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最終話 笑顔になって

 放課後の部室に向かおうとしていた松原(まつばら)は、柄の悪い三年生に肩を抱かれて絡まれている桜井(さくらい)を目にした。  無表情で、全く楽しくなさそうだ。それなのに、桜井は、その手を振りほどかずにいる。  なんで、そんな男と。  瞬間的に、松原の頭に血が上った。 「桜井先輩! 部室で、(けい)先輩が呼んでましたよ!」  松原は、その三年生と桜井が、ビクッと身体を(すく)ませるぐらいの大声で叫んでいた。 「……そうなんだ。ありがとう。じゃあ、僕、ブラスバンド行かなきゃ」  桜井が、ぎこちなく、三年生の腕から抜け出した。  廊下の曲がり角を曲がって、三年生の姿が見えなくなったところで、松原は、先を歩いていた桜井の肩を掴んで引き戻した。 「……なんで、あんな奴と付き合おうとするんですか? 圭先輩と別れて寂しいのは分かりますけど、自分を粗末にしないでください。もっと自分を大切にしてください」  静かに怒りを込めて懇願した松原に、桜井は、目を逸らし、薄く笑いながら言った。 「圭は、優しいからさ。  僕に新しい彼氏ができるまで、気を遣って、草薙(くさなぎ)に告白しないと思うんだよね。それじゃあ、圭も草薙も可哀想じゃん? せっかく両想いなのにさ」 「だからって、桜井先輩が、自分を犠牲にしていい理由には、ならないですよね?!」  なおも松原は怒りを隠せない。 「……心配してくれるのは良いけどさ。別に、怒んなくたっていいじゃん」  桜井は、少し不貞腐(ふてくさ)れたような表情で、苛々(いらいら)と、自分の親指の爪を噛んでいる。  松原は大きく溜息をついた。 「元カレが、他の人を好きになっちゃって、振られたんでしょ? そんな状況なのに、相手を責めず、悪口も言わず、自分のことより、元カレが次の人とうまく行くことばっか心配して……。桜井先輩、健気(けなげ)にも、程がありますよ。  『悪女(あくじょ)』じゃないんだから」 「ぷっ。中島みゆき? 松原、なんで、そんな古い歌知ってるの? 年齢(とし)、誤魔化してるんじゃない?」  桜井は、片方の眉だけを下げて、面白そうに笑った。 「や、うちの母親が、たまにカラオケで歌ってるんで」  単純に面白い話を聞いて笑う桜井の表情は無邪気で、十七歳という年相応に見えて、松原は嬉しかった。  悲しそうな顔。  悔しそうな顔。  切なそうな顔。  何かを諦めてしまったような儚い顔。  松原の脳裏に浮かぶ桜井の表情は、いつも、年齢に不相応な恋の辛さが裏側に透けて見えていた。真剣な表情で何かを言いかけ、途中で躊躇(ためら)ってやめる、を、何度か繰り返した後、切なげに松原は声を振り絞った。 「……桜井先輩。俺じゃ、ダメですか」 「…………ええっ?!」  さすがの桜井も、よほど意表を突かれたのか、しばし絶句した。 「……僕、年下には、あんまり興味ないんだけど。それに、松原、男と付き合えるの? 同情だったらやめてね」  桜井は、腕を組み、怒ったように言い放ち、横目で松原を睨んだ。  同情、という言葉に、桜井の誇り高さが窺えた。彼のプライドを傷つけてしまったと気づいた松原は、慌てて言葉を重ね、誤解を解こうとした。 「いや、同情なんかじゃないっす。  ……俺は、桜井先輩を泣かせません。  圭先輩は、カッコいいです。敵わないのは、分かってます。けど、圭先輩、桜井先輩と付き合ってるのに草薙先輩にフラフラしてましたよね? 俺、そこだけは腹立ってました。桜井先輩に失礼だろって。  俺は、桜井先輩だけですから。そういう、不安な気持ちにはさせません」  松原は、桜井から目を逸らさなかった。睨まれても怯みもせず、力強く言い切った。  真剣な表情で求愛され、桜井は動揺した。目を泳がせ、軽く頬を赤らめた。 「……これまで殆ど話したこともないのに。僕のどこが良いの?」  ぼそぼそと呟いた桜井に、松原も、少し照れながら答えた。 「一途さとか、思いやりのある、優しいところですかね……。あと、思ってることがすぐ顔に出る素直なところとか」 「も、もう良いよ、分かったよ。恥ずかしいから、それ以上言わなくて良いよ。  ……でもさ。僕、男だよ。付き合える? 例えばさ、僕に、今、キスできる?」  桜井は、慌てたように、松原の告白を制した。そして、本当に恋人になりたいのか、再度問うた。頬を赤らめて「ウグッ」と固まった松原を横目で見て、桜井は、寂しそうに笑った。   「やっぱ、できないんじゃん。無理だよ、そんなんじゃ。僕と付き合うなんて」  その場を立ち去ろうとした桜井の両肩を、松原はガシッと両手で掴んで引き留めた。 「……俺、まだ、誰ともキスしたことないんです。だから、戸惑っただけで。桜井先輩だから、男だから、とか、そういうんじゃないんです」  そう打ち明けてから、松原は、ぎこちなく、桜井に口付けた。  キスというよりは、『自分の唇を、桜井の唇に、ムギュっと押し付けた』不器用な仕草だった。顔を傾けるという発想もなかった。真っ直ぐ迫ってくる松原に、桜井の方が気を利かせて、自分の顔を傾けた。  唇を離した松原は、改めて桜井を見詰めた。恋している男の、熱っぽい眼差しだった。  ぎこちなくはあったが、初めてにもかかわらず、臆さず自分から恋する人に口付けた男らしさと、『俺、ちゃんとキスできてましたか?』とでも言いたげな初々しい様子も含めて、松原の純粋な求愛は、桜井の胸を打った。  桜井は無言のまま、松原の首に手を回し、自分からキスをした。  松原は驚いたが、桜井からの口付けを受け止めた。それは、さっき自分が桜井にしたのとは、まるで違っていた。桜井の柔らかい唇で、繰り返し優しく自分の唇を食まれ、その甘い衝撃に、胸がぎゅうっと掴まれるような気がした。  初めて経験する本格的な口付けに、身体も心もフワフワしていたが、松原は、桜井の華奢な身体をそうっと抱き寄せた。柵を作って、恋しい人を守ってあげるかのように、その背中に腕を回した。 「松原って、下の名前、何て言うの?」  長いキスが終わった後、桜井は、濡れた松原の唇を自分の指で拭ってやりながら訊いた。 「……? 亮平(りょうへい)です」  その意図を掴みかねつつ答えた松原に、桜井は言った。 「僕、(たすく)だから。二人の時は、呼び捨てで良いよ。カレシなんだから」 「えっ!!」  松原は、目を剥いて固まった。 「イヤなら、別に、付き合うの、やめてもいいけど?」  桜井は、ツンと顎を上げ目を逸らした。 「イヤじゃないっす。嬉しいっす。桜井せんぱ……じゃなくて、佑さん。幸せにします」   食い気味に、松原が答えた。 「ふふ。なんかそれ、プロポーズみたい」  桜井が嬉しそうに微笑んだ。  ああ、その笑顔だ。あなたには、そういう風に、笑っていてほしいんだ。松原は、胸を熱くした。 「お付き合いするの、初めてなんで、色々、不慣れだとは思いますけど。佑さんに毎日笑っていてもらえるように、俺、頑張ります」  改めて意気込みを伝えると、桜井は、今度は、意味深で色っぽい笑みを浮かべた。 「ふうん。亮平って、チェリーなんだ? キスも、僕が初めてだって言ってたしね。じゃあ追々、色々教えてあげないとね」 「ウグッ」  松原の顔は、食べ頃を迎えたサクランボのように、赤くなった。 ***  二年生の夏の吹奏楽コンクールが終わった頃。自分の教室で、桜井は、中等部からのブラスバンド仲間と放課後の部活前の腹ごしらえをしていた。 「あのさ、佑。ちょっと小耳にはさんだんだけど。圭先輩が、今、草薙と付き合ってるらしいって噂があるんだけど……」  おずおず遠慮がちに聞いてきた彼に、桜井は事も無げに言った。 「あぁ。あの二人、くっ付いたんだ。  ……僕、圭とは二か月ぐらい前に別れてるから。僕も新しいカレシいるしね」 「そ、そうだったんだ!  ……どっちにしても、佑が、今、幸せなら良かったよ。新しいカレシって、どんな人? やっぱイケメン?(笑)」  心配しながら見守り、新しい恋を見つけたと聞いて安心してくれる友人に感謝しながら、桜井は優しい笑顔で答えた。 「僕だけを見ててくれて、僕を毎日笑顔にしてくれる人だよ」     ~ きみはチェリー      (「僕らの恋の練習曲(エチュード)」スピンオフ) 完 ~

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