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第2話

 ***  魔法使いの末裔の国、ランデンブルクは、グランデール王国の北にある。  肥沃な土地が広がるグランデールに比べ、ランデンブルクは魔法と関係し、歴史こそ古いものの、森林に囲まれ、土地は痩せている。農作物は育ちにくく、豊かとはいえないが、一方で古くから薬草づくりが盛んに行われてきた。その技術や知識は、魔法を継承する者たちによって、綿々と受け継がれてきたのだ。 「今日も良い天気だ」  窓を大きく開け放ち、ラインハルトは朝の澄んだ空気を大きく吸い込んだ。ひんやりとした風が心地よい。  この街中で暮らすようになって、空気の美味しさを感じるようになった。ラインハルトは大きく伸びをして、足元にすり寄ってきた灰色の仔犬を抱き上げた。  ひとつに束ねられた長い髪と切れ長の目は、深い漆黒だ。ランデンブルクでは、魔法の血が濃いほど、目や髪の色が闇のように黒いと言われている。均整のとれた体躯と、男らしい美貌も加わって、その外見は、彼が完璧なアルファであることを物語っている。一見、知的で涼やかな印象ではあるが、仔犬を見る目は優しい。 「今、ヤギの乳を温めてやるからな」  くんくんと鳴く鼻先にちゅっとキスをして、ミルクを温め、自分のお茶用の湯を沸かす。朝食はベーコンと、昨日パン屋が届けてくれた黒パン。それから「薬のお代の替わりに」と、角のマーナばあさんからもらった、真っ赤な林檎だ。街の人々は皆、親しみを込めて彼のことを『ライ』と呼んでいる。 「ほんとにおまえは変わった使い魔だよ。ヒトの食べるものが好きなんだから、ベルグ」  尻尾を振りながらミルクを舐める仔犬を見て、少々、本物の動物っぽくしすぎてしまったかなとラインハルトは苦笑する。そうして朝食を食べ終え、二杯目のお茶を淹れていたら、コンコンコン、とノックの音がした。少し間を置いてもう二回。 「入れ」  ラインハルトが声をかけると、地味なマントに身を包んだ男が入ってきた。帽子を取り、敬々しくお辞儀をする。 「おはようございます。エルンスト殿下」 「おはよう、グレタ。朝からご苦労だな。何かあったのか?」  エルンストとは、ラインハルトの本名だ。エルンスト・ハインツ・デ・ヴォルフ――そして殿下という敬称は、彼が王族であることを意味する。つまりラインハルトは、ランデンブルク王国の王子の身分を隠し、名を変えて、薬師として市井で暮らしているのだった。  グレタと呼ばれた男は、ラインハルトの侍従だ。時々こうして、不在にしている王城での情報を届けるためにやってくる。 「殿下の肖像画が無事に先方に届いたようでございます。ですが、あちらからは最新のものを描いて送るからと……」  グレタが口を濁すと、ラインハルトは笑った。 「なかなか出し惜しみするじゃないか」 「自分たちが大国で、我が国より上であると誇示しているのです」  憤慨するグレタをなだめるように、ラインハルトは答える。 「あちらも我が国の魔法の力と、世継ぎの種が欲しいのだからおあいこさ。許嫁どのは、秘蔵っ子の可愛い王子だと聞いている。どのような方か、お会いするのが楽しみだと伝えてくれ」 「承知いたしました」  そしてグレタは、おそるおそる訊ねる。 「殿下は、グランデールの王子とのご婚儀まで、城には戻られないのですか?」  グレタの問いに、ラインハルトは少々言い難そうに答えた。 「ヘルマン義兄上は、完全に私を追い出したつもりなのさ。私が城に戻れば、再び、城内の雰囲気が悪くなる……。母上とアリア姉上はどうしている?」 「はい、女王陛下は季節の変わり目に少し体調をお崩しになられましたが、今は落ち着いておられます。アリア様は、変わらずお元気でお過ごしかと存じます」 「それならばよいが……懐妊の兆しは?」 「恐れながら、未だそのようなお話は……」 「そうか」  グレタの報告を聞き、ラインハルトはふっと眉をひそめた。  義兄のヘルマンは食えない男だ。初めて会った時から、互いによい印象は持てなかった。 彼は、ランデンブルクの遠縁筋にあたる小国のアルファ王子で、ラインハルトの一歳上の姉、オメガのアリア姫のもとに嫁いできている。  通常、子どもが生まれれば即位となるが、結婚数年を過ぎても、二人の間に子どもはいない。国王は既に亡く、今は、ラインハルトとアリアの母が女王として君臨している。  だが、女王は身体が弱く、国を治めるのは難しい状況にあった。ラインハルトが城にいた頃は、母である女王を補助していたのだが……。  ヘルマンが姉のもとに嫁いできてからは、彼は何かとラインハルトを目の敵にし、家臣は派閥に別れ、争いの火種が絶えないようになった。ラインハルトが身を退く形で内紛は治まったが、結果、義兄のヘルマンが国の実権を握るようになったのだ。 (せめて二人の間に、オメガでなくとも子どもがあればいいのだが……)  だからこうして、より国や民のことを知るためもあって、城を離れているのだが、いつでも、母や姉、城内のことが心配だった。情報を集めながら、ヘルマンを見張っている状態ではあるが、自分もいずれ、他国へ嫁ぐ身であることがもどかしかった。そうして、ラインハルトは、大国グランデールのオメガ王子の婿にと望まれたのだった。  グランデールがランデンブルクの後ろ盾となってくれれば、これほど心強いことはない。母や姉のことを思い、ラインハルトはその申し出を即座に受けた。だが、彼の中にあるのは、そのような打算だけではない。 「申し遅れました。グランデールのアルフレート王子様は、先日、十八歳のお誕生日を迎えられたとのことでございます」  ラインハルトは目を細める。決められた結婚ではあるが、彼が番になり、自分の子を産むのだと思うと、そのオメガ王子が愛しく感じられるのだった。  母国のことを憂いながらも、ラインハルトはまだ見ぬ王子に思いを馳せた。     「ふう……」  アールは額の汗を拭い、ひと息ついた。 見下ろせば、今、登ってきた道が、木々の間をうねうねと縫っている。 「やったあ!」  峠を越えたのだ。第一の目的地を踏破し、アールはぎゅっと両手の拳を握った。  地図とコンパスを見ながら、自分の力でちゃんとここまで来られた。頭上に広がる青い空、吹き抜けるさわやかな風に揺れる木々の緑。深呼吸をして、アールは草の上に大の字で寝転んだ。  城内では、庭の芝の上に寝転ぶことも「お行儀が悪い」と怒られたものだ。だから、こんなことでさえ嬉しい。ちょこちょこと姿を見せる小動物たちも、自分を歓迎してくれているようだ。全身で自由を感じ、アールは大満足だった。  侍従たちには、今日はゆっくり寝るから起こさないでくれと言っておいた。でも、そろそろ昼だ。部屋に僕の姿が見えなくて大騒ぎになっているかも。 (どうだ兄さまたち。僕だってやろうと思えばできるんだからな!)  アールは思いっきり溜飲を下げる。この峠を下りればランデンブルクだ。暗くなる前には麓の町に着くはず。まずは出発の前に腹ごしらえだ。  アールがスコーンのお昼ごはんを済ませ、水をひと口飲んだ時だ。 「助けてくれ! 命ばかりは……!」  エニシダの茂みの向こうから、掠れた男の叫び声が聞こえてきた。その切羽詰まった様子に、アールは何事かと茂みを飛び出した。  そこでは、老人が数人の荒くれた男たちによって後ろ手に縛られていた。 「ちっ、しけてやがる。これだけの金しかないのかよ。じゃあ、身ぐるみ剥がさせてもらおうか。おっ、いい上着じゃねえか」 「ひいいっ!」 「何をしている! ご老人を放せ! これは命令だ!」  颯爽と姿を現したアールは、毅然と言い放った。  甘やかされてはいたものの、王族たるもの、悪の前では誇り高くあれと言われて育った。もちろん生来の正義感もあったのだが、今の場合は少々、対応としてはズレていたようだった。 「可愛いお坊ちゃんに『命令』されちゃってもねえ」  熊のようなひげ面の男が言えば、両腕に入れ墨を入れた男が笑う。 「どっかの王子様ですかねえ」  からかわれたことがわかり、アールは「いいか、僕は……」と言いかけて踏みとどまった。こんなところで自ら正体をばらしてどうする。 「怒っても可愛いねえ」  もうひとり、まだらの毛皮のチョッキを着た男がニヤニヤとする。男の腰にはウサギやキツネの顔がぶら下げられていて、その趣味の悪さと気味悪さにアールは一瞬怯んだが、声高らかに怒鳴り返した。 「可愛いと言うな!」  しかし、アールの精いっぱいの反撃も、男たちには子どもがケンカを売っているようなものだった。老人はぶるぶる震えながら、その様子を見守っている。地面には杖が転がっていた。アールはその可愛い顔が許す限りの威厳を込め、老人を背中に庇った。 「自分よりか弱い者を脅すなど、最低の行為だぞ! 早くここから立ち去れ!」 「聞いたか? 立ち去れだってよ!」  男たちはゲラゲラと笑う。 「どこのお坊ちゃんだか知らねえが、こいつもいい身なりをしてやがる。きっと金もたんまり持ってんだろ。じゃあ、あんたが代わりに金を出すってんなら、じじいを放してやってもいいぜ」 「私なら、大丈夫ですから……」  逃げてくれと言わんばかりに、老人がアールの背中を押す。だが、その力は弱々しいものだった。  アールは唇をぐっと噛んだ。多勢に無勢の上、襲ってきたら勝ち目はない。アールが習ったのは護身術だけで、攻撃に転ずる技はさっぱりなのだ。 「オメガなら、娼館に売るってのもいいかもな。もちろん俺たちが味見してからだ。おいあんた————」  入れ墨の腕が、アールの顎に手をかける。 「無礼者!」  アールは男の手を跳ね除けた。触れられた時に、背中に虫が這ったように怖気が走ったのだ。  だが、アールが睨みつけても、男たちはひゃっひゃっと笑うだけだった。 「やめとけやめとけ。この国じゃあ、エルなんとかって王子が、オメガを強姦したり売り飛ばすのをどえらい厳しく取り締まる法律を作りやがった。ぶち込まれたら一生出てこれねえって話だぜ。そんなのはごめんだろうが」  ひとしきり笑ったあと、そう言ったのはまだらチョッキの男だった。 「というわけで、有り金出してもらおうか」 「それならば私が! このお方は関係な……」  アールの前に身を乗り出した老人をひげ面の男が張り倒す。老人を助け起こし、アールは叫んだ。 「ご老人に暴力を振るうな! お金なら僕が出す!」  半ばやけになって言い放った。オメガを強姦する? 売り飛ばす? さっき聞いた話がショックでならなかった。だって僕の知るオメガは……。  考えたら怖くなってきた。とにかく彼らと早く離れなければ。アールはポケットに入れていた革の袋を男たちに渡した。着替えなどはあとで買えばいいと、お金とさっきの食べものしか持ってこなかったのだ。 「それもだよ」  ひげ面が顎で上着を指す。アールは黙ってマントを差し出した。動きやすいものを、と思って選んだ軽い薄物だが、それでも男たちは「こりゃまた上等だぜ!」と喜びの声を上げた。  満足した彼らは、ご機嫌でその場を立ち去っていった。彼らの後ろ姿が見えなくなり、アールはふうっ、と息をつく。少し、足ががくがくしていた。だが、笑顔を作って老人の方を振り向き、縛られていた手首の紐を解いた。 「もう大丈夫ですよ。災難でしたね」 「でも、私のせいであなたが……」 「お金なら大丈夫。麓の町の親戚を訪ねるところだったんです。だから……」  アールはとっさに嘘をついた。本当は、この予想外の出来事に(どうしよう)と動揺していたのだが、老人に責任を感じさせてはいけないと思ったのだ。 「本当に、なんとお礼を言っていいか……。このご恩は死ぬまで忘れません」 「そんなに気にしなくても大丈夫ですってば!」 「では、せめて家で休んでいってください。もう少し下りたところの村に家がありますんで……」  ぶんぶんとアールは顔の前で手を振った。 「その親戚の家に日が暮れるまでに行かなきゃいけないんですよ。だからほら、お構いなく! 送っていけるといいんだけど、家まで気をつけてくださいね!」 「あ、あなた……せめてお名前を……!」  縋るような声を背に、アールは適当な木立の間に飛び込んだ。 (早くしないと、兄さまたちの捜索隊に捕まっちゃう。それに、いろいろ喋っちゃってグランデールの王子だとばれたら大変だ)  とにかく早く町に下りて、住み込みで働けるところを探そう。大丈夫、町に出ればなんとかなる。持ち前の楽天的な性格と、経験のなさからくる根拠のない前向きさで、アールは道を進んだ。焦って、予習した道とは違うところに出てしまったけれど、とにかく下へ、下へと下りればいいはずだ。  だが数十分もしないうちに、道なき道に入り込んでしまった。木々は生い茂り、昼間だというのに薄暗い。アールは立ち尽くす。 (なんかおかしい……)  慌てて、地図とコンパスを確認しようとした。だが、地図もコンパスも、追い剥ぎたちに渡したマントのポケットに入れていたのだった。  そして、不測の事態ですっかり失念していたが、抑制剤の入っていた、不思議な模様の包みもまた————。

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