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第三章 第21話 教授視点
手術着に着替えた。これは日本と同じ青い色の薄い服だ。胸元に風が吹き込んで、ここLAでは気持ちが良いと感じた服だった。最後まで自問自答を繰り返す。
――本当に、指摘すべきか――
日本の大学病院でなら絶対に出来ないことだろう。教授の方針に一言でも逆らったら、医局には居づらくなり、懐の狭い教授なら左遷人事を考えるだろうから。幸い博士はそういう陰湿な性格の持ち主ではなさそうだし、自分を抜擢してくれた恩人でもある。
――やはり、指摘すべきだ。間違っててもいい。患者の命を救うのが最優先だ――
カンファレンスルームに入って行く。ボスへの進言を決意したためか、手術への緊張からか、身体中全ての痛みは感じなくなっていた。
先に集まっていたスタッフに会釈して敢えて末席に座る。開始時間ジャストに博士が入室する。部屋の雰囲気が張り詰めた。
「今回のケースは皆も承知の通り、47歳男性、大企業のCEOだ。冠動脈二箇所に狭窄がありそこに胃動脈と太腿の動脈二本を使いバイバスとする。病歴や検査結果、そして術式は書面の通り。何か問題があるスタッフは手を挙げて」
一度目を瞑りいつかこっそり見た田中祐樹の真剣な解剖の様子を思い出す。その思い出に後押しされたようで、挙手する。
「胃動脈よりも鎖骨裏の動脈からの血管採取の方が良くは有りませんか?」
呆気に取られたように博士が小さな声で言った。
「その根拠は?」
「患者は二度にわたる胃潰瘍の入院歴があります。しかも出血性胃潰瘍でした。胃の血管を使用するよりも鎖骨裏の方がベストかと。しかも胃潰瘍の主な原因はストレスです。手術にもストレスを感じ潰瘍が出来ている可能性も捨てがたい」
「しかし、完治はしているのだろう?ケン、患者の術前CTで潰瘍の有無は?」
「有りませんでした」
ケンが「止せ」と言うような視線で聡を見た。
「ならば、予定通り胃から血管を取る」
決然とした博士に何も言い返せなかった。
「他に質疑は」
誰も発言しなかった。
「皆に文書で伝えた通り、今回は第一助手をサトシに任せる。彼はこの州の医師免許を持っていないが…優れた縫合術の持ち主だ。そして、場数を踏めば私の後継者になれる才能を持った人間だと思う。皆もそう心得て置くように」
先ほど反対意見を唱えたばかりだというのに、まるで意に介さない博士の紹介に器の大きさを感じた。スタッフの皆は拍手で聡を迎えてくれた。
「では、カンファレンス終了」
手術室に隣接しているカンファレンスルームだったので皆が手術着姿だった。手術用マスクと手袋を装着した。滅菌ガスの噴射を受けて手術室に入った。
患者が運ばれて来た。ケンが近寄り話しかける。
「気分はどうですか?リラックス出来ていますか?」
「ステーブン先生…ゴールドスミス博士に執刀してもらえるのですから、安心はしています。ただやはり手術は慣れません」
経営者として職場では自信に満ち溢れているかのような感じの患者だった。が、手術の場では違うようだった。ケンに向ける眼差しが縋るようだった。
麻酔医が近付いて麻酔をかける。
ケンが言う。
「私が言う数を復唱して下さい」
こういう仕事は日本では内科医がすることはない。やはり普段接している医者の方が患者も心強いのだろう。
「麻酔入りました」
そこへ博士が入って来る。
「準備はOKか?」
「OKです。博士」
ケンはそう告げると後方へ下がった。昨日聡が立っていた辺りに。
博士のメスやクーパーが、まるでそれ自体が意思を持っているように優雅にそして的確に動いていく。博士の指はどちらかと言うと太い方だがその時ばかりは繊細に動く。
心臓を取り出す様子などは、芸術的なまでに美しく無駄がない。大学で手術を見学した時、手術は他の血管も傷付けるので出血が伴ったが博士の手技にはそれもない。
術野に入らないように気をつけながら自分は博士の動きを一挙一動足見詰めていた。自分も熟練すればこのような動きが出来るのだろうか?と憧憬の眼差しで博士の動きを自分の脳と身体に刻み付けていた。絶対に忘れないように。
「人工心肺装着」
その一言で担当の医師が動き出す。
「無事装着。異常ありません」
「では大腿部から」
メスが輝き、目的の血管を取り出す。血管は円形に切り取られていた。黙って絶妙なメス捌きを見詰めていた聡はフト我に返る。
――円形に切り取るよりも、斜めに切り取る方が縫合面積に著しい差が出るのに――
そう思って見ていた。日本では良く行われている。
大腿部の血管は狭窄部分をまたいで無事取り付けられた。次は聡が危惧していた胃の血管だ。
胃の裏側からメスとクーパーが入る。その時、機材係の看護師から切迫した声と共に、手術室にアラームが鳴った。
「バイタルサインに異常」
「何?」
「マイケル、どこの異常だ?」
病理医に博士が声をかけた。
「分かりませんが、しかしこのサインはどこかが出血している。それも多量」
「輸血と共に、出血元を確かめろ」
看護師の一人が輸血パックを取りに手術室を飛び出した。手術室の緊張が高まる。
聡は胃潰瘍の可能性を危惧していただけに――胃潰瘍は数時間で発生することがある――もしかしたらと思った。それにアメリカよりも日本の方が胃潰瘍患者は多い。博士が胃潰瘍に対して比較的無関心だったのは国が違うせいだろう。
「胃ではないでしょうか?」
そう言った瞬間、患者の口元から血液が滲んでいるのを発見した。手術時、該当箇所以外は手術布に覆われる。
「やはり胃の蓋然性が高い」
汗を流した博士も出血に気付いたようだった。聡は内心では緊張していた。足が震えるくらいに。
「胃を切開する。サトシが指摘した通り潰瘍性出血だったら私はそちらの手術をする。
並行してサトシ、鎖骨裏の血管を…。ジャネット、サトシの補佐を」
いきなりの指名に驚いた。ジャネットは中年の女性外科医師だ。彼女の補佐をする方が自分には適任だと思った。しかし、「手術室の神」のご託宣だ。ベストを尽くそうと思った。
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