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承の章【2】

 そりゃ、確かにこちらは名刺も渡してないし、コイツが命くらい大事らしい仕事で絡まない以上しょうがないのかもしれない──ただ。  そう割り切って言えるのは、寝てなければの話だった。  あの夜、この男を抱いた記憶は幻なんかじゃないはずだ。矢嶋の下で、身体の奥まで侵されながらノドを曝し、気迫のこもった目で指を噛んで声を殺し、爪先でシーツを掻き、時折艶すら混じる息を乱して喘いだ。  それでもなお、その程度か?  こっちは毎日のように昼メシ時の地下フロアに不景気面を探し、繰り返し名刺を眺めては記載の番号にかけてやろうかと思い続けてたってのに?  実際、何度か指がその数字を押しかけた。そのたびにやめて仕舞い込む名刺の収納場所は、いつしか名刺入れではなく手帳型スマホケースのカードポケットになっていた。  電車到着のアナウンスが、吹き上げる風に乗って微かに聞こえてくる。改札を抜け、工事中で狭くなってる階段を下りながら、矢嶋は先に行く男の旋毛を眺めた。 「なぁ、まっすぐ帰るのか?」  後ろからかけた声は、ホームに電車が滑り込んで来る轟音に掻き消された。階段を下りきった吉見がチラリと振り返り、何か言ったがやっぱり聞こえない。  列車風に煽られて落ちた髪を鬱陶しげに搔き上げる、その指の形に気を取られている間に、ホームドアと車輌のドアがスライドした。 「何て言ったんだ?」  車内に入ってから尋ねると、吉見が気怠い目で見返してきた。 「さっき、何か言っただろ?」 「あぁ……」  声とも息ともつかない相槌が漏れたところで発車メロディがけたたましく鳴り響き、続きを聞くことができたのは電車がホームを離れてからだった。 「その前に、あんたが何か言ったよな」 「え? あぁ、だから──まっすぐ帰るのかって訊いたんだけど、俺は」 「あ、そう……それが聞こえなかったから訊き返しただけだ」 「なんだ。で?」  問いかけには、眉間に皺を刻んだ怪訝なツラが返った。喋るのが面倒だからって、いちいち目線で訊き返しやがる。  矢嶋は仕方なく繰り返した。 「まっすぐ帰んの?」 「帰る」 「用事ないなら飲んでかねぇ?」 「行かねぇ」  答えの前に一瞬の躊躇があったように感じたのは気のせいだろうか。  目の前に立つ野郎の斜めに逸れた横顔を、矢嶋はしばし無言で眺めた。  ラッシュの時間帯を過ぎているせいか、車内はさほど混んではいない。どこからともなく聴こえてくる、リーマン同士らしき低い会話が数組。年寄りの咳払い。それ以外にはこれといって話し声もない中、電車の走行音に紛れるように吉見の重たい滑舌が零れた。 「あんた、もう飲んでんだろ」 「足りねぇんだよ、途中で抜けて来たから」 「抜けてきたって、用事があるからじゃねぇのか」 「いや、ちょっと……その、つまんない飲み会でさ」  胸の裡で手を合わせて、さっきまで一緒だった彼女に方便を謝罪した。  女と過ごす時間特有の甘ったるい退屈さはあっても、それは決して「つまらない」と同義じゃない。が、ここでそんな事実を明かす必要はないし、ましてや「あんたを見かけたから抜けて来た」なんて馬鹿正直に白状して引かれても困る。 「で、まぁとにかく半端だったから、あんたが付き合ってくれんならどっかで飲み直してぇなぁとか」 「ひとりで行けよ」 「どうせ清瀬に帰ったって、1人で膝抱えて悶々としてるだけなんだろ?」 「膝なんか抱えない」 「比喩じゃねぇか。なぁ? 金曜なんだから、明後日の夜まではどっぷりローテンションだよな? だったら、ちょっとでも気が紛れたほうがあんただっていいだろ?」 「──」  答えない不景気面が仕事から離れた気鬱のせいなのか、それとも迷いのためなのかは判断がつかない。 「聞こえてる?」 「聞こえてる」 「なぁおい、勤務時間外は頭の回転まで鈍るのか? 自分で決められねぇんだったら連れてくぞ」 「あんた、なんでそんなに……」  眉間に微かな皺を刻んで言いかけた吉見の顔が、ふと疑問の色を孕んだ。 「──清瀬って、なんで知ってんだ?」 「何言ってんだ、こないだ飲んだとき自分で言ったよな?」  数秒の沈黙のあとに、憶えてねぇ……という呟き。 「憶えてなくても言ったから。そんで清瀬行きのバスをググって、走れば間に合いそうだったのにさっさと諦めたよな?」  そんであんた、ホテルに泊まるって言い出したんじゃねぇか? ──喉までせり上がった問いかけを寸前で呑み込む。ここで余計なことを言って逃げられては元も子もない。  吉見は溜め息を吐いただけでそれきり口を閉ざした。もはや喋るのも億劫ってところだろうか。  何にせよ、この場で下手にゴリ押するのは得策じゃない。そう思ったから余計な言葉を重ねることはせず、同じ乗り換え駅で電車を降りるまで互いに無言の時間を過ごした。

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