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第一章 第23話
定時に出勤し朝の回診に備えていると、電話を取った医局のナースが大声で言った。
「山本先生は体調不良のためお休みだそうです」
「冬だから風邪で熱発か…」
「新型インフルエンザだったら厄介だぞ」
などの私語が飛ぶ。
――新型インフルエンザ…特に鳥インフルエンザは一番危険視されている――
「山本先生の熱は?」
代表して医局長の畠中先生がナースに聞いた。
ナースは受話器を恭しく畠中先生に持って来た。何やら話していたが、祐樹は「きっと昨日の二日酔いだろう」と笑いを必死で噛み殺しながら普通の顔に心配そうなスパイスを効かせていた。
「そうか。医者の不養生と言われないようにお大事に」
電話を切った畠中は医局全てに聞こえるように大声で言った。
「熱発は熱発だが、8度3分だそうだ。インフルエンザでも、ましてや鳥インフルエンザでもないらしい」
医局内に安堵の溜め息が漏れる。
鳥インフルエンザ発生が時間の問題とされている今、大学病院から患者一号を出してはまずいのだ。
鳥インフルエンザは本来、鳥だけが罹るインフルエンザだが、ウイルスは世代交代が日にち単位だ。その中で特別変異を起こしたウイルスが人間にも罹患するような型に変化する。インフルエンザすら治療法が確立されていない現状の中で鳥インフルエンザが人間界に蔓延 すると厄介なことになる。厚生労働省も危機感を強めている。
その最中に大学病院の医師が鳥インフルエンザの罹患第一号となってしまうと厚生労働省や文部科学省の覚えは悪くなる。
今頃、二日酔いの症状の頭痛と吐き気に苦しんでいると思われる山本センセには悪いが、昨日散々呑みに連れまわされ、愚痴を延々聞かされた祐樹は内心では可笑しかった。
午前診が終ると、佐々木教授に呼ばれていた。教授室に入ると、ダンボールなどが積み重なって、ちょっとした引越しのようだった。
「済まないな、こんな殺風景な所に呼び出して。本来なら別の場所を設けるべきだったのだが…」
温厚そうな顔に一抹の寂しさを滲ませた教授は言う。
「いえ、私の私室の方がもっと雑然としていますからお気になさらずに」
自分の部屋は男性1人暮らしの部屋としては平均点程度だと自負している。
「退官の準備を早く進めなくてはならないと思ってね。君には将来を嘱望していたし、もっと教えたいことが有ったのだが残念だ。ま、ソファーに掛けたまえ」
「はい」
「後任の香川先生は君とそんなに年齢が変わらない。そのことで色々思うことがあると察せられる。
だが、彼の手術の腕前は文句なしに世界で一番だ。その術式を覚えておくのは君にとって大きな財産だと思う。短気を起こさずこの病院で勤めてくれたまえ」
親身な口調と誠実な表情に――ああ、この方は嘘は仰ってない――と自然に思えた。
「承りました。ところで、香川先生が是非ともと推薦された内科医は男性ですか、女性ですか」
「女性だが?」
何故そんなことを聞くのか分からないといった表情で返事があった。
――愛人、もしくは情人の可能性がなきにしも有らずだな――
そう思った。自分はどちらかと言えばゲイだが、社会的マイノリティであることは承知している。「無理をしても連れ帰したい」との希望は実はそれが本音かもしれないと思う。
「失礼を承知でお伺いしますが、黒木准教授の進退は?」
教授室に呼ばれることは祐樹の立場では滅多にない。この際なので聞きたいことは全部聞いておきたかった。答えがなくてモトモトの気持ちだった。
「黒木君か、彼はこの医局の生き字引だ。退官も仄めかされたが引き止めておいたよ。香川先生も『辞める必要はない。同じポストに居て貰う』と仰ってくれたことだし」
佐々木教授は香川先生と連絡を取り合っているのだな…と思った。
何より、黒木准教授が同じポストで残ってくるというのは僥倖 だった。
「まあ、香川先生は天才肌の人間だから回りがしっかりしてくれないと困る。その基礎固めをして目出度く退官するよ」
目尻の皺を温和に弛めながら語る佐々木教授に頭を下げるしか感謝の意を表明出来ない自分がもどかしい。
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