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第三章 第1話

 K大病院長や副病院長の部屋は(入ったことはないが)当然知っている。教授室は5階、病院長の部屋は6階だ。階が上、イコール権力も上であることはどんなに鈍い人間でも分かるだろう。 「心臓外科、田中祐樹です。お邪魔しても宜しいですか」  控えめなノックの後で名前を名乗る。 「田中君か、待っていたよ。入りたまえ」  山科副病院長の穏やかな声が聞こえる。外見は温和そうだが、齋藤医学部長とポスト争いをした過去を知っている(これは病院の医師全員が知っていることではあるが)祐樹には外見には誤魔化されないくらいの思慮はある。 「失礼します」  深深と頭を下げて部屋に入った。 「まどろっこしいのは苦手でね。単刀直入に言う。今日、香川教授が手術の第一助手に君をと推薦してきた。何やら手術チームが完全に機能していないらしい」  「まどろっこしいのは苦手」という人間に限って深謀遠慮があるのがこの世界だ。そうそう額面通りには受け取ることは出来ない。 「私は一介の研修医です。香川教授の第一助手は荷が重すぎるかと…」  正直に告白した。 「香川教授は、…ここだけの話だが…天才肌の人間で、そのメス捌きで病院は儲かるのは助かっているのだが、色々と辺り軋轢が多い。  が、この心臓内科の看板だ。齋藤医学部長も高く買っているし、私も病院経営上、彼の言うことには逆らい切れない。が、医局の中では香川教授の実力至上主義に反感を持つ人間が居ることも事実だ。  そこで君に興味を持って、色々調べさせてもらった。実力や勤務状態などを、な。  勤務時間を見て目を疑ったよ。本来の業務の上に緊急外来で勤務していることも分かった。  明らかに働きすぎだ。特に香川教授の助手を務める予定があるのなら、こんな滅茶苦茶な勤務時間では、香川先生の手術に差し障りがある。  緊急外来での評判も聞かせて貰った。阿部師長は、君のメス捌きを高く買っている。彼女はあの外来での生き字引だ。その彼女が絶賛するのは、香川教授以来だと記憶している。  だから君が香川先生の第一助手を務めることは、何の不安もない。  しかし、今の勤務時間の長さから推測すると疲労が香川先生の足を引っ張ってはならないと判断した。  第一助手を務めるまで緊急外来の夜勤は外す。速やかに帰って体調をベストにするように」 「分かりました。お言葉に甘えさせて頂きます」  そう言って病院長室を丁寧に辞去した。  心臓外科の医局には緊急外来の忙しさにかまけて情報収集を怠っていたが、古株の山本センセなどとは、香川教授は上手くいってないらしい。すると、医局内がゴタゴタしているな…と思う。  イキナリ時間が空いたが、連日の緊張を強いられる緊急外来での仕事がなくなったので、精神的ゆとりが出来た。このまま帰宅して寝るという選択肢もあったが、この精神的疲労をどうにかしたかった。 ――「グレイス」に寄ってみるか――  そう思った。考えてみれば随分ご無沙汰だ。  馬鹿話をしてストレス解消をしようと思った。 「グレイス」に入ると、知り合いの弁護士杉田がカウンターで静かに呑んでいた。 「お久しぶりです」  声をかけると、杉田は眉間にシワを寄せ、そっと視線を奥に滑らせる。 「あれは、君の上司だろう。最近毎日のように来ているそうだ」  意外なことを聞き、奥の盛り上がっているボックス席を見て驚きの余り目を瞠った。  確かに香川教授だった。周りには明らかに彼を狙っているのが分かる男性数人。  それを見た瞬間、頭の中のスイッチが入った。  アキさんに口説かれている時だったが、この店に初めて来た時、驚いたように見詰めていた男性の顔が、香川教授だったことに遅らばせながら気付いた。  足が勝手に動く。そして香川教授の腕を掴んで強引に店を出た。  香川教授はかなり酔っているらしく、しばらく祐樹の顔を見詰めていたが、自分の腕を掴んでいるのが祐樹だと認識した途端、いつものポーカーフェイスに戻った。  が、腕は振り払わない。 「この店にどんな人種が集まるか、ご存知ですよね?」 「……ああ」 「結婚前の男性が来ていい店じゃないんです。それは分かっていますか?」  しばらくの沈黙。 「黙っていてくれ。その代わり、お前の好きにしていいから」  そう言って、祐樹の肩口に顔を埋めた。

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