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三話 今日からおまえは俺の弟だ 20

「奏、大丈夫か……?」  奏は八畳一間の床にへたれこんでいた。その顔は真っ青で、ぜーぜーと肩で息をしている。ミハイエルは奏の前にしゃがみこみ、顔をのぞきこんでいた。  いくら話しかけても奏の返事がないのをおかしく思ったらしい。空を飛びながら顔をのぞきこんだミハイエルは、奏の顔にいっさいの血の気がないことに気づいたようだった。  いきなり景色が変わったかと思うと、奏の身体は見慣れた部屋の上にあった。どっと安堵が押し寄せてきたものの、いまだに残る恐怖のために身体に力が入らない。 「……だ、だ、大丈夫なわ、わけな……」  舌すら上手く力が入らない。  奏はずれた眼鏡の奥からミハイエルを睨みつけた。その顔がいつになく悄然として見えて、出かかった文句が引っこんでしまう。いつもは十五という年齢よりも大人びて見えるのに。  ……そういう顔をしてると、年相応っていうか、可愛いっていうか。 「どっ、ど、どうかしたの、ミカ……?」  まだもつれる舌で訊ねてみた。 「悪かった。奏を怯えさせるつもりじゃなかった。空を飛べたらよろこんでくれるかと思ったんだ」  どうやら悪気はまったくなかったらしい。魔族には『身ひとつで空を飛ぶのが怖い』という、人間だったら当然の感覚が理解できないのかもしれない。  そんな顔で素直に謝られると、それ以上はなにも言えなくなってしまう。 「……もういいよ。ちょっとびっくりしたし怖かったけど、怒ってないから」  なだめるつもりで頭をぽんぽんと叩くと、ミハイエルは弾かれたように顔を上げた。  あ、王子様の頭を気安く叩いたりしてまずかったかな。奏は焦って手を引っこめたが、ミハイエルは頭を差し出すように、ふたたび下を向いた。 「いまのもっとやってくれ」 「え? い、いいけど」  いまのとは頭ぽんぽんのことだろうか。ミハイエルの反応が理解できないままに、少し癖のある黒髪をぽふぽふと撫でる。想像していたよりもずっと柔らかい髪だ。  ……ひょっとしておれからミカに触るのって、これが初めてかも。っていうか、おれって人に触ったことがほとんどないような。  スキンシップが苦手なわけじゃない。友人もいなければ恋人もいない奏には、触れる相手がいなかっただけで。苦手どうこう以前の話だ。  触れてもいい相手が目の前にいる。  気づいた瞬間、心の中が温かいもので満ちた。穏やかで優しい。それでいて奏を落ちつかなくさせる不思議な感覚。  それからしばらくの間、奏はミハイエルの柔らかな髪を撫で続けていた。

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