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第1話
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アールの部屋の窓からは、この国の人々が暮らす町並みが見える。
赤やオレンジの屋根が寄せ合うように建ち並び、教会の塔を中心に、ウロコ模様の石畳の道が、城を囲むようにぐるっとつながっている。
高台の城から臨むその風景は、窓から身を乗り出せば、街の喧騒や人々の生活の匂いまで感じることができそうだ。だが、アールにとっては、それは近くて遠い世界だった。
アールの本当の名前は、アルフレート・クリスト・フォン・デ・グランデールという。十八歳になったばかりの、この国、グランデール王国の第四王子だ。そして、末っ子の王子といえど、次の国王になることが決まっている。
なぜなら、アールはグランデール王家の世継ぎをその身体から産むことのできる、オメガとして生まれた王子だからだ。つまり、世継ぎの母体として、その地位を約束されているのだった。
この世界には、男女の性の他に、支配階級に多いアルファ、最も多く存在するベータ、そして、男女ともに妊娠出産が可能な、オメガという性が存在している。生まれた時には既に性が決まっていて、アルファは青、オメガは赤の、小さなアザが胸に現れる。ベータには何も現れず、そのアザは生後一ヶ月くらいで自然に消えていく。
オメガの他に子どもを産むことができるのは、アルファの女性、ベータの女性だが、王家の血筋には、アルファやベータの女性はほとんど生まれない。そしてオメガの数は絶対的に少ない。
そのため、世継ぎを産むことのできる希少なオメガ王子や姫のもとに、他国の王室からアルファ王子が嫁ぐことが慣例となっている。つまり、その身から世継ぎを産むことのできるオメガの男女は、生まれた時から、王家にとって重要な使命を担っているのだ———ということは、兄たちから何度も聞かされてきた。
「お城の外で暮らしてみたいなあ……」
アールは窓枠に頬杖をついて呟いた。城の外のことなど何も知らない、幼さの残る横顔に、金髪の巻毛が五月のそよ風に吹かれてふわりと揺れる。笑うと最高に可愛いといわれる、睫毛の濃い大きな緑色の目は、今日は瑞々しさを失って陰っていた。
今日も兄たちに『オメガ王子たるもの云々かんぬん』とお説教を食らったばかりなのだ。ただ厨房に行って、そこで働く彼らの様子を見ていただけなのに。
アールは人々が働く姿を見ることが好きだ。ものが作り出される過程や、その道具などを見ていると、ワクワクする。
あれはどうやって作るんだろう。これは、どこからどうやって、この城まで来たんだろう。知りたいことがたくさんあるのに、兄たちは口を揃えてこう言うのだ。
『オメガの王子はそのようなことを学ぶ必要はないのだよ、可愛いアール。ただ、元気な良い子を孕み、産むことさえ考えていれば』
アールたちの両親である国王夫妻が早くに亡くなり、現在、グランデールは国王不在の状態が長く続いている。オメガが伴侶を娶り、子が生まれるとその伴侶とともに即位する決まりだからだ。
アールの兄は三人いる。長男のカールと、三男のヨハンはベータ。次男のフリードはアルファだ。国王不在の今、長兄であるカールが摂政として国政を担い、三番目の兄のヨハンがカールを補佐し、二番目の兄、アルファのフリードは既に他国のオメガ王子に嫁いでいる。そしてアールは、幼い頃から大切な大切な『オメガ王子』として、時期国王として、蝶よ花よと育てられてきた。
加えて、三人の兄たちは可愛い末っ子を溺愛しており、過保護も手伝って、なかなか外へも出してもらえなかった。城の外へ出るなんでとんでもない。どこの誰かもわからないようなアルファやベータに見られでもしたらどうするのだ!
『見られたくらいで子ができたりなんかしないでしょう?』
僕だってそんなことくらいは知ってるよ。アールが言えば、兄たちは厳かな顔でこう言うのだ。
『それほどに、おまえはその身体を大切にしなければならないのだよ』
だから、発情を抑えるための強い抑制剤を飲んでいる。オメガの身体は、いつか訪れる初夜のため、最上の状態でヒートを迎えて、子を孕むことができるように管理される。つまりその身は、既にまだ見ぬアルファの男のために捧げられているのだ。
結婚後、政治は、そのアルファの夫が、国王の伴侶として取り仕切る。オメガのきょうだいたち(ベータ)は彼の側近となり、国が繁栄するように力を合わせる。
だからこそ、嫁いでくるアルファ王子は、国政を任せられるような、優秀で清廉な人物でなければならないのだ。見目麗しく優秀だったアルファのフリードも、そうやって他国へ嫁いでいった。
各国の王室は、優れたアルファ王子を獲得するために奔走する。もちろん、『我が国のオメガ王子(姫)はこんなに美しく、愛らしく清らかだ』と売り込むことも必要だ。
だから、王室のオメガたちには、美しさに磨きをかけ、教養を積むためのレッスンが課せられる。そして、清らかでいるために薬を飲むことはオメガの最重要課題であり、グランデールでは、必ず医師の目の前で服用するという厳重さだ。
アールが飲んでいる抑制剤は、隣国のランデンブルクで特別に作らせた、強力なものだ。結婚や子作りが必要になるまで発情を押さえ込む力があるのだという。
ランデンブルク王国は、魔法使いの末裔の国であり、魔術を継承した薬草づくりが発展している。各国のオメガ王子や姫は、皆、この国の抑制剤を使っているという。だが、とても苦いこともあって、アールは「できればこんなの飲みたくない」といつも思っていた。
それよりも、不思議な模様の薬の包み紙を見るたびに、『魔法使いのいる国』に思いを馳せずにいられなかった。アールにとっては、美しさに磨きをかけることよりも、教養を積むことよりも、ずっと興味のあることだ。
だが、オメガである自分にはそのようなことは必要とされていない。
美しく可愛く、ウィットに富んだ会話ができて、伴侶のために清らかな身体でいること、そしてゆくゆくは国のために元気な良い子を、できるならばオメガ性の子どもを産み、アルファの夫に可愛がってもらうこと————それが、オメガとして生まれたおまえの幸せなのだよと、アールは子どもの頃から言い聞かされていた。
「オメガ王子なんて面白くない。僕だって、兄さまたちのようにいろんなことを経験したいのに」
アールは可愛い顔を険しくする。そして、苺のように瑞々しい唇でため息をつく。
そんなある日のこと————。
「結婚?」
驚いて、アールはミルクティーのカップを取り落しそうになった。アールのために特別にブレンドされた、『優しい風のロンド』だ。
「そうだ。多くの御方を検討して、やっと決まったのだよ、可愛いアール。相手は隣国のランデンブルク王国のエルンスト・ハインツ・デ・ヴォルフ王子だ。おまえより七歳年上で、見目麗しく秀才であられ、魔法の力も強く受け継がれた立派な王子だそうだ」
アールの驚きをよそに、長兄のカールは鼻の下に蓄えたひげを撫でながら、満足そうに続ける。鳶色の髪と目は亡き父王ゆずりで、中肉中背の典型的なベータだ。
「肖像画は明日にでも届くらしい。こちらもアールのとびきり可愛い最新のものを用意せねばな。ああそうだ、そのために衣装も新調しなくては……おまえの金髪が映える純白の絹がよい。エルンスト王子も、アールの愛らしさにさぞ驚くことだろうよ」
「……嫌です」
アールははしゃぐカールに、低い声で答えた。
「おおそうか、純白は嫌か。では瞳と同じ色の緑の絹で……」
「僕は結婚は嫌だと言ったの!」
精いっぱいの怒りを込め、アールは言い切った。会ったこともない人と結婚? 僕の気持ちも聞かずに勝手に決めて……!
「僕は、好きでもない人と結婚なんてできない!」
「アルフレート」
カールは一転して、厳しい顔つきで答えた。
「おまえの、オメガ王子としての使命は教えてきたはずだ」
「でも……!」
わかってる。そんなことはわかってるよ。アールは泣きそうな声で兄にすがった。
「僕の気持ちも聞いてよ、カール兄さま。僕は……」
「わがままは許さん」
いつもならアールの涙に弱いカールだが、この時ばかりはそんな甘さは見せなかった。国王の代理として、長兄として、毅然として言い放つ。
「おまえはランデンブルク王国のエルンスト王子を婿として迎えるのだ。遅くとも半年後には結婚式を挙げる。これはもう、決まったことなのだ」
「カール兄さま……お願い、聞いて」
アールは胸の前で手を握りしめ、最大とも言える妥協案を兄に示した。
「僕は一度でいいからお城の外で自由に暮らしてみたいんだ。せめて、ヨハン兄さまみたいに留学させて。そうしたら、必ずそのアルファの王子様と結婚するよ、だから……!」
「城の中で大切にされ、何もできないおまえに、そのようなことは無理だ。許せるわけがない。それに、政治は夫のアルファと私たちに任せておけばいいのだ。留学して、学ぶ必要などない」
容赦なく、カールはアールの提案をばっさりと切って捨てた。
「そのようなことを言い出すなど、我々もおまえに甘くしすぎたようだ。少し頭を冷やすがよい」
厳しく言い放ち、カールは部屋を出ていった。
ひとり残された部屋で、アールはしゅんとして椅子に座り込んだ。
決められた結婚なんて嫌だ……アールは滲んでくる涙を手の甲で拭った。それに、そんなの、もっと先の話だと思ってた……。
通常、オメガは十八歳頃から妊娠が可能となるが、より成熟した身体となるために、アルファとの結婚は、二十歳頃に行われることが多い。その間に母体となるべく知識や心構えを蓄えるのだ。つまりは子作りについて……だ。身も蓋もない話だが。
アールは十八歳になったばかり。それが、半年後には式を挙げるだなんて……。
結婚話が早く進んでいるのは、国王不在が長く続いているためだ。だが、そのようなことは、アール自身、自覚できていなかった。
なにしろ、政治は優秀なベータの兄たち————カールとヨハンが取り仕切っている。見目麗しいアルファだった二番目の兄、フリードは、望まれて遠い国に嫁いでいった。
年が離れて生まれたオメガのアールは、早くに両親を亡くしたこともあり、まさに周囲にかしずかれて育った。生粋の箱入り王子で世間知らず。そのくせ、一方的に押しつけられる立場が嫌で、自由に憧れて育った。反発心と好奇心だけは人一倍だったのだ。
そして何よりも、アールは恋に憧れた。物語の中で知った、身も心も離れられなくなるという運命の番との出会い……。
(兄さまたちは、運命の番なんておとぎ話だって言うけど、僕はそんなことないって信じてる)
それなのに、初めて会った王子にうなじを噛まれ、番になれというのだ。オメガの王子に生まれたばっかりに自由に恋もできない。こんな理不尽、許せないよ!
オメガとして、新しい命を宿すことができるのは、とても尊いことだと思う。それならばせめて、愛する人の子どもを産みたい。
こうなったら、今やるべきことは決まっている。この城から逃げ出すのだ。アールは拳を握った。
(兄さまたちの言いなりになってたまるもんか。僕だってやればできるんだってことを見せてやる!)
そうと決めたら、俄然心が沸き立ってきた。
行き先はどこにしよう?
許嫁はランデンブルク王国の王子だと言っていた。その懐に飛び込んで兄さまたちを驚かせるのもいいかもしれない。それに……!
ランデンブルクは魔法使いの末裔の国だ。不思議な模様の包み紙を見ているだけで、いつも心が躍った。魔法使いの末裔に会ってみたい。不思議な魔法を見てみたい。
「よし、決まり!」
ランデンブルクなら隣国で、国境の峠を越えればいい。外の世界に憧れていたアールは、地図を見ては道筋を辿り、まだ見ぬ世界に空想旅行をしていた。それが役立つ時が来たのだ。
肖像画を描かれる前に計画を実行しなきゃ。城を抜け出すのは、夜明けの刻だ。
その時間に、猟師たちが朝一番に捕れた狩りの獲物を厨房に持ってくる。そのために厨房裏の木戸が開けられるのだ。その合間を縫って抜け出す。これも、厨房に出入りしてこそ知った情報なのだ。
私室には夜、見張りがいるが、交代の時間を狙う。午後のお茶の時のスコーンを取っておいて、お金を持って。荷物は少なく身軽で出かけるんだ。お金があれば泊まるところだって着替えだって食事だってできる。そのうちに仕事を見つけて……!
考えれば考えるほど、計画は万全に思えた。お手本は、これまでに読んだ冒険小説だ。だから、家出を決行するというより、まるで冒険に出かけるような気分だった。
荷物をまとめ、ランデンブルクの不思議な模様の包みも、マントのポケットに忍ばせた。
その中身のことはあまり深く考えずに————それは、これから自分を新しい世界に導いてくれる羅針盤のように思えた。
「そうだ。これどうしよう」
アールが手に取ったのは、グランデール王国の紋章が見事に刺繍された首飾りだった。オメガがうなじを噛まれないように保護するものだ。
(紋章なんか入ってたら、グランデールの王子だってばれちゃうよ。それに、首に何か巻いてたらオメガだって言って歩いてるようなものじゃないか)
今ある薬はちゃんと持ったし大丈夫。深く考えず、アールは、その首飾りを戻したのだった。
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