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三話 今日からおまえは俺の弟だ 19

 せっかくお台場まできたのだからと、ふたりはあたりを少しぶらついてから帰ることにした。  ミハイエルと歩いていると、とにかく人目を惹く。奏としてはさっさと家に帰りたかったのだが、ミハイエルに日本の景色を見せてやりたい思いもあった。  なにせここはミハイエルの母親の生まれ故郷だ。  ふたりは左手にレインボーブリッジを、右手にショッピングモールをながめながら、のんびりとした足取りで歩いていった。  待ちあわせたのは台場の駅だったから、帰りは東京テレポート駅から帰ることにしよう。そこまで歩いていけば、ちょうどいい散歩になる。  東京テレポートっていつ聞いても妙な名前の駅だよな、とふと思う。 「そういえばミカってテレポートできるの?」  ふと思って訊いてみた。いや、テレポートは超能力の名称だから、魔法に使うのはおかしいかもしれないが。  返ってきたのは世にも冷ややかな視線だった。 「な、なに? あ、魔法は超能力じゃないってこと?」 「このあたりでひと気のない場所はどこだ」 「えっ、ひと気のない場所って……」  周囲を見回してみたが、なにせお台場は観光スポットでありデートスポットでもある。そこかしこに人の姿があるし、ミハイエルに視線を向けている女も少なくない。 「トイレとか……?」  ミハイエルはふたたび奏の腕をつかむと、ショッピングモールへ突き進んでいった。何事かと思ったら、入り口近くにあったトイレへ入っていく。 「な、なに、どうしたの。トイレくらいひとりで――って、ちょっ!」  思わず声を上げたのは、ミハイエルがトイレの個室へ奏ごと入ったからだ。びっくりして顔を見上げるより早く、ぎゅっと腕に抱きこまれた。  心臓が止まる。  頭が真っ白になった次の瞬間、奏は全身に風を感じた。  ……なんだろう、この感覚。足が地についていないような……。爪先を動かしてみたが、なにかに触れている感触がない。それにいきなり気温が下がったのか、さっきまでより肌寒い。  そもそもトイレにいるはずなのに、なぜ風が吹いているのか。 「奏、下を見てみろ」  腕の力がゆるみ、奏はミハイエルの胸にうずめていた顔を下へ向けた。 「――――ひっ!」  眼鏡がずり下がったが、直す余裕もない。  先ほどまで見ていた光景――レインボーブリッジやショッピングモールが、遙か眼下に広がっている。青い港、商業施設に緑豊かな公園、自由の女神といった、いままで地上からながめていた景色が、なぜか下にある。それもかなり下のほうに。人の姿なんて米つぶほどの大きさだ。  奏はひしっとミハイエルにしがみついた。恐怖のあまり失神してしまわなかったことが不思議だ。 「な、なに、なんなんだよ、これ。なんで空中に――」 「おまえがこの俺に瞬間移動はできるのか、などとふざけたことを訊くからだ。論より証拠。疑うのならやってみせるのが手っ取り早い」 「べ、別に疑ったわけじゃ……」 「おまえはどうも俺の魔力に対して懐疑的だからな。どうだ、これでもう疑う余地はないだろう。これでもまだ疑うなら、あの像を一瞬で破壊してみせてもいいが?」  あの像というのは、まさか自由の女神のことだろうか。そんな真似をされたら、日本とアメリカの外交関係に深い亀裂が走ってしまう。 「だっ、誰も疑ってないから! ただちょっと訊いてみただけで……! もうじゅうぶんわかったから下ろして! っていうか下ろせ!」  足をジタバタさせることすらできない。いまの奏にできるのは、ミハイエルにしがみついていることだけだ。 「安心しろ。奏にも浮遊の術をかけてある。俺から手を離しても落ちたりしない」  ほんとうだろうか。奏はほんの少し腕の力をゆるめると、眼下へそろそろと目を向けた。  その途端、魂が口からすうっと抜け出しそうになる。いやいやいやいや、無理! 無理だから! 浮遊の術とかそういう問題じゃないから!  またもやひしっとしがみつく。 「しょうがない奴だな。ほら、」  笑いを含んだ声が聞こえて、身体から体温が離れる。慌ててミハイエルの腕をつかもうとしたが、ミハイエルはそれを避けると右手を握りしめてきた。 「わっ! わわっ!」  わたわたと手足をばたつかせる奏にはおかまいなしに、ミハイエルはツバメのように空を切って飛び始めた。必然的に奏の身体も水平に空を飛んでいく。  端から見ればまるでピーターパンとウェンディだが、奏はそれどころではなかった。  身体ひとつで空中を、それもビルよりも高いところを飛んでいるのだ。命綱と呼べるのはミハイエルの左手のみ。落ちたら確実に死ぬ。 「奏は空を飛ぶのは初めてだろう。どうだ、感想は」  得意げな声が聞こえてきたが、返事をする余裕はない。  魂はほとんど口から抜け出しかかり、奏は『いっそのこと失神させてくれ!』と心で叫んだのだった。

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