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第2話 ひとつの恋の終わり
ある昼休み、松原は、朝練で忘れた譜面を音楽室に取りに戻った。少し時間がかかったが、大事な譜面を見つけ、教室に戻ろうとした時。
音楽室の前で深刻そうな雰囲気で話し合う柏木と桜井の姿に気付き、彼は、音楽室の壁に張り付いて身を隠した。
「俺、他に好きな人ができたんだ。別れてくれないか。……勝手でごめん。佑 のことは、今でも可愛い後輩だと思ってる。こんな俺に、中等部の時からずっと付いてきてくれて、感謝してる。本当にありがとう」
柏木が、単刀直入に、別れ話を切り出していた。
「圭 の好きな人って……」
しばし無言だった桜井が言いかけた後、
「僕と別れたら、その人と付き合うの?」
少し強い口調で訊いた。
「いや。まだ、告白してない。俺の気持ちを受け入れてもらえるかどうかも分からない」
柏木は正直に答えた。
「自分から告白するつもりなんだね……。圭が自分から好きになるって、初めてじゃない? でも、圭に告白されてノーって言う人なんか、居ないから大丈夫」
桜井は、切なげに薄く笑い、そして優しく別れの言葉を告げた。
「圭、今まで僕と付き合ってくれて、ありがとう。圭と付き合ってた間、すごい大事にしてもらったね。いっぱい色んな気持ちとか、思い出を貰えて嬉しかった。じゃあね。さよなら」
二人が立ち去ったのを確認し、松原は音楽室を後にしたが、午後の授業は上の空だった。頭の中は桜井のことで一杯だった。
(桜井先輩は、ある程度、覚悟はしていたはずだけど。あんなに儚い人が、遂に別れを突き付けられて、今どこで、どんな気持ちで過ごしているんだろう)
放課後のベルが鳴るや否や、松原は、ブラスバンドの部室に息せき切って駆けつけた。
しかし、桜井はいつまで経っても現れない。
「ごめん。俺、ちょっと腹の調子悪い。パート練習、先に行ってて。後から追いかけるから」
三枝にそう告げ、松原は走り出した。
確信はなかったが、多分ここじゃないかと松原が想像した通り、桜井は屋上にいた。
桜井は、屋上の中でも更に高さのある塔に登って腰掛けていた。イヤホンで何か聴きながら、呆 けた表情で、大粒の涙をぽろぽろと零 していた。
「さっ、桜井先輩!? そんな高いところ、危ないです! 下りましょう!」
松原が焦って声を掛けると、完全に魂が抜けていた桜井は、急に声を掛けられて身体をビクッとさせ、はずみでバランスを崩し塔から転げ落ちた。
「……いったーい……。足首捻 っちゃったじゃん……。ちょっとお。責任もって、保健室連れて行ってよ」
桜井は、まだ涙を湛 えた瞳で、松原を軽く睨み、口を尖らせた。
「す、すいません……」
松原は額の汗を拭った。
「肩、貸してよ。君、ガタイ良いから、僕の体重くらい支えられるでしょ?」
言われるままに、松原は桜井に肩を貸した。近付くと、シャンプーの香りだろうか。甘い良い匂いがした。初めて至近距離で見た桜井は、白くて柔らかそうな頰、長い睫毛、足首が痛むのか時折顔をしかめる表情さえ色っぽかった。華奢で細い肩や背中に触れて、松原は、喉から心臓が飛び出そうなほどドキドキした。
お人好しで体格の良い松原は、共学の中学時代も、怪我した女生徒を世話したことがあった。彼女たちの肩や背中に触っても、全く変な気持ちにはならなかった。
それなのに、今、同性の先輩を相手に邪 な妄想をしているなんて、少しおかしい。それもこれも、桜井が、その辺の女子高生を蹴散らすくらい美人だからだ。松原は、自分に言い聞かせ、胸の高鳴りから目を逸らした。
「……なんで、あんなとこで泣いてたか、聞かないの?」
養護教諭が不在の保健室で、松原が何とか湿布と包帯を巻き終えた足首をさすりながら、桜井は言った。
「桜井先輩が、すごく悲しんでるってことは、よく分かったんで」
松原は言葉少なに答えた。泣いている人を、ましてや先輩を慰めるなんて、口下手の自分には一番苦手な分野だ。
「ちょっと、このハンカチ濡らして、絞ってきて。目が腫れちゃう」
松原を顎で使い、目元に濡れたハンカチを載せて、桜井はベッドに横たわった。
「……僕、圭と別れたんだ。圭、きっと次は、草薙と付き合うと思う。トロンボーンパートの中は平和になるね。良かったね」
目元をハンカチで覆ったまま、桜井は言った。
「俺は、草薙先輩が圭先輩のこと、好きなんだろうなって気付いてましたけど。
……でも、桜井先輩だって、圭先輩のこと、すごい好きだったじゃないですか。草薙先輩に全然負けてないぐらい。『良かったね』なんて、無理して言わなくていいですよ」
松原が慰めようとすると、
「なんで、僕が、圭を大好きだったとか、無理してるとか、君に言われなきゃいけないの?!」
桜井は、声を荒げた。
「……すいません。出過ぎたこと言いました。でも、圭先輩と草薙先輩が話してる時、桜井先輩、いつもすごく悲しそうな顔してました。あと、桜井先輩が圭先輩と仲良くしてる時、草薙先輩のことメチャクチャ意識してたのも、俺、気付いてました。
だから、圭先輩のこと痛いぐらい好きなんだろうなぁって。
あと、最近、桜井先輩、元気なかったですよね。お二人が、あんまりうまく行かなくなってきたのかなぁって、心配してたんです。何もできなかったですけど」
おずおずと松原が答えると、桜井は、再び声を殺して泣き始めた。ハンカチの上から、更に自分の手で覆っているから顔は見えないが、その細い肩や腕、指が、震えている。
「中等部で初めて会った時から、ずっと好きだったんだ……。でも、圭の周りには、いつも可愛い女の子がたくさん群がっててさ。それでも諦められなくて、何度も好きだって言い続けて、やっと付き合ってもらえたのにさ……。
でも、もう、圭の心にいるのは、僕じゃないんだ。仕方ないよね。どんなに頑張っても、気持ちを繋ぎ止められなかった。僕の負けなんだ」
切ない胸の内を涙声で打ち明け、泣き続ける桜井に、松原は、なんと言葉を掛ければよいのか分からなかった。黙って傍にいることしかできない自分が、もどかしかった。
松原が、再度、桜井のハンカチを濡らして保健室に戻ると、そこにはもう桜井の姿はなかった。歩くのもままならないはずの桜井を心配し、慌てて玄関に向かったが、既に桜井の靴はなく、帰宅したようだった。
それから数日間、桜井は部活に姿を現さなかった。特に、桜井と同じトランペットのメンバーは薄々事情を察していたのか、何も言わなかったし、柏木も普段通りの態度で過ごしていた。
桜井があんなに傷付いているのに、平然としているように見える柏木に対して、松原は、秘かに憤っていた。
ある放課後、部室に向かおうとしていた松原は、柄の悪い三年生に肩を抱かれて絡まれている桜井を目にした。
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