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承の章【3】

 そんな慎ましい戦略が功を奏したのかどうかは知らないが、改札を抜けてコンコースに踏み出した吉見の腕を引いて再び飲みに誘うと、野郎は気乗りしない溜め息とともに足を止めた。  ひどく面倒くさげな表情ではあるものの、掴んだ腕を振り解くでもなく、電車の中でそうしたように「行かない」と一蹴するでもない。つまり少なくとも、拒んではいないという事実には違いなかった。  だから気が変わらないうちに半ば強引に駅から連れ出し、手近なチェーン居酒屋の半個室で生を2つオーダーしかけたら、吉見が意に介する風もなく声を被せてきた。 「黒霧島をロックで」  これから自殺しようってヤツが今生最後の酒を所望するかのような暗い声を、店員はどう思っただろうか。ひょっとしたら、悩めるリーマンと相談に乗る同僚──なんて構図にでも見えたかもしれない。 「じゃあ生とクロキリのロック、あと……」  訂正しながら正面の男にメニューを向ける。 「なぁ、なんか食いたいものは?」 「別にない」  予想通りの返事が返ってきたから、とりあえず早出しの品を適当に注文した。  女子大生のバイトらしき店員が去ると、吉見はこれ以上あり得ないほど重苦しい溜め息を吐いて緩慢な仕種で頬杖を突いた。 「興味本位で訊くけど、その溜め息は1週間の疲れを吐き出してるわけじゃないよな?」 「──」  仕事から引き離された哀れなワーカホリックは、手のひらに頬を預けたまま目だけを動かして寄越した。  が──その気怠い上目遣いとぶつかった瞬間、腹の底の何かが微かに、しかし確かに刺激されるのを矢嶋は感じた。  眼差しの鈍重さと鋭利な切れ長、相反する要素が醸し出す独特の風情。双眸の間から真っ直ぐ伸びる鼻筋の下に端然と佇む形の良い唇。几帳面に成形されたパーツ全てがシャープな輪郭に内包され、極めてバランス良く配置された造作。  こんなにまともに顔を眺めるのは案外初めてかもしれないな、と、ふと思った。  前回、焼き鳥屋のカウンターではほぼ横顔だったし、ホテルではあらゆるアングルから見たはずなのに不思議と記憶が薄い。  蘇ってくるのはひたすら、苦痛と快感に歪んだ艶めかしい表情。反らした首筋と喉仏の陰影。濡れた睫毛の隙間に覗く、昼メシ時の姿からは想像もつかない瞳の熱っぽさ。  殺しきれない喘ぎに解けた唇は、取り澄ましたアウトラインの内側に隠した淫靡な粘膜で、まるで性行為そのものみたいなキスを── 「何見てんだ?」  無意識にガン見してたらしい。  ハッと我に返ると、つい今しがた矢嶋の脳内で乱れていた当人が眉間の辺りに不審を掃いて胡散臭げに矢嶋を見ていた。 「いや……」  ベッドの中のあんたを思い出してた──なんて言えるわけない。  ごまかすように言葉を濁して灰皿を引き寄せたとき、 「お待たせしましたぁ!」  威勢のいい声とともに、ジョッキやグラスをぎっしり載せたトレイを掲げてタイミングよく店員が登場した。  こちらも学生バイトと思しき兄さんは、暗褐色のテーブルの上で手早く注文の品をサーヴすると、泳ぐように他の卓へと移動していった。  矢嶋はジョッキを取り上げ、黒霧島のグラスに軽く尻を当てた。 「1週間お疲れ、やっと週末だな」  にこやかに投げた声に、テーブルの対岸でヤサグレていた男がグラスに指先を絡めながら恨みがましく目を眇めた。 「嫌味か……?」 「いや、別に?」  ドリンクと一緒にやってきた漬物の盛り合わせに箸を伸ばし、鮮やかな黄色の沢庵をつまんで口に放った。  思ったよりも歯ごたえのある食感を噛み砕きながら、矢嶋は隣の椅子の背に引っ掛けてあった上着のポケットから煙草のパッケージを取り出した。  1本抜いて咥え、箱を対岸に向ける。 「吸う?」  尋ねると、吉見は飛び出したフィルタを無言で引き抜いた。 「あんたは相変わらず電子吸ってんの? 普段」 「電子じゃねぇ、加熱式だ」 「紙で巻いてない煙草なんかどれも同じだよな」 「──」  差し出した炎が焦がす穂先を伏し目がちに見つめる、重たい目元。そこに前触れもなく滲んだ色っぽさに気を取られて、矢嶋は危うくライターを引っ込めるのを忘れかけた。  週明けまで大好きな仕事と引き離されちまう金曜の夜の無気力感は、昼メシ時に見ていた不景気な面構えと何ら変わらない。なのに別の顔を知ったせいなのか。鈍い気怠さが与える印象は、ひと月前までとは明らかに違っていた。  矢嶋は立て続けに煙を吐いてから、意識して唇の端に笑みを作った。 「こんなところ、会社のヤツに見られたら何か言われるんだろうな」 「何かって?」 「だから、そりゃ……やっぱ一応、警戒するだろ?」  別にライバル会社同士だからと言って、社員たちが見境なく反目し合ってるわけじゃない。  それでも、連れ立って居酒屋にしけ込むような付き合いをしてるヤツらは少ないと思う。同じビルに居を構える同業種ではあっても──否、だからこそ──エントランスは全く別の場所にあるし、個人的に知り合う機会はそうそうない。  あるとすれば昼メシ時くらいか。矢嶋がこの男を知ったように?

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