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第9話
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魔法だ。
身体が軽くなる。多量の発汗とともに、熱が引いていく。――足は、重い。
ぼやけた視界の中、父の姿が映り、息を飲んだ。悲鳴が上がりそうになるも、掌で口を押さえつけられる。
父は、焦っているように見えた。脂汗が、玉のように浮かんでいる。
「来い」
引きずられるように立たされるも、右足首に力が入らず崩れ落ちる。父は舌打ちをし、鈴音を小脇に抱えた。
部屋から出、階段を上りきる。
鈴音にとって久しぶりの外だったが、それを味わう間もなかった。投げるように侍女に渡されると丸洗いにされ、身なりを整えられた。滑らかな生地の白いシャツにゆったりとした黒のズボン。あちこちに細かな刺繍や透かし編みがあしらわれている。更に柔らかい皮の靴をはかされた。
長さのバラバラだった髪も整えられた。これまでになかったくらいに、視界が明るい。
鈴音はされるがままだった。
次いで、また父の元へ引き渡された。ぐっと両肩を押さえつけられる。
父は鈴音を見据えた。
「いいか、お前は今から俺の息子だ。誰になんと言われようとそう答えろ」
これから何が始まるというのか。呆然とするばかりの鈴音を余所に事態は進む。
父は鈴音の右側に立ち、身体を支えた。ゆっくりと歩き始める。引きつっていた口元はなんとか笑みをつくり始めた。
赤い絨毯の先、応接間の扉が開けられる。
そこには、愛奈と愛奈の母、そして見知らぬ男が立っていた。
城内では見たことのない格好をしている。
軽そうな金属の板が、胸を覆っている。その片隅には、翼のある竜が掘られていた。腰には重そうな剣を携えている。
髪は黒く、瞳は薄い茶色をしていた。
20台程度の年齢だろうか、まだ若い。
男は、父の姿に深く腰を折った。父は、頷き、唾を大きく飲み込む。
「お、お待たせしました」
父の声はうわずっていた。
「そちらの方が、リゴール王のご子息、鈴音様ですか」
対して男は涼やかだった。何の感情も表面には浮かばない。ただ淡々と進めていく。「このようなことになって、こちら側としても残念です」、言いながらも、そう残念そうには見えない。
「では、こちらに署名をお願いします」
台の上、スッと1枚の紙が差し出される。父が鈴音から離れたため、鈴音はよろめきながら、後ろの壁に手をついた。
紙の内容までは見えない。
ドクドクと動悸が早まる。拳を握りしめた。
父は、手にしたペンで、紙の一番下に名前を記した。それを受け取り、男は書かれていた文言を読み始める。
「ひとつ、国民からの税金はワルコニアに倣うこと。ひとつ、これから1年間、ワルコニアからの政治介入、及び指導を受け入れること。ひとつ、それまでの期間、リゴール王子息をワルコニアで預かることとする」
「よろしいですね」と尋ねられ、父は何度も頷いた。
鈴音の方を手招く。動けないでいると、一瞬、舌打ちをするようなそぶりを見せたが、すぐににこやかに笑んだ。
近づき鈴音の右脇を支え、共に歩く。
「生まれつき、足が悪くてこの通りです。面倒かけるかと思いますが、どうぞお願いします」
「はい、確かにお預かりします」
父の手が離れる。ふらつく鈴音の身体を今度は男が支えた。
「ああ、鈴音」
「私たちがふがいないばかりに」
父と、母が口々に鈴音を哀れむ言葉を口にする。
その顔は今にも泣き出しそうにも笑い出しそうにも見えた。
「行きましょうか」
男に脇を支えられながら歩く。後ろからは、なおも嘆きの言葉が聞こえてくる。
いつも自分を乱暴に組み敷く手が、力強く自分を支えてくれた。
『息子だ』と言ってくれた。
「ああ、鈴音、行かないで」
それが、例え嘘だとしても。
扉が閉まると同時に、音が消える。
「大丈夫ですか」
そう問われ、あの竜のことを思い出した。
涙が溢れ、零れる。
何も答えない鈴音に、男は無言で、歩き始めた。
***
竜は牢の中にいた。
鈴音の姿はそこになかった。
狭い室内だ。隠れる場所などないというのに、竜は首を振り、隅々まで見回す。
残っていたのは、工具や、吐瀉物の跡であるとか血の跡であるとかだけで、肝心の姿がない。
それと、もう一つ。
「卵石」
竜の渡した卵石が散らばっていた。
竜はそれを覗き込む。
自分が拾ってきた時とは様子が違っていた。
石の表面に繊細な模様が刻まれている。
竜とその周りに花が描かれていた。
所々、歪な線があるも、それは、美しかった。
竜は歯を食いしばった。
後悔をしても仕方がないとわかっている。自分にできることはなかったんだと言える。けれど、本当に? と問いただす自分もいた。
死んだのか、生きているのか、どこへ連れて行かれたのか。
「鈴音」
呼んだ名はむなしく冷たい石畳に飲まれていった。
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