ける。 「少年はすぐさま円盤を拾いにゆく  軽率には違いなかったが  競技に心がはやっていたのだ」  ディオニューソスの信女(マイナス)たちが、オルペウスを睨む。 「おのれ。オルペウス」 「よくもディオニューソス様を侮辱しおって」  オルペウスは歌い続ける。 「が、円盤は固い大地を跳ね返り  少年の額を直撃した  少年はもとより神も色青ざめて  崩れ倒れる少年の身体を抱き起こす」  青年はアポロンに似た声で、 「ヒュアキントス、   僕の罪は何だったのだろう  君と円盤の投げ比べをしたことかい?  それとも、君を愛したことかい?  ああ、君の代わりに   僕が死ぬことができたら・・・・・」  青年は涙を流す。  マイナスたちの顔が、怒りに醜く歪んでゆく。 「大地に流れた少年の血に  神の涙が落ちると  そこから赤い花が咲いた」  マイナスの一人が、テーブルに置かれていたナイフを、オルペウスへ向かって投げる。  オルペウスの頬に線が走り、赤い点が衣に落ちた。  彼はその点を見つめ、 「そうだ、アポロンはこの色を愛したのだ  テュロス染めの紅よりも鮮やかな赤  彼はその花びらに   AIAIの文字を記した」  マイナスたちが一斉に、ナイフやフォークを投げる。  オルペウスの周りで、赤い点が宙を舞った。それは血ではなく、花びらであった。  彼の声が途絶えても、彼の竪琴が歌い続ける。 「白羊宮が双魚宮を追う  冬が春へと移り変わる  緑の草原を色づけるのは  新たに咲いたヒヤシンス  我が父アポロンは――――― ―――――何よりもその花を愛した」  ヒュアキントスが歌い終える。  この(うた)は、オウィディウス著『変身物語』に収録されている。  アポロンは懐かしそうに、 「オルペウスにとって、僕は音楽の師匠だった。それで、彼は僕のことを父と呼んだ」  本当の子どもではなかったのである。  それにしても、オルペウスは一つだけ間違っていることがある。ヒュアキントスの要望で、結局アポロンとヒュアキントスは服を着たまま円盤投げをしていたのである。  ヒュアキントスは話す。 「ディオニューソス様、こんなこともおっしゃったんですよ」 ―――――「ヒュアキントスよ。恋の矢というのは、金色の矢の形とは限らんのだ。それは声だったり、眼差しだったり、光だったりする」―――――  アポロンはふふっと笑う。 「何だか、聞き覚えのある台詞だね」  あの酔っ払いとあの男娼は、だてに一緒にいるわけではないのかもしれない。  ヒュアキントスは天蓋を振り仰ぎ、 「昔、母に連れられて、一度だけデルポイの神殿へ行って、あなたの像を見たことがありました」  眩しげに、目を細める。 「輝いていた」  あの中に、あなたが宿っていた。 「アポロン様。僕、どうやって神になるのですか」  もう覚悟は決まっている。  アポロンはヒュアキントスを抱き寄せ、彼に覆いかぶさると、彼の髪に口づけをする。 「アポロン様っ」  ヒュアキントスは驚いて顔を背ける。今度はその頬に、アポロンは口づけをする。 「こんなときに、遊ばないでください」  頬を赤く染めたヒュアキントスの、悩ましげな瞳に顔を近づけてゆく。目蓋が閉じた瞬間、彼の睫毛に口づけを落とす。  それからアポロンは顔を上げ、 「ネクタルの気を、僕の口から君の体に、少しずつ移してゆく。最後に、君の中へ送り込む」  ヒュアキントスは虚ろながらも、彼の言葉を聴いていた。  首へ、肩へ、胸へ―――――ヒュアキントスのいたるところへ、アポロンは口づけをしてゆく。  ただ、ヒュアキントスの唇だけは、未だにアポロンの訪れを待っていた。  ゼウスの部屋で神々が待機していると、ヘルメスが飛び込んできた。 「大変だ!アポロンの部屋へ朝食を運びに行ったら、彼がいない!」 「朝食を運びに?」 「あなた、お兄様の何?」  アテナとアルテミスが訝しげな顔をする。 「悪かったな、使いっ走りにされて。碁で負けただけだよ」  突然、地鳴りが響いた。  ゼウスは命じる。 「エウタロス湖畔へ急げ!」  次から次へと、神々は部屋を出てゆく。皆が神殿の外に向かう中、ディオニューソスは広間のほうへゆっくりと歩いてゆく。  ゼウスは咎めることなくそれらを見送ると、部屋へ向き直り、奥にある小部屋へと歩む。  中には光る葡萄の入った桶があり、その周りにアドニス、ヘパイストスとキューピッド、ヘーラー、ハーデスとペルセポネがいる。 「ハーデス殿」  ゼウスが言うと、ハーデスは身に纏っている黒衣を翻した。黒衣はみるみる広がってゆき、床、壁、天井・・・・・ついには部屋全体を覆い尽くしてしまった。  辺りは真の闇に支配される。  唯一、葡萄の果汁は発光し続けていた。  割れた窓ガラスから、アポロンはヒュアキントスを庇った。  アレスが剣を手に仁王立ちしている。  彼から目を離さないまま、アポロンは光の剣をにぎり、ヒュアキントスもベッドの脇の剣を取る。  アレスが動き出した。  アポロンの合図で、ヒュアキントスは剣を持ったまま部屋から出てゆく。  カキン  アレスの剣を、アポロンの剣が受け止める。  打ち合いは続く。  ヒュアキントスは夢中で廊下を走った。どこへ逃げればよいのか分からなかったが、とにかくアレスのいる場所から離れようとした。  不意に、手に打撃を受けた。剣を取り落とす。  拾うまもなく、ふわりと身体が浮いたかと思えば、アレスがヒュアキントスを脇に抱え、猛スピードで駆けていた。  ヒュアキントスは目を疑った。 「どうして!」  アレスは冷笑する。  隙を見て、アポロンは剣を振るう。  アレスが倒れたように見えた。が、手応えはなかった。  気がつくと、アレスの姿はどこにもなく、床には古い屍が落ちていた。それは煙となって消えた。  アポロンははっと胸を突かれ、急いでヒュアキントスを追う。  ヒュアキントスを担いだアレスは、広間へ来た。  青年姿のディオニューソスが、王座で酒を飲んでいる。隣の席でガニュメデスが酌をし、その肘掛けに黒鷲が止まっている。  アレスはディオニューソスへ叫ぶ。 「アドニスはどこだ!」  ディオニューソスはゆったりと酒を口へ運びながら、 「ゼウスに聞け」 「そのゼウスがいないのだ!塔の最上階が消えている。奴の部屋をどこに隠した!」 「知らん」  ディオニューソスの声が静かに反響する。  黒鷲が飛び立った。  アレスの頭に血が上る。 「ああああああああっ」  ヒュアキントスを担いだまま、アレスは剣を振り上げ、ディオニューソスへと猛進する。  一瞬、ディオニューソスが王座から消えた。と思ったら、彼はアレスのすぐ目の前に現れた。  カキン  ディオニューソスの杯が、アレスの剣を受け止める。  カキン  杯は割れるどころか、びくともしない。  次第にアレスは冷や汗を浮かべ、 「酔っ払いのくせに、やるではないか」  ディオニューソスは涼しげな顔で、 「わしは大したことはない。お前が弱くなっただけだ」 「何?」 「考えてもみろ。お前はヴィーナスと共謀し、ヘパイストスを裏切った。そして、神々の武器は皆、ヘパイストスによって作られている。だからお前にその剣は使いこなせんっ」  カキン  ヒュアキントスは必死に身を縮こまらせていた。  そこへ、アポロンが駆けつけてきた。 「遅かったな。そろそろ代われ」  ディオニューソスがそう言って杯で剣をはじいた瞬間、術にかかったように、アレスの相手がアポロンに入れ替わっていた。  驚く暇もなく、アポロンとアレスは打ち合う。  ディオニューソスは王座へ舞い戻った。 「わしはこいつを肴にして、酒を飲んでおるぞ」  いつのまに奪ったのか、ヒュアキントスを抱いている。  ヒュアキントスは、自分がどうやってディオニューソスのところへ移動したのか、まったく思い出せなかった。しかし、いつまでも悩んではいられない。アポロンが心配である。  アレスは血眼になっていた。ディオニューソスを倒せなかったことと、人質にするはずのヒュアキントスを奪われたことで、やけになっているのだ。  しばらく打ち合っていると、アレスが急にアポロンから離れ、走り出した。逃げるのかと思いきや、ディオニューソスと、そしてヒュアキントスのいる王座のほうへ向かっている。  アポロンは急いで追いかける。  が、アレスはもう、ヒュアキントスの目の前まで来ていた。剣を振り上げる。  バシャッ 「ううっ」  ヒュアキントスは、あっけに取られた。  剣を落とし、赤い液体にまみれた自身の顔を押さえ、アレスが膝を折った。 「申し訳ございません!アレス様」  ガニュメデスが駆け寄る。 「ディオニューソス様にお酒をおつぎしようとしたら、手が滑ってしまって」  アレスの手をどけ、顔を覗き込む。 「大丈夫ですか」  アレスは薄目を開け、ガニュメデスを見つめる。 「ガニュメデ・・・・」  不意に、ガニュメデスを押し倒した。 「アレス様!お許しくださっ」  ガニュメデスが言い終えぬうちに、アレスは彼の唇を己のそれで塞いだ。 「ガニュメデス!」  助けようとするヒュアキントスの肩を、ディオニューソスがつかむ。 「わざとだ」 「えっ」  アポロンとヒュアキントスは、ディオニューソスを見る。 「ガニュメデスは、酒に惚れ薬を仕込んだ」  ヒュアキントスは目を見開く。 (ガニュメデス・・・・・)  そんな性格だったの。 「逃げろ!ガニュメデスが身体を張ってお前を庇ったことを、無駄にするな!」  ディオニューソスの声を背中に、アポロンとヒュアキントスは走り出していた。  ディオニューソスは、天井へ向かって叫ぶ。 「やれ!阿呆鳥(あほうどり)」  ディオニューソスの合図で、黒鷲は運んできた大きな鳥籠を床へ落とす。鉄でできていて、底が抜けた鳥籠。  鳥籠は丁度、ガニュメデスもろともアレスを閉じ込めた。  アレスはかまわず、ガニュメデスにむしゃぶりついている。  ディオニューソスは黒鷲に、 「こいつを見ものに、わしらだけで宴会の続きとゆくか」  しかし、黒鷲は広間から飛び去った。 「ちっ。つき合いの悪い奴め」  ディオニューソスは独りで、宴会を続けることにする。  ガラスの破片が散らばったヒュアキントスの部屋で、ヴィーナスは佇んでいた。 「あーあ。この部屋、気に入ってたのに」  ゆっくりと歩きながら、部屋を見回す。  ふと、テーブルに置かれた円盤に目が留まった。  ヴィーナスはにんまりと笑う。  神殿の外へ出ると、死者の軍隊が空から追ってきていた。  アポロンは帯飾りの羽根を宙に投げ、ペガサスを呼ぶ。ヒュアキントスをその上に乗せ、アポロンも前に跨ると、ペガサスを飛ばす。  ペガサスはオリンポスから離れ、デルポイを通り過ぎ、スパルタへと近づいてゆく。  エウタロス湖畔の上空まで来ると、ヒュアキントスは目を見開いた。  天上では神々と死者の軍隊の戦いが繰り広げられており、地上ではデルポイとスパルタの戦いが繰り広げられている。  突如、白鳥に乗ったヴィーナスが襲ってきた。  アポロンはペガサスの手綱を取ってかわす。が、ヒュアキントスが滑り落ちてしまった。 「ひゃ―――――」  アポロンが追いかけようとするが、ヴィーナスが邪魔をする。  ヒュアキントスはみるみる落下してゆき・・・・・ふわりと、柔らかい衝撃があった。 「ナイスキャッチ!」 「ヘルメス様!」  自分でナイスと言ってしまうヘルメスに安心。  北風の神ボレアスが青い衣をなびかせ、斧を振り回して、こちらへ迫ってくる。  ヘルメスは翼の生えたサンダルで空を飛びながら、羊飼いが使うような木製の杖で迎え撃つ。  カキン  芯まで木製かどうかは疑わしい。  だが、ヘルメスは片手にヒュアキントスを抱いて戦っている。どう考えても、戦況は彼のほうが不利である。にもかかわらず、彼のこの余裕の笑みはどこから来るのだろうか。  と、  パタパタ・・・・・  翼の生えた帽子が、ヘルメスの頭から飛び立ち、ボレアスの顔に張りついた。  ボレアスは慌てて引き剥がそうとする。  隙ありと言わんばかりに、ヘルメスは横なぎに杖を振るう。  ボレアスはそれをまともに食らい、まっ逆さまに下界へ落ちて行った。  横を飛ぶ帽子に、ヘルメスは杖を持ったままウィンクする。 「やったね、帽子」  思い立ったら空を見上げよう。ヘルメスの帽子が飛んでいるかもしれないよ。  ちなみに、ヘルメスの背負っている武器が増えてゆくのは、敵から盗んでいるわけでも、それを後で高く売り飛ばすつもりでもない。  そこへ、  キュルルルルルルルル  遥か頭上で、鳥の鳴き声がした。  ヘルメスはにやりと笑う。 「わし座(アクイラ)、パス!」  何をパス?と思うまもなく、ヒュアキントスは空高くほうり上げられた。 「ひゃ―――――」  ヒュアキントスは、今度は急上昇し―――――また、ふわりと受け止められた。  彼は巨大な黒鷲の背中に乗っていた。 「さっきの鳥」 「ヒュアキントス!」  すかさずアテナが投げ渡したものを、ヒュアキントスは受け取った。 「ありがとうございます!」 (って、なんでアテナ様が僕の剣を・・・・・)  勝利の女神はすでに動いていた。  ヒュアキントスが黒鷲を乗りこなせるようになるのは早かった。おそらく黒鷲のほうも、ヒュアキントスのような少年を乗せることに慣れているのであろう。  周囲を見渡すと、金の牛に跨ったアルテミスが、南風の神ノトスのはためかせる赤い衣に突進してゆく。あれが金牛―――――ミルクを出す牡牛座。  アテナはフクロウに乗って、黄色い衣の東風の神エウロスと戦っている。  ポセイドン率いる空飛ぶイルカたちが、ドルフィンキックで死者たちを蹴散らしてゆく。その向こうではムーサが鎮魂歌を歌って死者を眠らせ、さらに向こうでは天上界最強の軍隊獅子座流星軍が飛び交っている。  倒された死者は煙を上げて消える。冥界へ戻ったのである。  ヒュアキントスは剣を鞘から抜き、向かってくる一人の死者に振る。  手応えはなかったが、死者はぽんと煙を上げて消えた。  術で操られている死者の軍隊は動きが遅く、封じるのは容易い。やっかいなのは、その数がなかなか減らないことである。真下でデルポイとスパルタが争っているため、むしろ死者は増えていると言える。  二人目の死者が、ヒュアキントスを攻めてくる。  ヒュアキントスはその攻撃を、剣で受け止める。  彼の手が塞がっている間に、七人の死者が飛びかかってくる。 ―――――虹の女神イリスが、七色のリボンで七人の死者を捕らえる。  別の死者が、イリスに斬りかかってくる。 ―――――静寂の神セイレーンが息を吹きかけ、死者を凍らせる。  死者たちは煙を上げて消えた。  嘘の神ミラージュの背後に、また別の死者が剣を振りかざす。 ―――――の嘘の神ミラージュが、さらにその背後から死者に棍棒を食らわせる。  死者は消え、ミラージュとミラージュの幻は顔を見合わせ、にやりと笑った。  もう一人の死者が、ヒュアキントスに襲いかかってくる。 ―――――巨大化した色彩の神カメレオンが宙に現れ、長い舌を伸ばして死者を飲み込む。  死者はげっぷとなって消えた。  ヒュアキントスはようやく二人目の死者を封じる。  アポロンと打ち合いながら、ヴィーナスはそれらの様子を見かねていた。そして隙を見て、懐から円盤を取り出す。  皆があっと思うまもなく、ヴィーナスは円盤を、ヒュアキントスめがけて勢いよく投げた。  そのとき、西風が吹いた。  円盤の動きが鈍り、その円盤を茨の蔓が捕まえる。  見ると、ゼピュロスとフローラが、大きな花びらに乗って空に浮かんでいた。  ヴィーナスはゼピュロスに、 「あたしとアポロンの、どっちの味方なの!」 「端からどちらの味方でもない。お前が私を利用しようとしていただけだ」  そして自分の目的が、ヒュアキントスをさらうことから、助けることになったというだけである。  ヴィーナスは歯を食いしばり、呪詛を唱える。  すると、円盤が震え始めた。円盤はひとりでに動き出し、フローラの腕から伸びている茨の蔓を引きちぎって、ヒュアキントスのほうへと飛んでゆく。  円盤を阻止しようと神々が動き出し、神々を阻止しようと死者たちが動き出す。  ヒュアキントスは身構える。円盤をよければ、またヴィーナスの呪詛によって動かされてしまうだろう。受け止めなければ。  が、あろうことか円盤はみるみる大きくなり、ついにはヒュアキントスの身体より大きくなってしまった。  ヒュアキントスは目を見開いた。  がつんと、音がしたが、痛みは感じなかった。  目の前で、ヒュアキントスを庇ったアポロンが背中を強打し、ペガサスから落ちて行ったのだ。  黒鷲がすぐさま追いかけ、ヒュアキントスを乗せたその背にアポロンを受け止める。  ヒュアキントスはアポロンを抱き起こす。  アポロンは気を失っている。  ペガサスが駆け寄り、主に顔を擦り寄せたが、彼は目を覚まさない。  葡萄の果汁が発光を終えた。  ゼウスはそれを柄杓ですくい、グラスに注ぐ。そしてキューピッドに差し出す。  キューピッドはグラスを受け取り、でき上がったばかりの酒を口に含むと、アドニスと向かい合う。  それから、彼の肩に両手を置き、彼の唇に自らの唇をつける。  ネクタルの気が、アドニスの身体へと流れ込んでゆく。  すると、今度はキューピッドとアドニスの身体が、光を発する。  もとの大きさに戻った円盤が、ヴィーナスの手もとに戻る前に、アテナが受け止めた。  ヴィーナスは激しく歯軋りをし、刀を持ち直すと、白鳥を飛ばす。  立ち向かおうとする神々を、死者たちが邪魔する。  ヒュアキントスは背中にアポロンを庇いながら、剣を構える。  ヴィーナスはヒュアキントスへ向かい、白鳥から立ち上がって、刀を振り上げる。  が、ヴィーナスが刀を振り下ろす寸前、物凄いスピードで何かが飛んできて、彼女の手の甲に突き刺さった。  銀の矢である。  それはキューピッドの矢と同じように、ヴィーナスの手の甲に溶け込んで行った。  ヴィーナスは矢が飛んできた方向を睨み、 「キューピッド!」  しかし、弓を持っているのは別の少年であった。 「アドニス!」  皆が驚いた。  アドニスの背中には、キューピッドのような翼が生えている。  彼の隣にはもうひとり、同じ年頃の翼の生えた少年が飛んでいる。 「キューピッド?」  確信はなかったが、面影があった。皆が判別できたのは、後ろにヘパイストスが同伴していたからであろう。  ゼウスとヘーラー、そしてハーデスとペルセポネも、雲に乗って現れる。  ヴィーナスはハーデスとペルセポネを指差し、 「どういうこと?なんであんたたちがここにいるの!」  それにはゼウスが答える。 「冥界を守る軍隊が何者かによって盗まれたため、ハーデス殿が心配して、こちらの様子を見にきたのだ。調べたところによると、お前とアレスが冥界に通じる扉を無断で開き、死者の軍隊を呼び寄せたようだな」  ヴィーナスは言葉に詰まる。  ゼウスは続ける。 「それから、お前とペルセポネがアドニスを巡って争っていると、冥界にも影響が出るのだ。ハーデス殿としては、ペルセポネがアドニスを諦め、アドニスは現世で暮らすほうがよいと考えている」  ペルセポネがアドニスに現を抜かすことなく、夫である自分を愛せるように。  ヴィーナスが、他の誰でもない、本当に愛すべき者を見極められるように。 「そこで、アドニスに永遠の命を授けるべく、ネクタルを作ることとなった。ネクタルを発酵させる間、ハーデス殿が黒幕を張り、アドニスをお前やアレス、死者の軍隊から守り隠していたのだ。そして、ようやく先ほどネクタルが完成し、アドニスはその力で返愛の神アンテロースとなった」  返愛―――――自分を愛した者を愛し返すこと。  キューピッドの金の矢に対し、銀の矢は返愛の矢ということになる。  ゼウスはヘパイストスに目を向ける。  ヴィーナスもそちらを見る。  ゼウスは宣言する。 「また、アンテロースの養育はヘパイストスが担う。これにより、アンテロースをキューピッドの弟とする」  アポロンの占いどおり、キューピッドは弟の誕生とともに成長したのである。  ヴィーナスは、膝を折った。  ハーデスが死者の軍隊に命じる。 「アレスとヴィーナスは戦いをやめた。お前たちも、自分たちの世界へ帰れ」  死者の軍隊は、皆、震え上がってぽんと消えた。 「最初からこうすればよかったのに」 「ペルセポネはアドニスから離れなくて、ハーデスはペルセポネから離れなかったのよ」  ヘルメスとアルテミスの呆れた囁き声が、ヒュアキントスには聞こえた。ような気がした。  次に、ゼウスはヒュアキントスのほうへ顔を向ける。  ヒュアキントスは、剣を鞘に収め、ゼウスにひざまずく。 「ヒュアキントスよ。お前はまだ、不死の身ではない。完全なる神の身体となるために、アポロンに口づけをしなさい」 「はっ・・・・・、え?」  危うく返事をしかけ、ヒュアキントスは目を丸くする。  ゼウスは説明する。 「直接ネクタルを飲むことが危険である故、アポロンはお前にネクタルの気だけを移すことを考えた。アポロン自らがネクタルを飲み、お前に口移しで送るつもりでいたが、どうやら邪魔が入ったようだな。今、アポロンは失神している。お前がアポロンの口からネクタルの気を迎え入れよ」  ヒュアキントスは顔を真っ赤にし、きょろきょろと周囲を見回す。  皆は真剣な面持ちである。これは重大な話なのだ。  ヒュアキントスは腹をくくって、身体ごとアポロンのほうへと向き直る。  そしてゆっくりと瞳を閉じ、顔を近づけて、アポロンの唇に口づけをする。  その瞬間、熱気がヒュアキントスの口から、身体の中へ一気に押し寄せる。アポロンに口づけされていた身体のあちこちも、熱を帯びる。  目を開けると、ヒュアキントスは赤、青、白、黄金―――――色とりどりの光に包まれていた。身体がふわりと浮き、アポロンや黒鷲から離れてゆく。  アテナの手から、円盤が再び大きくなりながら、今度はゆっくりとヒュアキントスのもとへゆく。  円盤はヒュアキントスを乗せて上昇する。  光は天上に広がり、熱風が地上を吹き渡ってゆく。  そのまばゆい光を、デルポイのアポロン神殿から、巫女がそっと窺っていた。  暖かい風が神殿に入り、花瓶に生けてあった赤い一輪の花が、一本の茎にたくさんの花をつけたヒヤシンスに変わった。  スパルタの城では、先王アミュクラスが空を見上げ、微笑んでいる。  彼の眼下で、城の庭に咲いた赤い花も、エウタロス湖畔に築き上げた祭壇の周りの花も、赤、青、白、黄金の花々へと色づいている。  降り注ぐ光と春風と、そして聞こえてくる竪琴の音色に、デルポイとスパルタの両軍は顔を上げた。  スパルタ王アルガロスは、目を見張った。 「ヒュアキントス・・・・・」  両国の守護神として甦った弟―――――植物神として誕生したヒュアキントスが、優しく微笑みかける。  両軍は馬を降り、武器を捨て、新たなる神にひざまずいた。 「しみる、しみるっ」  オリンポス神殿へ帰ると、ヒュアキントスの部屋で、アポロンは薬草風呂に入れられた。  早くも彼は回復している。  にもかかわらず、ヘルメスとアルテミスはじゃんじゃん薬草をほうり込む。半ば楽しげである。クレイオがそんなふたりを咎めている。  フローラは彼らの様子を見て微笑みながら、薬草を運んでいる。  それらの騒ぎをよそに、ヒュアキントスはバルコニーで、ゼピュロスを見送っていた。 「トラキアに帰れば、またアネモイたちと喧嘩になりませんか?」 「フローラのことなら心配は無用だ。ゼウス様がボレアスに言い聞かせていた。花が北風と一緒にいると、すぐにしわくちゃの婆になってしまうと」  ゼピュロスはおどけてみせる。  ヒュアキントスも安心して笑った。  やがて、フローラがバルコニーに出てきて、 「そろそろ帰りましょうか」  ゼピュロスは部屋のほうを見、 「アポロンの具合はもういいのか」 「ヘルメスとアルテミスがよくしてくれてる。私がいなくても大丈夫そうだわ」  フローラはそう言うと、花びらを地面に落とす。花びらは巨大化した。 「元気でね」  ヒュアキントスに笑いかけ、フローラは花びらに乗る。  ゼピュロスとフローラは飛んで行った。  ヒュアキントスが室内へ入ると、部屋の扉が勢いよく開いた。 「ヴィーナスが僕の薔薇を風呂にしたって?」  不機嫌そうなキューピッドが、ずかずかと入ってきた。ちゃんとドアから入ってきた。 「だって、一輪挿しの花瓶にあんなたくさんの花、釣り合わないでしょ」  キューピッドの後から、ヴィーナスも続いてきた。  フローラたちが薬草を入れる前から、風呂には薔薇の花びらが浮かべられていたのだが、ヴィーナスのしわざであったか。  にしてもヴィーナスは、ヒヤシンスの花はちゃんと花瓶に残しておいてくれたのである。それは優しさなのか、好みなのか。  ヒュアキントスの部屋にあるヒヤシンスも、他のどのヒヤシンスとも同様、新たに生まれ変わっている。一本の茎にたくさんの花をつけている。  ヘパイストスとアンテロースも、挨拶しながら入ってきた。なるほど、キューピッドが扉から入ってきたのは、ヘパイストスが一緒だからか。  キューピッドは浴室のカーテンを開け、 「ほら。アポロンに使われてるじゃないか」  ヒュアキントスにあげたのに。  ヴィーナスも顔を覗かせ、 「いいじゃない。ヘルメスじゃないんだし」 「あ。それ、聞き捨てならない」  ヘルメスが参戦する。  アポロンは、ヴィーナスとキューピッドを睨み、 「不躾だな。勝手に覗くな」  アポロンの言うことを聞かず、ヴィーナスとキューピッドとヘルメスは口喧嘩を続ける。  ヒュアキントスは慌てて、彼らの間に割って入った。 「ヴィーナス様。部屋を片づけてくださって、ありがとうございます」  戦いが終わった後、ヒュアキントスの部屋へ戻ると、割れたはずの窓ガラスがもとどおりになっていたのである。  ヴィーナスは少し驚く。 「あら。なぜ私だと思うの」 「だって・・・・・」  若草色だったカーテンが、ピンクに・・・・・。  ヒュアキントスの視線を目で追い、ヴィーナスは凄んでみせる。 「可愛い男の子はピンクでいいの。文句言わない」 「文句だなんて、滅相もない」  言ってもどうせ聞いてくれないだろうから、黙って取り換えるつもりでいた。 「取り換えようものなら、今度はフリルをつけてやるんだから」  しばらく、このままにしておいたほうがいいかもしれない。  ふと、ヴィーナスはヒュアキントスを見、さらに驚く。 「そういえば、あなたどうしてアポロンと一緒に入ってないのよ!」  風呂を指差す。  えっ。一緒に入らなきゃだめですか?  ヒュアキントスが答えられずにいると、クレイオが話題を逸らしてくれた。 「ところで、ゼウス様にはなんと言われたの」  ヴィーナスはさらりと、 「あたしはエジプト、アレスは小アジアで、五百年間の謹慎を命じられたわ」  一度目の謹慎のときよりも、ふたりの距離は遠ざかった。  ヒュアキントスは驚く。 「五百年!」  長いな・・・・・。  ヘルメスとアルテミスはくすりと笑う。 「長い?」 「人間で言う、ゴールデンウィークの始まりから終わりくらいまでよ」  短っ。  アポロンが尋ねる。 「謹慎の後は、ヘパイストスのところへ戻るのかい」  ヴィーナスはふっと笑い、 「それは私が決めていいことじゃないわ」  ヘパイストスに目を向ける。  少しずつではあるが、彼女は彼の言うことを聞くようになったようである。  ヘパイストスは苦笑し、 「今すぐ決める必要はないよ」  キューピッドが茶化す。 「一生、決めなくてもいいぞ」  永遠に戻ってくるなという意味である。  しかしヒュアキントスは、ヘパイストス、ヴィーナス、キューピッド、アンテロースを見て思った。  五百年後、ヴィーナスは招かれざる者として、この一家に転がり込んでいるであろう。  アルテミスがヘパイストスに声をかける。 「ヘパイストス」  ヘパイストスは振り向く。 「美女には厳しくなさい」  そう言うアルテミスが、己の美貌に自覚があるか否かは、オリンポスの永遠の謎である。  ヘパイストスは微笑む。 「分かった」  ヴィーナスはヒュアキントスに目を戻し、 「くれぐれも、勘違いしないようにね。誰もあなたを本気で殺すつもりなんてなかったわ。アポロンがとっくにあなたを神にしてると思ってたのよ。それがまだだったなんて。あなた、どうしてアポロンを選んだの?あなたならもっといい相手が余裕で手に入るでしょうに」  ヴィーナスのおしゃべりは延々と続きそうである。逃げ出しても気づかれないであろう。  ヒュアキントスは、アンテロースのもとへと歩み寄る。 「いい翼だね。アンテロース」  まだ少し慣れない呼び名らしく、アンテロースは照れ隠しに頭をかき、 「お前はちっとも変わってないな」  それでいいと思った。 「僕はこれでいいよ」  自分が言おうとしたのに、ヒュアキントスに先を越された。  アンテロースが黙っていると、キューピッドが割り込んできた。 「僕のほうはもっと変わったぞ」  ヒュアキントスに、成長した姿を見せびらかす。 「うん。凄く格好いい」  キューピッドは十二歳くらいの少年の姿になっている。ヒュアキントスやアンテロースよりやや背が低く、アンテロースのほうが兄のように見える。 「何だと」  キューピッドがムキになる。  ヒュアキントスは手を振りながら、 「何も言ってないよ」 「顔が笑ってる」  ヒュアキントスは、微笑に冷や汗を浮かべるしかなかった。  思う存分しゃべったところで、ヴィーナスは本題に入る。 「で、あんた調子どうよ」  アポロンに言った。  ヒュアキントスは気がつく。  もしかして皆、アポロンの見舞いにきてくれた?  アポロンは澄ました顔で、 「元気だったよ。君たちが来るまでは」  ヴィーナスはヘパイストスとキューピッドとアンテロースを振り返り、 「ですって。さっさとずらかるわよ」  ヴィーナスとキューピッドは我先にと出てゆき、ヘパイストスとアンテロースは挨拶して去って行った。  ヒュアキントスは廊下に出て彼らを見送った後、部屋を振り返り、 「結局、アポロン様とヴィーナス様は仲がいいんですか?悪いんですか?」  それには、ヘルメスとアルテミスが答える。 「張り合うのが好きなだけだよ」 「ヘルメスを見ても分かるように、お兄様には悪友しかいないのよ。苦労をかけるわね、ヒュアキントス」  ヒュアキントスはげっそりした。人命を巻き込むほどスケールの大きなじゃれ合いを、神々は日常茶飯事行うのである。  そのとき、廊下の向こうから声がかかった。 「ヒュアキントス」  アテナとポセイドンが、こちらへ歩いてきた。  ヒュアキントスは彼らに微笑み、 「先ほどは、大変お世話になりました」  ポセイドンが差し出した水晶玉のイルカにも、指で挨拶をする。この小さなイルカたちが、あの大きな空飛ぶイルカの群れだなんて。 「こいつが、お前に話があるそうだ」  アテナがそう言うと、彼女とポセイドンの間から、アレスが現れた。  ヒュアキントスは硬直する。  アレスはばつが悪そうに、頬をかいたり、目を泳がせたりしながら、 「あー、その・・・・・すまなかったな。アドニスとの揉め事に、お前を巻き込んでしまって。まっ、まあ、もうヘパイストスやアドニスと争う理由もなければ、お前を襲う心配もないが―――――アドニスじゃない、アンテロースだ」  その様子が滑稽で、ヒュアキントスは思わず吹き出してしまった。  気を許されたと思ったのだろう、アレスもつられて苦笑する。  ヘルメスが意味ありげに笑いながら、廊下へ出てきた。 「酔っ払いと男娼と阿呆鳥は?」  ごほん。 「ディオニューソスとガニュメデスとアクイラは?」  アテナが咳払いし、ヘルメスが訂正する。  あの黒鷲、アクイラというのか。後でちゃんと彼にもお礼を言っておかなければ。ヒュアキントスは考える。  アレスは肩を竦め、 「ガニュメデスだけならいい。だが、あいつといると、もれなく酔っ払いまでついてくるのだ」  ゼウスのお仕置きよりも、彼らの悪巧みのほうが効いたようである。  アルテミスも出てきて、 「ディオニューソスはガニュメデスに戯れかかっているように見えて、案外、彼のボディーガードだったりするわよ」  ヘルメスがつけ足す。 「アクイラには敵わないけどね」  何人もの屈強なボディーガードよりも、ひとりの酔っぱらいと一羽の厳つい鷲である。  アレスは部屋へ向かって声をかける。 「で、アポロン、調子どうだ」  ヴィーナスと同じ口調である。彼もアポロンと仲が悪いわけではなく、ヴィーナスのような類いなのだろう。  浴室にいるアポロンは廊下からは姿が見えず、声だけが返される。 「ヒュアキントスと僕に近寄るな。それより、ヘパイストスとアンテロースにも謝罪しておけよ」 「五百年後にそうさせてもらう。今は距離を置くことが、彼らへの礼儀になると信じている。キューピッドにもな」  どうだろうか。キューピッドは相手をいじることで、受け入れることを覚えたようである。先ほどのヴィーナスとの茶番を見たところ、アレスがいればさらに盛り上がったことだろう。  しかし、アポロンはそれ以上何も言わなかった。 「さて、私はこれから小アジアへ行く。そこにあるアマゾーンなら、私の信者がたくさんいるからな」  アレスは背を向けて歩き出した。  アテナとポセイドンも、彼について消えて行った。 「アマゾーンの何がいいんだか。あそこの女部族、子どもを殺すか武術を叩き込むかしかしないのに」  アマゾーンの女部族はアレスの他にアルテミスを信仰しているという噂だが、それは単にアルテミスが処女神である故、夫を持たずに相手をやり捨てる自分たちとなぜか同族意識を持っているというだけ。正直、アルテミスからすればすこぶる迷惑な話である。  ヘルメスとアルテミスとともに、ヒュアキントスは室内へ戻った。  丁度、アポロンが風呂から上がるところであった。着替えを手伝おうとするクレイオを、彼が断っている。  衝立から追い出されたクレイオが、こちらへ歩み寄ってくる。  ヒュアキントスはようやく、聞きそびれていたことを尋ねる気になった。 「お母さま。昨夜はどこへ行っていたのですか?夕食にも顔を出さずに」  クレイオは静かに微笑み、 「お墓参りよ」  墓参り?  誰のだろうと、ヒュアキントスが首を傾げていると、ヘルメスが耳打ちしてきた。 「タミュリスのだよ」 「えっ」 「ムーサ全員で、行ってたんですって」  アルテミスも教えてくれた。  ヒュアキントスは顔を綻ばせる。 (お母さま・・・・・)  クレイオは、素早く着替えを終えて出てきたアポロンの、腰帯を丁寧に結び直しているところであった。  ありがとうとは言わない。それがヒュアキントスの、謝罪の受け入れ方である。  ヒュアキントスは、ベッドの上の竪琴に目を向ける。  しかしクレイオよ。タミュリスは墓になど眠っていないのだ。ヒュアキントスが新たなる神として覚醒した際、竪琴がタミュリスの残した音楽を奏で、デルポイとスパルタの戦いをおさめた。彼はヒュアキントスを、いつでもそばで見守っている。  ようやく身支度を整え、アポロンがやってきた。 「お体の具合はいかがですか?」  ヒュアキントスが尋ねると、アポロンは伸びをして、 「すっかりよくなったよ」  ヒュアキントスは安心する。  アポロンが尋ね返した。 「君のほうは」 「えっ」  ヒュアキントスはきょとんとする。皆に守られたおかげで、そもそも自分はまったく怪我などしていなかったのだ。 「円盤投げの」  アポロンに言われ、ヒュアキントスは納得する。 「ああ」  遠い昔の傷である。ヘパイストスの力でとっくに完治していると、アポロンは分かっているはずである。  しかし、ヒュアキントスは素直に答えた。 「すっかりよくなりました」  アポロンは、身体の怪我のことだけを心配しているわけではないのだと、ヒュアキントスは思った。ヒュアキントス自身よりも、アポロンのほうが彼の心身を気にしている。怪我をさせた張本人ではないのに。  もっとも、ヒュアキントスは張本人であるタミュリスのことさえも、あれだけ思われては恨む気になどなれないのだが。  アポロンはぎこちなく微笑む。  きっとアポロンは、この先もヒュアキントスの傷を忘れないのであろう。それだけで、ヒュアキントスは充分に思う。  ヒュアキントスをオリンポスに引き止めていたのも、デルポイと争っているスパルタに、そのまま帰すわけにはいかなかったからであろう。 「これからどうする?」  アポロンに尋ねられる頃だろうと思っていた。 「僕、スパルタに―――――」 「クレイオが、スパルタ国王と連絡を取った。君の祭壇がスパルタに造られているから、君がどこにいても、その地は君の力で守られることになる」  アポロンが遮った。  ヒュアキントスは、父に感謝する。 「ええ」  でも、もうここに残る必要はないのである。  ヒュアキントスがそう言おうとしたとき、 「デルポイの神殿で、一緒に暮らさないかい?」  アポロンが言った。  ヒュアキントスは一瞬、動きを止めて彼を見つめる。  アポロンは真顔であった。  ヒュアキントスは慌てて手を振り、 「アポロン様にだけは、もう絶対にこれ以上迷惑をかけるわけには―――――」  奇妙な沈黙が流れた。  そのとき、クレイオが懐中時計を取り出し、 「あら、もうこんな時間。私、朝食まだだったわ」  そう言えば僕たちも・・・・・。  クレイオは扉を開け、さっさと部屋から出て行った。  次に、アルテミスが腕時計を見、 「あっ、もうこんな時間。月へ帰らなくちゃ」  アルテミスもクレイオに続いて、部屋を出て行った。  最後にヘルメスも腕を見て、 「んー、もうこんな時間。トイレ行ってこよっ」 「トイレならそこに」  ヒュアキントスの話を聞かず、ヘルメスは部屋を出て行った。  扉がぱたんと閉まる。 (あれ?ヘルメス様、腕に)  アポロンはくすりと笑う。 「分からないかな」  ヒュアキントスはアポロンを見る。 「結婚して欲しいと言ってるんだ」 「えっ」――――― ―――――「はい」  扉の向こうから、ヒュアキントスの声が聞こえた。  ヘルメスとアルテミスとクレイオは顔を見合わせ、微笑む。  三柱の神は静かに歩き出し、廊下を去って行った。  古代ギリシャでは、左手の薬指は、心臓と直接繋がっているとされた。  そこにあなたの名を刻むのは、私はあなたに命を懸けるという証。  ヒュアキントスの手を取り、アポロンは口づけをする。唇を離したときには、そこにはきらりと光るものがあった。  ジルコンの宝石は、ダイヤモンドにも似た強い光を放つ。  その輝きは太陽神アポロンを思わせ、彼の恋人にちなんで、別名“風信子石(ヒュアキントス)”と呼ばれた。  ヒュアキントスも、アポロンの手に口づけをする―――――

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