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第114話

「実は私もずっと隠していたことがありました」  車に乗るなり、享は口をひらいた。 「朱莉さんになかなか子どもができなかったのは、ずっと自分のせいじゃないかと恐れていたんです」  いきなり何を言い出すのかと思った。享は一旦はハンドルに手をやったものの、エンジンをかけようとはしなかった。 「一緒に暮らし始めて自然と、子どもができたらいいなと思うようになりました。多くのひとがやっているように、流れに任せていればいいのだと、初めは深く考えませんでした。でも時間が経つにつれ、できたらいいな、ではなく、できなければならない、と思うようになりました。親や周囲の目も気になって」 「ごめん。俺のせいで肩身の狭い思いさせて」  そうだ。どうして気づかなかった。自分なんかより亨の方がよっぽど、プレッシャーをかけ続けられていたに違いない。  全然気づかなかった自分に腹が立つ。そして今まで全然気づかせなかった亨は、本当に、どうして、そんな振る舞いができるんだろう。 「いいえ。今だから言えますけど、朱莉さんのことを悪く言うひともいました。そんなひとたちを諫めながら本当は、その非難がいつ自分に向けられるのかと、ずっと脅えていたんです。朱莉さんを庇うフリをして、本当はずっと自分のことを庇っていた。朱莉さんの首の印が薄いのを見るたび、アルファとしての性質が弱いことを突きつけられているように感じました。子どもが育ちきらなかったのも、私のせいかもしれない。だから……だから朱莉さんが、もう二度と子どもがうめない身体になったと分かったとき、私は不謹慎にも、ほっとしたんです。もうこれ以上頑張らなくていいんだ、って。重荷から解放されたようにすら感じたんです。私だってこんな最低な人間なんですよ」  言い終えると亨は、こちらを向いて、微笑んだ。  斜め上から光が差してくるような。桜の花びらがはらはら舞い落ちてくるような。そんな背景が似合う微笑みだった。 「選択肢が減ったはずなのに、逆に増えたような、というか。不思議ですね、視界がひらけた感じがしました。今までどうして、子どもを作らないと、と、必死だったんだろうって。跡継ぎの道具でも、他人に見せびらかすための道具でもない。それに私は、愛し合った証でもないなと思うんです。そんな壮大なものを子どもに託すなんておこがましいというか、私たちが本当にかけがえのないパートナーだってことは、違う方法でも証明できると思います」 「亨……」  引き寄せられるように、くちづけていた。  本当は心と心をくっつけたかったけれど、一番近くに感じられる場所がそこのような気がしたから。  一緒に深く沈み、そして浮かび上がる。息をついだときに、亨が言った。 「いけない、公然わいせつになってしまう」  チリンチリン、と、自転車のベルの音がタイミングよく響き、顔を見合わせて笑った。  亨との距離が近すぎて、亨の顔、というより、亨の瞳に映る自分の顔を見て笑っていた。以前のように、目を背けたくなる感じはなかった。 「朱莉さん」  亨が背筋を伸ばしながらそう言ったから。つられても朱莉も背筋を伸ばし、「はい」と答える。プロポーズみたいな緊張感を感じたとき、 「実は私、出馬を考えているんです」 「へっ……」  亨は想像もしていなかったことを言った。 「しゅつば……」  の、意味が分からないと思ったのか、「選挙に出ようと思っています」と亨は無駄に言い直す。

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