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第二章 第4話
その場に居た全員が一斉に起立して新教授を迎える。立ったまま拍手をする者、深深とお辞儀をする者など様々に新教授に挨拶を送っている。
祐樹はあえて、立ったまま何もせず、香川新教授を観察していた。
香川先生は室内に居る人間を1人1人確かめるように視線を動かしていた。
当然、祐樹にも視線が注がれる。真っ直ぐに見詰める祐樹と視線が合った瞬間、即座に視線は外された。印象的な黒い瞳だったが、他の人間にはもっと長い間視線は留まっていたように思えたのに・・・。
「昨日付けでこの医局を率いることになった香川教授を紹介する」
黒木准教授がそう発言した。
「香川教授ご挨拶をお願い致します」
黒木がそう言うと、拍手が起こった。内心はともかく皆、盛大な拍手をしている。一番拍手が大きいのは山本センセだった。自己アピールをしているらしい。昨日、空港に迎えに行けなかった罪滅ぼしも狙っているのだろうか。もうすっかり体調不良は治ったようだった。
力を込めずに祐樹も拍手に加わる。これも浮世の義理というものだ。
香川教授が手を動かして拍手を制した。アメリカに居ただけのことはある。ボディランゲージは得意のようだった。
「これから医局を率いることになった香川聡だ。宜しく。隣は腹心の長岡美樹子だ。昨日付けでこの医局の助手に任官された」
その言葉に医局がざわめく。助手は通常1人だ。今までは山本先生が務めていたが、どうなるのかといった雰囲気に包まれる。
山本センセに含むところの有る祐樹はそっと彼の顔を観察した。厚い頬の肉が引き攣っている。
「山本先生には、表向きは助手補佐という肩書きが与えられる。が、実質上は今まで通りの権限と職務をお願いするということになった」
黒木准教授が取り成すように言ったが、山本センセは無理に冷静を装っていることが分かる。
――香川教授はともかく、黒木先生も山本センセを分かっていないな・・・。彼は肩書きと実質だと肩書きを重視するタイプだ。助手の補佐となれば実質はどうであれ、降格と受け止めるだろう・・・恐らく今、センセは必死に立腹を顔に出さないように努力しているハズ・・・黒木先生はそういう彼の性格をご存知ないのだろうか。
いや、黒木准教授はどちらかと言えば出世欲のない温和なタイプの人間だ。なので想像出来ないのかも知れない――
自分とは全く関係のないことなので気楽に考えていたが、次の香川教授の言葉で思わず真顔になった。
「心臓バイバス術の年間手術件数を見せてもらった。酷い数字だな。年間一桁だ。私が来たからには、年間50件以上を目指す。将来的には100件だ」
通常、心臓バイバス術は10時間を要する。人間の集中力がそこまで持続出来ないのは自明のことだ。
当惑した雰囲気が部屋に漂うが、誰も新教授に反抗出来ない。昨日、齋藤医学部長のお墨付きを貰ったことはここに居る全員が知っている。祐樹は所詮研修医だ。香川先生の機嫌を損ねても、最悪どこかの僻地の大学病院に飛ばされるだけだろう。
挙手して発言の許可を貰った。香川教授が短く頷くのを見て発言する。
「現状ではこの手術の数が精一杯です。このようなことを申し上げるのは釈迦に説法のようで心苦しいのですが、手が足りないのです。執刀医も香川教授と黒木准教授しかおられませんし。それに、香川教授は学生や我々を導くという仕事も有ります。その数字は現実的ではありません」
部屋の雰囲気が微妙に変化したのを肌で感じていた。皆賛成してくれているようだった。
香川教授は切れ長の目を細めて感情を抑制したような低い、しかし耳に心地よい声を出した。
「人員不足は把握している。だから50件を当面の目標にした。学生や君達の指導は黒木准教授に殆どお任せしても良いと齋藤先生が仰っている。執刀は私が責任を持って行う。人員が揃い次第、100件を目標にする。脳死の方からの心臓移植はドナー不足で現実的ではない。再生医療も発展途上の医療だ。その間に強度の狭心症の人間が死亡していく。それを助けるのが医師の務めだ」
――理想論としてはその通りだが、これ以上手術を増やすと現場が迷惑するし、何よりも医療ミスが恐い――
「先生の仰ることは確かにその通りです。しかし、これ以上手術数を増やすとスタッフの負担が増し、医療ミスにつながりかねません」
祐樹が真剣な眼差しで香川先生を見詰めて主張すると、彼は目に力を込めて言い放った。黒曜石のような瞳には目力が強い、思わず惹きこまれて行きそうなほどに。
「それは怠惰な意見だな。医師の務めは患者を治療することだ。私は向こうで、この医局の人数よりも少ないスタッフにも関わらず年間120件の心臓バイパス手術を行ってきた。医療ミスもゼロだ。現状を変える努力もしない愚か者の言い訳めいた発言だな。医師として向上心を持ちたまえ」
何様のつもりだと、怒りがフツフツとこみ上げてくる。実績は恐らく真実だろうが、皆が皆、香川教授のような才能を持っているわけではない。
最高に気に入らなかった。
「ちなみに、今日から手術を行う。担当するスタッフは後で名前を呼ぶ。そのつもりでいてくれたまえ」
耳に心地よい声だが、発言は傲慢だ。
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