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第三章 第19話 教授視点

「術前カンファレンスは16時から三十分の予定で行われる。場所は手術室の隣の控え室だ。ただ、その前にゴールドスミス博士に挨拶に行った方がいいな」  ケンがアドバイスしてくれる。 「何時頃でしたら博士はお時間があるのでしょうか?」  LAの医師免許を持ってない人間にイキナリ第一助手を振ってしまうのは後々問題にならないかとの危惧を抱く。術野の管理が仕事なのでメスを握る機会はないとは思うが。 「そういえば、職員食堂で博士が遅めのランチを摂っているのを見かけた。その席で挨拶するのが一番合理的だと思うが…皆患者の都合に合わせて動いているので声をかけるチャンスはそう多くはない」 「そうします。色々と有り難うございました」  個室で休ませてくれたり、昨夜のことを親身になってくれたりしたケンに日本式のお辞儀をした。  ケンは自分がゲイであることも知っている。アメリカ人はセクシャリティについて両極端に分かれると何かの本で読んだことがある。ゲイであっても全く気にせず大らかに受け入れるタイプと、徹底的に嫌うタイプだ。  ケンは前者に見えるが心の奥底ではどう思っているかは分からない。  しかも昨夜、男性と性交渉をしてしまった事実も打ち明けてしまっている。アメリカ式に握手をしたりハグをしたりすると嫌がられるのではないかとの小さな疑念からだった。  と言っても頭を深深と一回下げただけだったが。ハリウッド映画などでデフォルメされた日本人は握手をし、しかも頭をペコペコ下げている。ハリウッド映画でなくても日本の与党の大物政治家がアメリカの大統領クラスにはそうやって接する場面をニュースなどで見たことがある。ああいう卑屈とも取れる態度は流石に自分の美意識が許さなかった。例え相手が尊敬に値する先輩医師であっても。  お辞儀に驚いたように目を見開いたケンは口元を弛めて微笑した。日系人だからなのか、その屈託のない笑顔は田中祐樹に少し似ていた。胸がかすかにざわめく。  昨夜、初めて男性とキスをし、その後の行為にまでなだれこんでしまったせいか、田中祐樹のことが否応なく、思い出されてしまうからなのだろう。――柄にもなく感傷的になっているな――と自嘲の笑みがこみ上げてくる。テルが田中祐樹と似ていた部分が有ったので尚更だった。  博士が使っているレストランを教えて貰い――ケンも忙しそうだった――1人で向かった。そう言えば昼食を食べていないどころか朝食もコーヒーだけだったことを思い出す。     聡はいわゆるグルメではないが、この仕事は体力勝負の一面がある。手術室で空腹の余り倒れたらそれこそ笑いものになるだろう。相手は直属のボスだ。   お相伴は出来ないにしても、その後ランチを食べようと思った。  職員食堂は病棟から歩いてすぐのところに有った。緊急呼び出しに応えるためなのだろうな…と推測する。が、病棟から食堂までの道は芝生が瑞々しい状態で植えられており、聡には花の名前など分からないが、綺麗な花も食堂内から眺められるようになっていた。医師やスタッフの疲れた目を和ませるのが目的かもしれない。  室内を見渡すとゴールドスミス博士は豪快に特大のサーロインステーキを頬張っていた。  近付き、立ったまま御礼を述べる。 「サトシか…まあ、座って一緒に食事をしよう」  フレンドリーな笑顔でそう勧められた。  確かに食べながら話すのは時間の短縮になりそうだ。勧められるままに腰を下ろす。腰を下ろす時に僅かな痛みと違和感、そして快楽の残り火――あくまでも小さいモノだったが――を感じた。  ウエイトレスがオーダーを取りに来た。メニューを眺めている横で、そんな自分の様子を気にも留めていない豪快さで「同じものを」とオーダーした。 「いえ、私はそんなには食べられませんから」  本気で言うと博士は大声で笑い、 「遠慮するのは日本人の悪い癖だぞ。第一助手就任祝いの私の奢りだ」  いえ、別に遠慮しているわけでは…と反論しかけたが、博士に敬意を表してかあっという間に料理がテーブルに並べられた。 「第一助手にして下さって有り難うございます。私には荷が重いようにも感じられますが、精一杯努めさせて頂きます」  料理に取り掛かる前に御礼を言った。博士は肩をすくめた。 「日本人は謙虚だと聞いているがそれも本当のようだな。ササキ教授の推薦状に手技は素晴らしいと書いてあった。なので一番患者に取ってダメージが少ない縫合術で手技を見させてもらったよ。推薦状に偽りがあったら、即刻退去を言い渡しただろう。だが君の手技は想像以上だった。いずれは私をも上回るだろう。そのための第一助手指名だ」  意外過ぎて言葉が出て来ない。喉が渇いているのは昨日の二日酔いの後遺症ではない。 「失礼します」  そう断ってミネラルウオーターが設置されているエリアに行き、水を運んでくる。博士の分も。 「私のチームでは私が法律だ。スタッフから苦情が出ようとも私が全てを決める。そのための努力は惜しんでない。サトシもいずれそういった外科医に成れると踏んでの抜擢だ。私の手技を学びたまえ。それとLAの医師免許は可及的速やかに取得すること」  博士の実績は日本に居た時から専門誌で見ていた。そんな雲の上の人から意外なことを聞かされ絶句してしまった。 「カンファレンスは医師だけでなく、コ・メディカルの人間も全員集める。が、私の術式などは文書にして関係者に配布してある。きっちり30分で終らせる。もちろん、術式に不備があれば検討する」  医師だけでなく看護士や臨床技師などにも手術の周知徹底を図る。この方式なら、日本で問題になっている医療ミスは起こりにくいだろうな…と感嘆した。患者の状態の良い時を見計らって手術するというのも驚きだったが。  この病院はとことん患者本位の医療がなされていると思い知らされた。  日本の旧態依然とした大学病院とは明らかに違うことに改めて瞠目した。

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