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第五章 第16話

 タクシーに乗っても、香川教授は手の甲同士の接触を続けたままだった。もちろん、バックミラーの死角を計算してのことだが。  祐樹はそれほど、些細な接触が好きなタイプではなかった。グレイスで適当に相手を見つけ――表向きには禁止されているが、思わせぶりな視線の相手に向かって目配せをし、店外で落ち合うのがパターンだった――その後そういう触れ合いをして来た。  付き合った男性も当然多いが、ホテルの部屋でならともかく、人目の有る場所での触れ合いは真っ平だと思っていたし、それを実践してきた。  が、佐々木前教授の住所をタクシーの運転手に告げて、車が走り出すと、教授の手の甲がそっと祐樹の手の甲に触れた。そっと横顔を窺うと、いつもながらの冷徹な顔をしている。 ――そのギャップがたまらないな…――  そう思って手を振り払わない。そんな自分の行動も前代未聞だな…とフト思う。グレイスで知り合って付き合うようになった男性――もちろん肉体関係も持った相手――と外出しても、手を触れてきたら外していた。人目が有ろうと無かろうと。  教授は車窓から外を眺めている…ように見えた。横顔をちらっと見ると、即座に涼やかな瞳で祐樹を見詰める。 「このビデオですが、あの件も不本意な仕事でしたか?」  運転手さんの耳があるので、抽象的にしか話せない。 「ああ、やはり彼女が…一番厄介な問題だ。ただ、もっと悪いことには部下達の一部はアテにならないと…長岡君も心配していた。私も同意見だ」  溜め息を一つ吐いて言葉を続ける。 「なるべく実力本意で選んでいるつもりなのだが…スタッフの手が足りない時は、不本意な人選も仕方がないと思って妥協してもみたが…そういう時は不手際が倍倍ゲームだ…」  憂い顔の彼は睡眠不足なのか、眠たそうな声だった。そう言えば待ち合わせの喫茶店でも疲れた顔をしていたな…と今更ながら思った。 「眠そうですね。着いたら起こしますから…。肩を貸しますよ」  そう提案してみると、あっさりと頷く。これには祐樹も驚いた。タクシーの運転手はプロ意識に徹しているのか一切口も挟まないし、こちらの言動にも耳を傾けている気配は無かった。  手の甲ではなく掌を掴んで自分の肩口に顔を誘導する。  後頭部を祐樹の肩に当てた彼は本当に疲れていたのだろう、直ぐに身体の力が抜けた。安らかそうな微かな寝息も聞こえる。  肩口に掛かる重みが心地よく感じられた。鼻腔をくすぐるシャンプーの香り、それは自分と同じものだ。今度はいつ逢えるのだろう…と待ち遠しく思っている自分の想いに気付きギョッとする。こんなことは絶えて無かったことなので。  星川看護師以外にも「敵」に与する人間は多いようだ。心臓外科の医局にも「敵」の味方は居るようなことを彼は仄めかしていた。  ナース達の噂話を集めると共に、医局の動向も探らなければならないな…と思う。  大学病院は海のようなものだと思う。深海に棲む魚はその魚同士で付き合いが有り、上には上がらない。深さによって棲む魚が違うように大学病院でも、ヒエラルキーという棲み分けが出来ている。  香川教授なら斎藤医学部長に会いに行こうと思えばアポイントメントは直ぐに取れるだろう。教授の上のヒエラルキーとしては、大学では医学部長、学長が存在する。病院では病院長――と言っても病院長と医学部ではは斉藤教授が兼任だが――それがピラミッドのトップだ。  普通なら同僚としては教授が居て、普通なら愚痴も零せる相手となる。  が、香川教授の場合は同じポストで愚痴を零す相手が存在しない。棲み分けにはぐれた彼の悩みを聞いてくれそうな人間が回りに居ないのだ。  祐樹はナースとは幸い面識があるので、少しは役に立つだろう。が、星川看護師を苛めた今となっては、ナースの棲み分けエリアからは外されてしまっているかも知れないが…。  阿部師長はそういう縄張り意識は持っていないようだが、彼女は忙しすぎる名物看護師だ。噂を聞く機会も無いに違いない。さて、どうやって星川看護師のことを探り出そうか…とあれこれ考えているとタクシーが、とある一軒家の玄関先に停まった。大振りの表札には「佐々木」と書いてある。医師は患者さんからの逆恨みも多いのでマンション住まいも多いのだが、佐々木前教授は違うようだ。由緒の有る洋館といった邸宅だった。 「お客様、こちらが指定された住所ですが…」  京都のタクシーは礼儀正しい。 「この家で間違いはないようです」  そう返事をすると運転手は運賃を祐樹から受け取った後で車を降り、後部座席の扉を開けに来る。 「教授、着きましたよ」  そっと肩を揺さぶるとスイッチが入ったように覚醒した。  丁寧にお辞儀をしたタクシー運転手は車に戻り、車を発車させた。  街灯に照らされた教授の顔は先ほどよりはすっきりした顔をしている。短時間でも寝たのが良かったらしい。  胸ポケットから財布を出し、祐樹にそっと紙幣を差し出した。  貰うかどうか迷ったが、今日の怒涛の借り――柏木先生と阿部師長――の件を思い出して頭を下げて受け取った。  少し緊張してドアチャイムを鳴らした。  そこで、気がついたのは、手土産を持って来ていないことだった。が、流石に前教授が住むのに相応しい高級住宅街なこともあり、周りに商店は無かった。  チャイムの音に応じて出て来たのは、奥様と思しき上品な女性だった。教授夫人という言葉から連想される権高さはなく、昔は清楚な美人だっただろうな…と思われた。 「教授、すみません…手土産忘れました」  小声で言った。隣に立った彼は小声で言う。顔は夫人に向けて微笑んでいる。 「大丈夫、私が手配しておいた」 「初めまして、佐々木先生の教え子の田中と申します」  夫人が微笑みかけるので、内緒話はそこまでにして挨拶をした。 「田中先生と、香川教授ですね。田中先生は初めましてですわね。ようこそおいで下さいました。香川教授、蘭の鉢植えを別便で送って戴きまして有り難うございます。私は胡蝶蘭が大好きで」  そう言っていそいそとスリッパを並べている夫人に丁重な挨拶をした。香川教授は自分の思いつきを伝えて直ぐに秘書にでも用意させたのだろうか。 「貴方、香川教授と田中先生がいらっしゃいましたわ」  そう声をかけると佐々木前教授がシャツにカーデガン、ズボンという室内着で姿を現した。 

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