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司書、探偵に出会う#1
「運命の人」のことを考えながら、眠る恋人の顔を見つめた。
指通りのいい漆黒の髪をもてあそぶ。涼しい輝きを放つ瞳は、今は閉じている。しかし目を閉じていても、目元にその涼しさは感じ取れる。瞼の丸みが美しく、長い睫毛に気品を感じる。
美しいひとだ。髪を撫でるのをやめて、村岡征治 は枕に顔を埋めた。
おれ、枕いいから。征治が使えよ。そんな一言すら、今はうれしい。このところずっと恋人、水城達樹 の気持ちが離れていると感じていたからだ。恋人の愛の証を頭の下に敷いて天井を見上げる。シミが浮いた天井を見ていると、満ち足りた幸福感の下から不安がこみあげてきた。
「……達樹。おれたち、付き合って今日で四か月だよ。わかってくれてる?」
天井を見上げたままつぶやく。見た目以上に低い声は、喘ぎすぎたせいで掠れている。経年で黄ばんだエアコンが、かすかな耳障りと共に冷たい風を吐き出していた。タオルケットを握りしめる。隣で眠る水城の手を握りたくて、なぜかそれができない。
「達樹は、付き合った日を数えるなんて女みたいって言うけど、おれ……うれしいって思ってるから。四か月だから、なにかしたくて、でもできなかった。今日もいつもみたいになったね」
天井を見上げたまま目を擦る。
本当は晩ご飯を作ってご馳走したかった。日曜日、休みをとろうかと水城に電話すると、「とらなくていいよ」と言われた。
「おれが月曜日、征治の家に行くから」
「でも、夜になるよね?」
「ああ。仕事終わってからだからな。まあ、いいだろ。八時までには行くから。メシは適当に食べてくる。風呂入って待ってて」
「あの……おれ、ご飯作るよ」
「いいよ、別に。慣らしてくれてたら、それで」
言われた通りに後ろを慣らし、水城のことを考えた。いっぱいセックスするつもりで、スタミナのつく焼き肉を食べた。そして恋人のことを待っていた。
水城のほうに寝返りをうつ。
通った鼻筋に、髪の毛が一本ついている。そっと指でつまんで、畳の上に捨てた。肉感的な唇が薄く開いた。覗いた白い歯を見て、村岡は目を細めた。涙がこみあげるのはなぜなのだろう。ぼそぼそとつぶやく。
「達樹、おれのこと、ほんとに愛してくれてる……?」
「……うるさいな」
寝返りをうち、水城は村岡のほうを向いた。顔の前で固まっていた手をつかむ。整った眉のあいだに皺が寄っている。
「愛、愛って。愛してるって言ってるだろ?」
「でも、おれ……不安で」
「征治はいつも不安なんだな。どうした? 征ちゃん。ほら、お手」
水城の手のひらに、おそるおそるタッチする。水城は笑っていた。
「よくできました。征治はなんにも心配しないで、ケツの準備して待ってればいいんだよ。セックスしたら、愛してるってわかるだろ?」
むしろ、不安になる。怖くなる。体だけ必要とされていて、おれという人間はいらないんじゃないかと。水城の肩に頭を擦りつけた。
「ごめん。おれ、もう心配しないから」
「そうそう。いい子だな。じゃあ、征治」
村岡の鼻を噛みそうなほど顔を近づけ、顎をつかんで、水城は笑った。
「もう一回。……な?」
こくりとうなずく。本当は、セックスはやめたい。やめて、横になって、楽しい話をしていたい。好きだとか、愛してるとか、そんな言葉がなくてもいい。先週観た映画の話とか。新しく買ったアルバムの話とか。今から食べたいものの話とか。
そんな話を水城としたかった。ここ二か月、全然していない。
おれ、愛されてないのかな。しかし、水城にあの甘い顔で笑いかけられるとすべてがどうでもよくなってしまう。短い黒髪を両手で掻き回されて、飼い主が犬にするように口を噛まれて、全身の感じる場所にキスされる。
そんなときは水城が「運命の人」ではないことなんて、どうでもよくなる。
村岡の三歳年上、二十七歳の水城達樹は「沼原メディカルサービス」社で営業の仕事をしている。芸能人のように整ったオーラのある美貌と、物怖じせずしかも気の利く性格で、取引先の病院で人気者だ。看護師だけでなく医師からも支持されているのは、その見た目のよさだけでなく知識が豊富なせいもあるだろう。女医人気も高い。スポンジのように要点を吸収する勘のいい性格は社内でも一目置かれ、その能力を高く買われている。これからどんどん出世するだろう。東京の本社に配属される日も近いと聞く。
自慢の彼氏だ。達樹みたいな凄い人が、おれなんかと。
恋人とのつきあい方に自信を失くした日はいつも、村岡はそう思って自分を慰めている。自分みたいな強面三白眼の可愛くない男、それも達樹よりもデカい体なのに、愛してもらえて奇跡だとすら思う。
謙虚を超えて卑屈だ。村岡はそんなふうに卑屈な感謝の思いを抱いたまま、この日もデートを終えて帰っていく水城を見送った。おれのうちから出勤しなよ、と一度言ってみたくて、言えない四か月だった。
水城を見送っていつも通り虚しくなり、深夜一時に袋ラーメンにネギだけ入れてすすった。激しいセックスで疲れた体に、まろやかな塩味が沁みた。
翌日の火曜日。村岡は午前八時過ぎに起床してゆっくり朝食を食べ、髭を剃り、服を着替えた。デニムのパンツやパーカーは職場の規定で禁止されているが、Tシャツは認められているため、黒いTシャツとカーキのチノパンツを身につける。着替え終えると黒いリュックを背負って、徒歩十分の職場に向かった。
村岡の職場は浮嶋駅のすぐ近くにある。市営マンションの二階を占める神投市立浮嶋図書館がそうだ。ここで司書をしている。
七月下旬の朝は暑い。日差しが痛くて、むっとした空気が肌に貼りつく。足元にできた影が濃い。すでに蝉が鳴いていて、十分も歩くと汗が噴き出す。剥きだしの首筋がひりひりと痛い。
重い湿気を含んだ青空だ。
汗を手首で拭いながら、職場に到着した。図書館に続く一階の自動扉はまだ閉まっているので、ブザーを鳴らして中にいる同僚に玄関脇の扉を開けてもらう。すでに中の小部屋では、ブックポスト(休館中に利用者が本を返却できるポスト)に返ってきていた本を同僚の司書が仕分けしていた。
「おはようございます」
声を掛けると、今日のブックポスト担当、石田芽衣 が顔を上げて笑った。抜けるような色白の顔が、暑い場所での作業で少し上気している。背中まである漆黒の髪を水色のシュシュで束ねていた。笑う顔が眩しくて美しくて、白雪姫みたいだと村岡は憧れの目を向ける。
「おはようございます、村岡さん。今日も暑いですね」
「ほんと、暑いです。お疲れさまです」
ぺこりと頭を下げる石田。パフスリーブのブラウスから覗く白く細い腕。軍手をはめた華奢な手が床に落ちた本を丁寧に拾っていく。
階段を登り、村岡は図書館内に足を踏み入れる。すでに冷房が入っていて、汗が引いていくのを感じる。こじんまりした図書館だが、蔵書数は十万冊以上。整然と並んだ本棚と本の森が村岡を迎える。開館前の図書館はいつも静かで、心が落ち着いた。
レファレンスカウンターの向こう側に回り、奥の事務所に向かった。事務所では同僚の清坂敦子 がパソコンを睨んでいた。グレーヘアのおかっぱが今日もきれいに手入れされている。顔を上げて、丸眼鏡を指で押しあげた。
「あら、おはよう村岡君。相変わらずイケメン」
「おはようございます。全然イケメンじゃないです」
「鏡見たことないのか?」
「清坂さん、毎回それ言いますけど、ほんとおれの顔は怖いだけです」
「警官かゴルゴ13だっけ? 利用者さんに言われてるの。でも、あたし聞いちゃった。田中さんと仁科さんと大原さんが、きみのファンクラブ作るって言ってるの」
田中さんも仁科さんも大原さんも、ここの常連のおばあちゃんだ。村岡は困った顔で笑う。
「ええー……。でもおれ、ほんとイケメンじゃないですから」
「どこがよ。黒髪短髪、凛々しい美貌、一八〇センチ越えの細身筋肉質。ガチのモデルじゃん」
「清坂さん、今日なんかしつこい」
「ばれたか。昨日のドラマでさ、あたしの推しが死んだのよ。それを引きずってるの。ちなみに村岡君にちょっと似てるから、見てみて。あたしのイケメンランキングを更新した男よ。テレビ局の公式サイトで見逃し配信してるから」
「清坂さん、相変わらずイケメンハンターですね」
「だからほんと、勝手に村岡君のこと応援してる。幸せになってね」
また困った顔で笑って、「なれますかねー」と言いながら事務所の奥のロッカーに向かう。
「幸せなんてさ、自分で探さないと見つからないわけじゃん」
追いかけてくる清坂の言葉を、聞かないふりをした。どうしても水城のことを考えてしまう。昨日は水城が帰ったあともなかなか眠れなかった。いっそおれから別れを切りだしたら……とも思うが、考えていて怖くなった。捨てられるまでいっしょにいたいと思う。
達樹も、おれの元カレたちと同じになっちゃったな。ロッカーの前でエプロンに着替えながら、そんなことを思った。
それでも、青いエプロンの胸ポケットに挿したペンを触ると、少し元気が出た。水城がプレゼントしてくれたシルバーのペンだ。ずっしりと重く、インクがなめらかで書き味がいい。付き合って一か月ほど経ったとき、プレゼントしてくれたのだ。特殊な技術でインクが五年はもつという。今でもうれしい。ペンを触って、今日も頑張るぞと気合を入れる。
事務所を出て、図書館に向かった。
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