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第3話
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(寒い……お腹すいた……水飲みたい……)
もう、丸一日になるはずだ。こうして歩き回って道を探している。完全に迷ってしまったのだ。空腹も、喉の渇きも初めての経験だった。こんなにつらいものだったなんて……。それに、この眠気はどうしたことだろう。
足も限界だった。意識朦朧としながら膝をつき、倒れ込んだところまでは覚えている――。
「おお……目を覚まされた」
アールが目を開けた時、目に映ったのは二人の男の顔だった。ひとりは見覚えがある老いた男で、もうひとりは、長い黒い髪に、黒い目をした青年だった。
(吸い込まれそうな黒だなあ……)
深い闇を思わせるその暗さを怖いとは感じなかった。ただ、このままうつらうつらしながら、見守られていたいような安心感……。
(夢、みてるのかな……)
「気分はどう? 大丈夫かい?」
男の声もまた、心地よいものだった。さらに手のひらが伸びてきて、アールの額にそっと触れる。その時、アールはぎゅっと心臓を掴まれたような感覚を覚え、反射的に身体をびくりとさせた。
「ごめん、驚かせたかな。熱をみようと思ったんだよ。うん、熱はないみたいだ」
今の感覚がなんなのかアールが考える間もなく彼がそう言ったので、この件は、まだはっきりとしない思考の中に沈んでしまった。
「ああ、よかった。本当によかった。私がわかりますか?」
黒い瞳の彼の隣で、老人がハンカチを目に当てている。少しずつ目が覚めてきたアールは、こくんとうなずいた。彼は、峠で追い剥ぎから助けたあの老人だ。
「彼から事の次第を聞いてね、ちゃんとお礼がしたいし、君が道に迷っているかもしれないってことで、君を探しに行ったんだよ。そうしたら、『沼が森』の手前で君が倒れているのを見つけたんだ」
「沼が森?」
「この辺りで恐れられている底なし沼のことだよ。道に迷った旅人が落ちることが多いんだが、落ちて生還した者はいない。草が生い茂っていて、水辺がよく見えないからとても危険な場所なんだ。動物たちもそれをよく知っているから、あそこには近づかない。だから君は野生動物にも襲われることなく無事だった。君は本当に幸運だったんだよ」
男の話を聞いているだけでゾッとした。そんな恐ろしい状況に陥っていたなんて。
アールは身体を起こし、小さな声で告げた。あまり『お礼』の言葉というものを言ったことがないのだが、横になったままではいけないだろうと思ったのだ。
「どうもありがとうございました。助けていただいて……」
「君はこの辺りをよく知っているようなことを言っていたらしいけど……」
黒い目の彼の優しかった眼差しは、厳しいものになる。
「険しくないといえど、山を侮りすぎだ。上着を奪われたにしても、そのような軽装で峠を越えるつもりだったのか? 山中は日が暮れると急に気温が下がるんだ。だから眠くなっただろう? 体温が下がったせいだよ。おまけに地図もコンパスも持たず……」
自分の諸々な甘さや楽天的な過信を突きつけられ、これが兄や侍従たちなら口答えをしてしまうアールだが、命を助けられた彼には何も言えなかった。ただ、蚊の鳴くような声でポツリと答えた。
「地図とコンパスは、奪われた上着のポケットに入れたままだったんです……」
男の表情がハッと変わる。そして、老人がとりなすように口を開いた。
「ラインハルト様、もうそれくらいに……このお方を危険に晒したのは私のせいでもあるのですから……」
「そうだな……悪かった。少し言いすぎたよ。君はシュミットの命の恩人で、まだ身体が弱ってるっていうのに……」
彼のまなざしは再び柔らかくなり、「悪かった」と頭を下げる。
「い、いえそんな……」
アールはどう答えていいかわからず、言葉を濁してしまう。
そんなふうに謝られたことなどない。というより、今のように気持ちをやり取りするような、そういう会話を誰かとしたことがないのだ。
そして、男はアールの正面に向き直った。
「私はここで薬師をやっている、ラインハルト・クリフという。彼は私が幼い頃から世話になっている、シュミットだ。君の名前は?」
「ア……アール……アール・ベルグといいます」
取ってつけた姓は、城で飼われていた猟犬の名前だった。苦し紛れだが、対するラインハルトは、ぱっと笑顔になった。
「そりゃ奇遇だ! この子もベルグっていうんだよ」
足にすり寄ってきた灰色の仔犬を抱き上げ、ラインハルトは本当に優しい顔になる。
(表情が豊かな人だなあ)
一見は涼しげなのに、豊かに変わる彼の表情一つひとつが、アールの心にさざ波をたてる。誰かの顔に見入ってしまうなど、初めてのことだった。
考えてみれば、アールの周りには小言ばかり、もしくはデロデロに甘い兄たちや、しかめっつらの侍従しかいなかった。だから彼を新鮮に感じるのかもしれない。城のベルグも『オメガ王子に狩りは必要ないから』と触らせてもらえなかった。仔犬の頃から、撫でてぎゅっとしたくてたまらなかったのに。
「あの……この子、触ってもいい?」
「好きなだけどうぞ。その間に食事の用意をするよ」
「ベッドの上で触っても?」
「? どうぞ?」
一瞬、不思議そうな顔をして、ラインハルトとシュミットは部屋を出る。アールはどきどきしながら、ベッドに掴まって尻尾を振っていた、灰色の仔犬を抱き上げた。
「うわ、ふわふわだあ……」
心まであったかくなるような肌触りに、思わず感嘆の声が出る。ベルグはアールを気に入ってくれたのか、その頬をペロペロと舐めた。
「こら、くすぐったいよ、ベルグ」
仔犬を抱きしめ、アールはしばし、その愛らしさと毛並みの心地よさを堪能した。こうして、温かい生きものを抱きしめるのも初めてだったのだ……ずっと、やってみたいことだった。
だが、今はこんなに和んでいる場合ではないのだ。本当は、不慮の事態(自分が招いたことなのだが)を憂い、これからのことを考えねばならなかったのだが。
「どうぞ。昨日から何も食べていないだろう?」
ラインハルトが用意してくれたテーブルには、パンが山盛りになったカゴと、湯気の立つスープ、こんがり焼けたキッシュ、真っ赤な林檎と、バターとミルクがところ狭しと並んでいた。
思わず、ごくりと喉が鳴ってしまう。どれもこれもいい匂いで美味しそうだ。だが、驚いたアールは思わず呟いていた。
「パンが黒い……」
「もしかして、黒パンを初めて見た?」
「あ……はい」
アールが知っているパンは、小麦色、もしくは白かった。ラインハルトは「そうか」と言いながら、丸くて黒いパンを取り分けてくれた。
「香ばしくて美味しいよ。バターと一緒に食べてごらん」
いつも城でしていたように両手を組み、食への感謝の祈りを捧げる。そうして、アールは黒パンをちぎって、バターとともに口へと運んだ。
初めて食べる黒いパンは、少し固いけれど、噛みしめるほどに甘みが感じられた。
「美味しい!」
「それはよかった」
ラインハルトの優しい笑顔に促されるまま、アールは黒パンを数個、スープをおかわりして、キッシュもあっという間に平らげた。スープには刻んだ野菜がたくさん入っていて、キッシュは卵とベーコンの素朴なものだった。
空腹だったからというのもある。だが、毎日城で食べていた豪華な料理よりも、ずっと美味しく感じられた。
食後には、はちみつを垂らしたヤギのホットミルク、そしてラインハルトが剥いてくれたみずみずしい林檎。ヤギのミルクも初めてだったけれど、アールはミルクのカップを両手で包み込み、ふうっと満ち足りた息をついた。
「美味しかったかい?」
「はい、えっと……ごちそうさまでした」
取ってつけたような言い方だっただろうか。アールは心配になった。
城では臣下の者たちにむやみに礼など言うものではないと教えられていた。『王族たる威厳をもて』————厨房に出入りして自分は気さくにしているつもりでも、そういう言葉は言わなかったなあ……でも、言わなくてはいけないと、今すごく思ったのだ。
などと考えている間にも、ラインハルトは食器を片づけ始めている。これならできる! 厨房でみんながやっているのを何度も見たことあるもの。アールは勢いよく立ち上がった。
「僕、やります!」
「気にすることないよ。まだ身体も弱ってるだろうから休んでおいで」
ラインハルトの言葉は優しかったのだが、わがまま心が顔を出し、アールは内心むくれてしまった。
(僕にもできるのに。やりたかったのに……)
その時、呼鈴が鳴った。ラインハルトは「いらっしゃいませ」と言いつつ、玄関に向かう。そうだ、今のうちに食器を洗い場に運んでおこう。思い立ち、アールは食器やピッチャーが載せられたトレーを勢いよく持ち上げた。
(うそっ! 重いっ)
それは、青年に達した男であれば運べないようなものではなかった。だが、アールは、『フォークより重いものを持ったことがない』ような暮らしをしてきたのだ。だから当然ながら――。
ガラガラガシャン! ガチャン!
食堂の方から派手な音がした。客の対応をしていたラインハルトは、驚いて何事かと振り返る。
「すみません。様子を見てきますので、少しお待ちいただけますか?」
「いやあ、今の音は尋常じゃないね。早く行った方がいいと思うよ」
客にも心配され、食堂に戻ったラインハルトが見たものは、割れた食器が散乱し、水浸しになった床の上で茫然としているアールだった。
「大丈夫か!」
駆け寄ってきたラインハルトに、アールは「だだだ大丈夫です」と動揺して答える。トレーを持ち上げたとたんに重さで足がよろけ、あとは見ての通りだ。アール自身も驚いていたが、ラインハルトはそれ以上のようだった。
「運ぼうとしたのか?」
アールはただ、こくこくとうなずいた。
「だから休んでいろと言っただろう?」
少し強めの口調に、彼に叱られたと感じ、アールは、ぽろぽろと泣き出してしまった。
怒ってる。彼の言うことをきかなかったし、こんなにたくさん食器も割っちゃって……。
叱られたショックと、非力な自分の情けなさ……とにかくアールは無鉄砲なくせに打たれ弱い。だが、兄や侍従たちに叱られても、こんな気持ちになったことはなかった。
泣き出したアールを見て、ラインハルトは、ありありと困った表情を浮かべた。だが、すぐに強い口調に戻る。
「ああ、泣かないでいいから、とにかくそこから離れて! かけらで怪我するぞ」
(また怒られた……)
「うっく……ひっく……」
しゃくりあげるアールに、ラインハルトはますます困った顔になる。
「怒ってない、怒ってないから!」
手伝おうとしたアールは、陶器のかけらで指を切りそうになり、ベルグの側へと退避させられた。慰めるようにすり寄ってくる仔犬の隣で、アールは自分が壊したものを片づけるラインハルトの背中を、ただ見ているしかなかった。
「少し染みるけど我慢して」
アールは結局、数か所、指を切っていた。その傷口に何やら緑色の薬を塗り、ラインハルトは丁寧に手当てをしてくれた。
長い指が、手早くアールの指に包帯を巻いていく。その指に、アールは我知らず見入っていた。
(節が太くって、僕のと全然違う……)
そんなことを思ったら、なぜだかドキドキしてしまった。
「はい、これでよし……と。どうかしたか?」
アールの視線を感じたのか、包帯を巻き終わったラインハルトが顔を覗き込んできた。我に返り、アールは真っ赤な顔でなんとか礼を言う。
「あ、ありがとうございました」
「それから?」
「え?」
何を促されているのかわからなくて、アールは小首を傾げて聞き返す。
「故意ではないとはいえ、君はたくさんの食器を割った」
諭すようなまなざしに、アールは「あ……」と、小さく呟いた。
「お皿とか、カップをたくさん割ってしまって、ごめんなさい……」
「そうだな、それは謝らなくちゃいけないことだ。君が好意でやろうとしたことであってもな」
「はい……」
噛んで含めるような口調だった。アールは素直にうなずく。最初に謝らなければいけないことだった……また、自分が情けなくなる。
「君は……」
何か言いかけて、「いや、いい」とラインハルトは口を噤む。なんだろうと思いながら、アールは問いかけた。
「あの、ラインハルトさん」
「ライでいい」
「じゃ、あの、ライ」
控えめにその名を口にし、アールは彼を見上げた。
「もう、怒ってない?」
アールの問いに、ライは目を瞠り、ややあって楽しそうに笑った。
「そんなに気にしていたのか?」
「はい……」
「そうか、それは悪かった」
ライは笑いながら、小さな子にするみたいにアールの金髪をぐりぐりとかき混ぜた。
もう、子ども扱いして……少し憤慨しながらも、それが嫌じゃない自分もいる。どうしてだろう。アールは、そんな自分を不思議に感じていた。
一方、ライは琥珀色のお茶を入れ、アールに差し出した。
「いい匂い……」
スパイスの香りの中から花のような甘い香がふわりと立ち上り、アールの鼻腔をくすぐる。
「止血作用のある薬草から作ったお茶だよ。そのままだと飲みにくいから、レンゲの花をブレンドしてある。はちみつの採れる花だ」
そうだ、薬師だって言ってたっけ。お茶も作れちゃうんだ。すごいなあ……一方、ライは黒縁の眼鏡を取り出し、彫刻のようなラインを描く鼻の上に乗せた。
片方のレンズが大きくて、もう片方は小さな作りになっている。学者や医者がよく使用している眼鏡だ。ライの知的な美貌が増し、アールはまた、新しい彼の横顔に胸がきゅっとなるのを感じた。
「体力も徐々に戻ってくるだろうし、怪我が良くなるまでここでゆっくりと休んでいけばいい」
ライの思わぬ申し出に、アールは驚いて椅子から飛び上がりそうになった。これからどうするかを考えなければいけない状況にあることを、今まさに思い出したのだった。
ライの申し出は本当にありがたい。そのしばらくの間に、考える時間もできる、だが、アールはとても不思議だった。
だって、行き倒れていた(らしい)ところを助けてくれ、あんなに食器も割ってしまったのに。怪我の手当だってしてくれて……。世間知らずのアールにもわかる。こんなに面倒な客人はいないだろうに。
「あの、どうしてそんなに親切にしてくれ……くださるのですか?」
「そんなにかしこまらなくていいよ」
ライは笑い、話を続ける。
「君が助けてくれたシュミットはね、私の育ての親のような存在なんだ。つまり、君は私の大切な人の命の恩人だ。あの日、彼が私のところに駆け込んできてね、勇気のある少年に助けられたのだけれど、どうにも彼のことが心配だから一緒に探してくれって言ったんだよ。本当に君のことを心配していた。そうしたら……」
「僕が倒れてた……」
「そう。だから君は大いに私の気持ちを受け取ってくれればいい。何も気にすることはないんだよ。その代わり君のことを話してくれないかな?」
「ぼ、僕のこと?」
内心、ぎくっとして、ぎこちなくアールは答えた。
「麓の町へ親戚を訪ねるんだって言ってたらしいけど、道もよくわかってなかったみたいだし、町の名前も知らなさそうだったってシュミットが言ってたからね。何かわけがあるんじゃないかって」
わけ……アールは頭の中をぐるぐると働かせた。
アルファのオメガへの婿入り婚は王家のみの風習だ。その結婚が嫌で家出してきたなんて言ったら、王族だということがばれてしまうだろう。それに……。
(男の人と、アルファとかオメガとかの話はしない方がいいんじゃないかな)
それは直感的に思ったことだった。なんだかんだ言っても、兄たちからの貞操教育が染み込んでいる。
「出身は、グランデールのハーヴェルです」
できるだけ、ここから遠い場所をと思い、アールは辺境の町の名を告げた。
「それはまた、遠いところから来たんだな」
「兄さま……兄と喧嘩して、家を追い出されたんです。それで、働くところと住むところを探そうと思って」
嘘が半分、本当が半分。兄さまたち、ごめん、悪者にしちゃって……少々苦し紛れに答えたアールだが、それがライの目にはつらそうに映ったのかもしれない。
「つまり、お金も持ち物もない。行くあてもないということだ」
ライは明確にアールの「身の上話」をまとめた。そして、引き結んでいた唇を、ふっとほころばせる。
「では、これは私の提案だが、ここに住み込んで私の手伝いをしてくれないか? 君には恩もあるし、仕事や家のことを手伝ってくれる者がいればと思っていたところだ」
「ほんとに?」
ありがたすぎる話だ。信じられなくて、アールは大きな目をさらに大きく見開いた。
「目がお星さまみたいになってるぞ?」
ライは眼鏡をかけたままの涼やかな顔で笑う。知的な雰囲気の人なのに、笑うと優しくなる。そうか、わかった! 僕はこの人の笑った顔が好きなんだ。
「だって、嬉しいんだもの!」
アールは満面の笑顔を見せた。ライもまたその笑顔を受け取る。
「じゃあ、決まりだ。これからよろしく」
握手を求められ、ライの右手をぎゅっと握った。その時も、アールの心臓はどきどきとせわしなく鳴ったのだった。
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