6 / 6
第51話 番外編 白の婚礼衣装
「盗人だ! 誰か、捕まえて……泥棒――ッ!!」
喧騒の合間から叫び声が上がった。
港に向かっていたラシッドは馬の足を止め、声がした方を振り返る。周りを囲んだ近衛隊の頭越しに、荷を抱えて逃走する男の姿が目に入った。
ここは帝国の南西に位置する港町、ベシュレムだ。昔ながらの貿易港と巨大な軍港の二つを擁する、いわば帝国の玄関口とも言える街である。
多くの外国人商人が行き交い、国の情勢を見極めようとする街でもある。白昼堂々と窃盗が行われるのを見逃せば、帝国の威信に傷がつくことになりかねない。
「捕縛せよ」
ラシッドが低く命じると、近衞隊の隊長がするりと馬を下りた。数人の部下とともに、音もなく人込みの中へと消えていく。
それを見届けてから、ラシッドは港の奥にある軍港へと馬の脚を進めた。
十一代皇帝ラシッドがその位に就いて以降、帝国の領土は大幅に拡大した。
大陸のほとんどを支配下に収めたこともあり、この先は海路を制することが重要となってくる。ラシッドは即位して間もない頃から港の整備を進めさせ、湾の奥に最新式の軍港と造船所を造らせていた。
それらがようやく完成し、この春から正式稼働させるところまで辿り着いた。船の材料となる鉄や木材はすでに運び終え、船大工などの職人たちも招集している。後はいよいよ軍艦の建造に入るのみだ。
しかし湾や造船所の情報は、帝国軍にとって重要な機密となる。外国人の多いこの街でそれを守れる体制か確認するのが、今回の視察の目的だった。
幸いなことに、この街を守護する海軍司令は、ラシッドの意向を十分に理解していたようだ。軍港一帯を歩き回り念入りに確かめたが、満足のいく仕上がりだった。
予定よりかなり早く視察を終えたが、近年この街では外国籍の商人が増えている。様々な人種が入り乱れれば、治安は悪化するのが世の常だ。商人の連合会にもひと声かけておくべきかと思案していたところで、近衞隊長が二人の男を連れて戻ってきた。どうやら先程の盗人と荷主のようだ。
「何事だ?」
盗人を捕らえて荷を取り戻してやったのではないのかと訊ねたラシッドに、近衛隊長が微かに渋面を見せた。
「荷を盗んだ男が、自分は盗まれたものを取り返しただけだと主張いたしまして」
隊長の言葉に、ラシッドは目を眇めた。
顔つきや挙動を見るに、逃げた男の言うことは苦し紛れの偽りだろう。
一方、荷主と思しき男の方は外国人のようだ。公用語を使ってはいるが、言葉がかなりたどたどしい。
身なりや所作からは真っ当な商人のように見えるが、どのような品を運び込んでいるのかと興味が湧いた。
「――ならば、二人とも荷の中身を言うがよい。余の目の前で荷を解き、証言と一致した方を正当な持ち主と認める」
畏まって平伏する男たちの背を、ラシッドは金の目で睥睨する。
「誤りを述べた者には、窃盗に加えて偽証に対しても罪を問う」
重々しい宣言に、逃げた男が小さな悲鳴を上げた。おそらく窃盗の常習犯なのだろう。わざわざ異国人の荷を狙うのは、万が一捕らえられても言い逃れしやすいと踏んでのことか。
そのような卑劣漢を帝国がどう罰するか――見せしめにはちょうどいい。
逃げた男が何も答えられずにいる中、交易商と思しき外国人は深々と平伏して答えた。
「この中身は、婚礼衣装です……東の国ヒヌの、王族が着ました」
たどたどしい公用語で語られた国の名――。
男の口からその名を聞いた瞬間、夜空のような漆黒の双眸がラシッドの脳裏に甦った。
その国をラシッドが知ったのは、帝都の宮殿に所蔵されている古い出納簿からだ。
記載は十五年程前、銀貨一枚で宦官奴隷を後宮に買い上げたとの記録があった。奴隷の出身地は『ヒヌ』。
聞き覚えのない国名は、帝国の地図にも載っていなかった。不思議に思って調べてみれば、東方の海に浮かぶ島国は数年前に攻め滅ぼされ、今は海を挟んだ隣国の領土となっていた。
黒い瞳に黒い髪を持つ、東方の民――。
彼らはどのような文化を築き上げていたのか。ラシッドの手には遠い異国を偲ばせる婚礼衣装が握られている。港の交易相から言い値で買い上げたものだ。
その趣は、帝国の衣服とはかなり異なっていた。
帝国に於いては、貴人が身に纏う衣服は濃く明瞭な色に染め上げる。身分が高くなるほど金糸で大量の刺繍を施すため、生地はそれに耐え得る厚みのあるものとなる。貴重な染料を惜しみなく使い、煌びやかな刺繍で全身を飾り立てることで、それを纏う人間の財力や権力を誇示するためのものだ。
その視点で見れば、ヒヌの衣は王族が身に付けるものとは思えぬほど質素だった。
練り絹の色そのままの柔らかな白は、職人が染めを忘れたのかと思わせる。身分を表す大仰な刺繍もなく、頼りないほどに柔らかで軽い。
しかしこの衣装が如何に上等で手の込んだ品かは、手に取ってみればすぐにわかった。
幾重にも重なった絹布は、一枚一枚が複雑な地模様を描いて織り出されている。薄く柔らかな生地の下には、艶と張りのある生地が重ねられており、体の動きに沿いながらも形は凛として崩れることがない。光に透かして見ればうっすらと輝き、地模様の重なりが神々しいまでの厳かさで浮かび上がる。
装飾らしい装飾は、襟元の金刺繍だけだ。決して豪華とは言えないその紋様は、王者としての権威や富を主張するものではないのだろう。これを着る者に向けた、何か神聖なまじないが描かれているのではないだろうか。
遠くから眺めただけなら、ただの貧相な衣だ。
間近に見ることで初めて美しさに気づき、触れてみれば感嘆の息を禁じ得ない。――これがヒヌという国の装束なのだ。
港で荷を開いてこの衣装を広げさせた時、ラシッドの頭の中は宮殿に待つ宦官のことで満たされた。
――会いたい。会ってこれを着させてみたい。
その想いが抑えきれなくなって、ラシッドは早々と帝都に戻ってきた。
だが皇帝を出迎えるはずの東方人の宦官は、大理石でできた宮殿から忽然と姿を消していた。
「……居ない、だと?」
宮殿に戻ってすぐに、ラシッドは小姓を介して宦官長を呼び出した。いつもならばすぐさまやってくる宦官は、この日に限って待てど暮らせど来なかった。
考えてみれば昨夜も伽を命じたばかりだ。二夜連続で呼び出されるとは思わずに、準備に手間取っているのかもしれない。
そう思ってしばらくは待ったが、窓の外の薄暮が暗闇に置き換わっても、黒髪の宦官は訪れなかった。
代わりにやってきたのは、青い顔をした次官の方だ。
「――どこにも姿が見えないのです……へ、部屋も片付けられており……」
震え声での報告が終わるより先に、ラシッドは椅子を蹴立てて立ち上がった。全身の血が沸騰したかのような激しい昂りに襲われる。
「衛兵――ッ!!」
号令を聞いて慌てふためいて入ってきた衛兵に、ラシッドは雷鳴の如く咆哮した。
「後宮宦官長を探し出せ! 寵妃や側女の部屋、牢の中から井戸の底まですべて隈なく捜索せよ! ――速やかに行けッ!」
逃げたのか、と一瞬だけ考えた。
奴隷の逃亡はよくあることだ。遠い異国から来た奴隷は特に、生まれ故郷に戻りたいと願い続けるという。
だからこそラシッドは宦官の出自を確認し、宮殿を出る日のために十分な褒賞も与えてあった。必要ならば故郷へ戻る船の一つも買えたはずだ。異国生まれの宦官はそれに値するだけの務めを果たしていた。
今朝も鳥の声が聞こえるまで、ほとんど眠らせずにその肌を味わった。不思議なことに、共に過ごす時間が増えれば増えるほど、解放するのが惜しくなる。宦官はそれに不満を表すこともなく、いつものように艶やかに乱れ、事が終わったあとは淡々と部屋を出ようとした。それを引き留めたのはラシッドの方だ。
寵愛の証である紅玉の指輪を嵌めてやると、宦官は戸惑うように目を瞬かせたあと、僅かばかり誇らしげな表情を浮かべた。――あの宦官が、何も言わずに自分の元を去るはずがない。
ラシッドは後宮にある宦官長の部屋に来ていた。
部屋は片付けられ、すっかり空になっている。目ぼしい私物は一つも残っていない。
衣装もない、書物もない。机の引き出しにも筆記具が幾つか残されているだけで、紙の類は一切ない。
そして何より、幾つも与えた金貨の袋が一つも残されていなかった。
「……最後に姿を見たのはいつだ?」
案内についてきた次官に問う。
「私どもが把握しているのは昨夜です。ですが……」
誰かに聞かれるのを怖れるように、次官が声を潜めた。
「側女が夜通しこの部屋の前に立っていたのを、何人かの宦官が目にしています。確か、筆頭寵……」
「デメル」
途中まで言いかけた次官の証言は、廊下からの声に遮られた。
開け放ったままの扉から、赤子を腕に抱いた女人が入ってくる。筆頭寵妃のアイシェだ。
次官を廊下の外へと下がらせた女は、ラシッドの前に膝を突いて深々と腰を折った。
「このたびの宦官長の不祥事、後宮を預かるわたくしの責任でございます。どうかお許しください」
殊勝な言葉とともに、女は身を縮めて平伏した。
ラシッドはそれを冷えた目で見据える。
「――このところ、後宮での商いを便宜する代わりに賄賂を要求されると、商人たちから訴えがございました。その件について宦官長に問い質そうとしたのですが、側女が朝の支度で場を離れている間に逃亡されてしまいました。もう少し早く気づいていれば良かったのですが」
顔を伏せて見せぬまま、女が言う。
ラシッドの目に映るのは、生まれたばかりの赤子の寝顔だけだ。
「……私物が何も残っておらぬようだが、お前が持ち出したのか」
「いいえ、まさか。後宮を逃げ出す時に宦官長が持って出たのでしょう」
わずかな震えを帯びながらも、女の声はしっかりしていた。
その言葉を聞きながら、ラシッドは昏い怒りが腹の底に広がっていくのを感じていた。
以前の自分なら、この言い分をそのまま受け入れただろう。
後宮唯一の寵妃だ。皇子の母でもあり、ただの側女や宦官とは地位が違う。多少疑わしく思ったとしても、後宮を任せてあるのだからと追及しなかったはずだ。
その甘さが、今回の事態を招いたのだ。
私物の一切がなくなっているのは、証拠を隠滅するためだろう。手紙や書物の類は特に念入りに片付けられている。衣服やその他の細々したものは、逃亡の信憑性を高めるために処分したのに違いない。
すべてを始末し終えたからこそ、こうして堂々と姿を現したのだ。腕に生まれたばかりの赤子まで抱えて。
「デメル」
ラシッドは扉の影で息を潜めている次官を呼んだ。アイシェと扉との間に立ち塞がり、退路を断ってから申し付ける。
「側女たちの部屋を徹底的に調べよ。新しく打たせたばかりの金貨があるはずだ。普段出入りのない物置や洗濯室も隈なく探せ。各部屋の暖炉から燃え残りを集めてくるのも忘れるな」
「陛下ッ」
弾かれたように叫んだ寵妃を目で制し、ラシッドは宦官たちを行かせた。
今朝がた部屋を去っていった宦官の後ろ姿を思い返す。夜通し乱れたせいで足に力が入らないらしく、ゆっくり歩くのがやっとという足取りだった。
船さえ贖えるほどの金貨は相当な重量となる。屈強の兵士でもない限り、あれだけの金貨を一人で抱えて、その上私物まで持って逃亡することはできまい。
部屋から消えた書物と衣服はどこかに隠してあるか、さもなくば暖炉の炎で焼いて処分されただろう。だが金貨はそうそう始末が出来ぬし、袋を燃やせば装飾に使われた金属が燃え残っているはずだ。
宦官にはどこへ持ち出しても通用するよう、ここ数か月で新たに打ち直させた金貨を与えていた。他の側女たちには与えていないので、もしもそれがここにあるとしたら、それは宦官に与えた金貨だ。純金は角が減りやすいため、新しいものかどうかは見ればすぐにわかる。
「余の奴隷に手を出したうえに偽りまで申せば、罪が増えてゆくばかりだとわからぬか。たとえ筆頭寵妃と言えど、反逆者に容赦はせぬ。白状するのならば早めに覚悟をつけるのだな」
床に這いつくばった女がカタカタと震え始めた。他人を蹴落とすことに慣れ過ぎて、皇帝を欺くことの罪の大きさを失念していたらしい。
母親の不安が伝わったのだろう。
よく眠っていたはずの赤子が激しい声を上げて泣き始めた。
「ベシュレムより早馬です! 古着屋に宦官長の長衣と頭布が売られていたそうです! ただいま海軍司令が……」
走り込んできた伝令の知らせを皆まで聞かぬうちに、ラシッドは腰を上げた。軍馬の手配を命じるとともに、帝都の宿を探させていた近衞隊を呼び戻す。
宦官が姿を消した日の夜、ラシッドは街道と港を閉鎖するよう早馬を走らせた。近隣各都市の長にも街中の宿を検めるよう命じ、黒い髪に黒い目を持つ宦官がいればすぐに知らせるよう伝えた。
ようやく、待ち望んだその知らせが届けられたのだ。
馬を駆りながら、ラシッドは歯噛みする。
宦官が消えたその日、折しもラシッドはベシュレムの軍港を視察していた。気づかぬうちに、どこかで宦官を連れた卑劣漢どもとすれ違っていたかもしれない。そう思うと、腹立ちは一層増した。
アイシェとアイシェ付きの側女たちは牢に入れてある。側女たちを尋問させたが、詳しいことは知らぬ様子だった。刑吏が一人姿を消していたので、おそらくその男が宦官を運んだのだろう。
ベシュレムには、ありとあらゆる外国船が寄港している。
港の封鎖が間に合っていれば良いが、そうでなければ人間一人を探し出すことはほぼ不可能だ。
焦燥感に駆られながら到着したラシッドを、海軍司令が街の入り口で出迎えた。
捜索の拠点は、街の中心にある海軍司令の屋敷だった。そこで古着屋から取り戻したという長衣と頭布を確認したが、確かに後宮宦官長のものだ。どちらも乾いた体液の跡があり、長衣の裾には血の汚れがついていた。
司令によると、街の主だった宿をすべて検めたが宦官を見つけることができなかったため、今は娼館と外国人が使う酒場などを探しているとの報告だった。
ラシッドは重い声で命じた。
「……娼館から当たれ。情報を持ってきた者には褒賞を出すと伝えよ」
牢の中から泣いて憐みを請うた女の顔を思い出す。
過ちを悔いる言葉はあったが、何人もの側女を後宮から追い出した強かな女だ。二度と戻ってこられぬように、その肉体を穢そうと考えても不思議はない。
――果たして自分は、他の男たちの手垢がついた宦官を連れ帰ることができるだろうか。窓の外を見つめながら、そんな疑問がラシッドの胸をよぎった。
軍人たちの物々しい雰囲気に、何か事件かと物見高い街の者たちが屋敷の周りを遠巻きにしている。その人垣を割るようにして、一人の海兵が戻ってきた。
「黒髪の宦官を見たという客がいました! 裏通りの売春宿です!」
報告を受けた海軍司令が即座に立ち上がる。
「すぐに確かめてまいります。陛下はここでお待ちください」
上着を翻して発とうとするのを、ラシッドは制した。
「いや、余が行こう。お前たちは宦官の顔を知らぬはずだ」
「しかし……畏れながら、あの辺りは皇帝陛下が足を運ばれるような場所ではございません」
表の群衆を気にした様子で海軍司令が進言した。
確かに、皇帝たる者が足を運ぶような場所ではないだろう。寂れた売春宿に入っていく皇帝の姿を見れば、街の者や外国人の商人たちは何と思うことか。
しかしそれを言うのなら、たかだか宦官奴隷一人のために軍を動かし捜索させている今の状態が、すでに帝国の主として相応しい振舞いではない。
これではまるで色恋に目を眩ませた、ただの男ではないか――。
「…………」
ラシッドは立ち止まり、胸を押さえた。
ずっと目の前を塞いでいた靄が、ようやく晴れたような気がした。なるほど――この苛立ちと焦燥は、そういうことであったのか。
「あの……陛下……?」
主君の口元に苦笑いが浮かんだのを目にして、海軍司令が訝しげに問いかけた。
ラシッドはその肩を叩き、屋敷の表へと足を進める。
己の心が定まった以上、迷いはない。
例え無惨な死体が待っているのだとしても、愛する者の消息はこの目で確かめずにはいられないのだから。
帳の向こうが徐々に明るさを帯びていくさまを、ラシッドはじっと見ていた。
待ち続けた夜が、今まさに終わりを迎えようとしている。腕の中には温もりがあり、穏やかな寝息が聞こえていた。息遣いは深く規則的だ。
頬にかかる黒髪を指で整えてやりながら、飽きもせずに無防備な寝顔を眺める。
――手の中から消えそうになって初めて、ラシッドは自分の気持ちに気が付いた。
故郷へ帰るための資金だと、褒賞まで与えていた愚かしさに苦笑いが漏れる。現実から目を背けて自分自身を騙していたのだ。
いざ失うかもしれぬとなったその時、ラシッドは一瞬もじっとしていられなかった。
四日の間、狂ったように探し続けた。夜が来ても朝が来ても眠ることさえしなかった。
薄汚い売春宿の一室で見つけたその時――。
胸を満たした感情は、とても言葉にできない。
閉め切った暗い部屋の中に、血と精液に汚れた体が横たわっていた。
手足は縄で拘束され、口には猿轡。呼びかけても揺すっても返事はなく、表情は虚ろだった。剥き出しの肌は冷えきっていて、息をしているかどうかもわからなかった。
脱いだ長衣で体を包んで、『帰るぞ』と声をかけた。腕の中に抱き上げると、力ない四肢は屍のようにだらりと垂れた。水を求める声を聞いた時には、どれほど安堵したことか。
もしも運命というものがあるのだとしたら、この宦官との出会いこそが運命だったのだ。
長い孤独を癒やし、喜びと安息を与えてくれた者。
腕の中に抱いて宮殿へと戻ってきたとき、ラシッドの頭の中に手放すという選択肢はもはや存在しなくなっていた。
「イル……我が運命の番よ」
傍らで眠る相手に、ラシッドは呼びかける。
傷はほとんどが治癒したが、手首には縄で擦れた痕がまだ微かに残っている。その手を取って口づけると、夢うつつに相手がラシッドの手を握り返してきた。
淡く塗った爪、指に光る紅玉。
床の上には遠い東方の花嫁衣装が、汗を吸って捨て置かれている。
――昨夜は、二人きりで挙げた密やかな婚姻の夜だった。
この国では、奴隷は主人の持ち物に過ぎない。
皇帝が数多の女人を後宮に置けるのも、彼女たちがただの所有物だからだ。奴隷たちは婚姻という制度から完全に排除されている。
天と地が逆さまになっても、宦官奴隷が皇帝の伴侶となることはあり得ない。
だがラシッドは、この宦官を生涯の伴侶と定めた。
「暫しの辛抱だ……必ずお前を獅子帝ラシッドの伴侶として、帝国の歴史に残してやろう」
自分自身に言い聞かせるように、ラシッドは低く囁く。今すぐには無理でも、いつか必ず、この宦官を自身の伴侶として認めさせてみせる。
その想いが届いたのか。
小さく呻いた宦官が、身を丸めてラシッドの懐に潜り込んできた。朝方の冷気で体が冷えたようで、暖を求めてぐいぐいと顔を潜らせてくる。まるで猫の仔だ。
起きているときにはあんなにも控えめな癖に、眠っているときは欲望に忠実なのが面白い。
しょうのない奴と密かに笑って、ラシッドは冷たくなった肩に自身の婚礼衣装をかけてやった。昨夜の婚礼のために、東方の花嫁衣装と揃いになるように急ぎで作らせたものだ。
東の国々には、初夜の後に互いの衣服を交換する風習があるらしい。
ゆえに、この衣はもう宦官のものだ。ラシッドの身の丈に合わせた衣装を小柄な宦官が身に纏う姿は、さぞかしそそられるに違いない。今度着せてみるとしよう。
温かさに安堵したのか、腕の中からは再び穏やかな寝息が聞こえ始める。
昨夜は久しぶりの交合だったので疲れ切ったのだろう。
珍しいことに、昨夜は宦官の方からラシッドを求めてしがみついてきた。
いつもはされるがままの受け身でいる奴隷が、食らいつくような激しさで唇を合わせてきたのに、応えずにいられるわけがない。
おとなしそうな顔をして、濡れた舌は怖れる様子もなくラシッドの舌を追い求めた。薄い絹の合間から淡く染まった肌を覗かせ、触れれば甘い声で鳴くのもいけない。腰を進めると、縋るようにラシッドの胴を挟み込んできた両脚も罪深い。
離しがたくなって、何度も腕の中に抱き寄せてしまった。
本当はもっと優しくするつもりだったのだ。娼館でのひどい有様からして、肌を合わせることを怖れるかもしれない。それなら心身に負った傷が癒えるまで待ってやろう、気持ちを確かめられればそれで十分だ――そう考えていた。
しかしそんな考えは、まったく無用のものになった。
指で内部を探るだけで、宦官はあっけなく快楽の頂へと昇りつめた。ラシッドを受け入れる夜が、待ち遠しくてならなかったと言わんばかりに。
身を沈めると、小柄な宦官は剛直を余すところなく呑み込んで法悦を貪った。全身で悦びを受け止め、抑えることなく声を上げ、ラシッドの背に爪を立てて恍惚に身を委ねる。
そのさまが余りにも蠱惑的で、昂ぶる心を抑えることができなかった。
二匹の獣のように貪り合い、息が切れるまで何度も悦びを分かち合った。疲れては休み、啄ばむように唇を合わせては、再び情愛を確かめ合う。
ラシッドが欲した以上に、宦官は熱くラシッドを求めてきた。
その幸福が今も胸を満たしている。
目覚めそうにもない寝顔を見ながら、ラシッドは囁く。
「わかっているか? お前は余の伴侶となったのだぞ」
少し肉付きが戻ってきた頬を指で撫でた。宦官は安心しきった様子でまだ眠りを貪っている。ここは皇帝の寝台だというのに、自分の寝床のようにぐっすりと。
ふと気が付くと、扉の外に人の気配があった。
差し込む光が明るさを増し始めている。小姓たちが主人の目覚めを待って、部屋の前で待機しているのだろう。
ラシッドは息を吐いて、腕の中の温もりを抱きしめる。
今はまだこれを離したくない――。
扉の外で小姓たちがやきもきしているのに気づかぬふりをして、ラシッドは一つ小さな欠伸を漏らすと、金の双眸を瞼に隠した。
両腕に愛しい温もりを抱きしめ直して。
ともだちにシェアしよう!