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第一章 第24話
「つかぬことをお伺い致しますが…退官後はどちらの大学に?」
国公立の教授が退官すると私立医科大にそのまま勤務するのが大半だった。佐々木教授もてっきりそうだと思って聞いてみたのだが。
「いや、私はどの大学にも行かない積りでいる。少し面白いお話が来たものでね」
「そうですか。では病院長か何か?」
目尻の皺を深くして佐々木教授が言った。
「今の段階では何も言えないことを許してくれ。私自身もどうなるか分からない話なのだ」
――これ以上深入りするのは迷惑だ――
そう思って話を転じようとしたら一枚の名刺が渡された。
「これは私用の名刺だ。自宅の住所や携帯番号が書いてある。困ったらいつでも連絡をくれ給え」
何かと恨みを買いやすい医師の自宅の住所電話番号や携帯番号は大学が責任を持って保管している。個人情報保護法が施行されてからは尚更に。佐々木先生の厚意が身に沁みた。
「もう少し、君を指導したかったよ。だが、香川先生の方が学ぶことは多いだろう。君自身のために彼の技術を盗みなさい。香川先生は天才だが、君は秀才肌だ。努力すれば神の手に近付くに違いないと私は思っている。君を指導出来て誇りに思う」
普段の佐々木教授よりも低く力強い声だった。
適当な言葉が見つからず、深深と頭を下げて、教授室を後にした。
医局のデスクに戻り、名刺を持ったままだったことに気付く。研修医程度でも製薬会社などの営業用の名刺は溜まるので、名刺ボックスが机の中に有る。しかしその中に入れることに抵抗を覚え大切なスケジュール帖のカード入れに保管することにした。
ひっそりと佐々木教授が退官した後、香川先生を迎えるために華々しいと言ってもいいほどの準備が行われた。医学部長の齋藤先生が音頭を取り、帰国から歓迎パーティから関係省庁への挨拶回り、医師会への顔見せと帰国に合わせて時間刻みのスケジュールだった。
もちろん医局も巻き込まれた。医局長の畑中先生や講師の木村先生は、大学が春休みなのを、もっけの幸いと準備に追われていた。
そのあおりを食ったのが研修医だった。大学の講義がなくても入院患者は居り、医師の診察を待っている。
助手の山本センセは寒くもない季節なのに、皮下脂肪が祟ったのか汗をかきながら走り回り、他の研修医も山本センセと共に走り回ることになった。もちろん祐樹も例外ではない。
山本センセの手に余る手術は黒木准教授が執刀した。相変わらず派手さはないが堅実な手術だった。
ある日、黒木准教授に呼ばれ、執務室に行った。柔和な笑みを浮かべた准教授は「頼みがあるのだが」
と切り出した。
「明日、香川先生がアメリカから帰国される。山本君が出迎えに立候補していたのだが、あいにく、緊張の余りか血圧が高くなってしまってねぇ。…彼は医者の不養生だから…
大事を取って他の人間に任せることにした。君でどうだろうか」
「つまり関西空港までお出迎えというわけですか」
・・・箱入り娘でもあるまいし…と内心は思っていた。
「しかし、先生のお顔は画像以外では存じません」
「その点は大丈夫だ。私も同行する。山本君も責任を感じて、車は好きに使ってくれとのことだ」
山本センセの車はベンツ600だ。出迎えが二人、香川先生とそのお気に入りの内科医。充分乗れる。
了承したが、その面子では自分が運転手だ。そのことが心にトゲが刺さったようだった。
定刻通り香川先生の搭乗した飛行機は着陸し、出入り口のところで合流する前に豪華な二人連れを見つけた。美男美女のカップルだった。
祐樹は性癖上、男性の方に目を吸い取られたが、出迎えに来た関係者以外も知的な美女に視線を注いでいる。
黒木先生が合図をすると、こちらに二人連れがやって来た。旅慣れた様子で大きな荷物はない。
香川先生は、医師と紹介されなければそうは見えない。ましてや外科医にも見えないだろう。外科医は特に体力を消耗するので、中肉中背――祐樹はそう表現するには少し細いし背も高いが――かそれ以上が常識なのだが、香川先生は祐樹よりも背は低い。
特筆すべきは顔立ちで、気の強い外科医というより、小児科が似合っているのではないかと思わせる優しげな顔立ちだった。
小児科の医院を開業すれば、子供の病気が大したことはなくても、母親がフルメイクで通うだろうな…とぼんやり考えていた。それも僅かな間だった。
その顔と姿に釘付けになる。
自分の好みのタイプそのものだったからだ。空港内の喧騒も隣の美女も祐樹の頭の中ではシャットダウンされていた。
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