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第五章 第15話

 ビデオ持ち出しは別に禁止されているわけではないが、確認のために医局に連絡されては厄介だった。誰が「敵」か分からない今、医局の噂になるのは避けたい。  どう言い繕おうかと言葉を選んでいると、コンビニの袋を提げた阿部師長が通りかかった。彼女には今日の勤務を休む旨伝達済みだ。  チラっと彼女に視線を送る。困っているのが分かったのだろう、小さく頷くとのんびりと警備員に声をかけた。 「あら、大原さん、この前の怪我はもう治った?」 「お陰さまでもうすっかり」 「そう、警備の仕事も大変ね。精神病患者が暴れ出すと常人には計り知れない力を出すからね…あの時の怪我、確か5針縫ったわよね?」 「阿部師長がいらして下さったので私の怪我も、患者として運び込まれた方もすっかり大人しくなりました。感謝しています」  頭を下げる大原に向かって事もなげに言った。 「今度大原さんが運び込まれて来た時は――ううん、警備員の人が運び込まれて来た時は麻酔なしで処置するようにオーダーしましょうか?」 「ま、麻酔ナシで、ですか?」  警備員の声が裏返る。 「痛いわぉ。ただしね、麻酔は医療行為の一部であっても、全体ではないのよね。医師の一存で決めていい部類に入る医療行為なの。だから『医師が不必要だ』と判断すれば問題なし。知っていた?  もちろんどこからもお咎めはない。大原さんの指示でそうなったと運ばれてくる警備の人にそう言っておくことにしよっかな」  無麻酔縫合術など、第二次世界大戦の戦時中などの非常時を除いては行わないことくらい医師の常識だ。  だが、阿部師長が言うと妙に説得力と迫力がある。黙って聞いていることにした。どうやら味方してくれるようだったので。  大原警備員は無麻酔での治療をアリアリと想像しているのか、冷や汗をかいている。 「阿部師長……苛めないで下さいよ。酔っ払いや精神病患者のお陰で我々警備員がどれだけ怪我をするかご存知でいらっしゃるくせに…」 「ふふん、あんな小さな怪我ごときで救急救命室に来るなんて警備の人くらいじゃないかしら…あそこはね、戦場なのよ。本当なら追い出されても文句は言えないのに治療して上げているのは誰のお陰かしら?」 「阿部師長がいらっしゃるからです」  その言葉にかぶせるように阿部師長が言った。 「じゃあ、一つくらい頼みを聞いてくれてもバチは当らないわね。この先生の荷物検査は行わないこと。  それが麻酔ナシか、麻酔アリかの分かれ道だわよ」  恫喝するような低い声で言う。 「分かりました。どうかお通り下さい」  警備員は祐樹に道を開けてくれた、それも深深と頭を下げるというオプション付きで。   感謝の眼差しで彼女を見ると阿部師長はあまりサマにならないウインクをしている。 ――もしかして、また一つ借りが増えたのか?――  そう思うと落ち込むので敢えて考えないようにした。が、阿部師長のことだ。借りは2倍…いや10倍返しで返済を迫られるような気がした。    約束の時間よりもかなり早く本屋に着いてしまったので、店内を散策することにする。が、隣のコーヒーショップが気になって落ち着かない。仕方なく目についた本を買って出た。  季節には早いがアイスコーヒーを注文し、店の外に座った。店内では煙草を吸えないので。  少し肌寒いがナゼか少しも苦にならなかった。  店の扉の前に男性が立つと、つい買ったばかりの本から目を離して見てしまう。内容的には面白かったが。  店の前にタクシーが止まった。約束の時間ピッタリに香川教授の整った顔がタクシーの窓ガラス越しに見える。  乗るように指図されるかと腰を上げかけたが、彼は運転手に料金を支払っているようだ。  車から降りた教授は祐樹を見つけると表情の選択に困ったような表情で浮かべ、立ったまま祐樹を見ていた。 「お疲れ様です。ここでは寒いですから、店内に移動しましょうか?」 「いや、構わない。煙草、吸いたいのだろう?」  灰皿を見て言った。灰皿の中には中ほどまで吸った煙草が数本入っていた。普段の祐樹は煙草を根元から一センチで消す習慣だったが、彼を待っている間に落ち着きなく煙草を消していたようだった。  彼は店内に入り、祐樹と同じサイズのアイスコーヒーを手にして戻ってきた。照明が彼の顔を照らし、睫毛の影がはっきりと見えた。 「祐樹のお陰で今日の手術は会心の出来映えだった。有り難う」  頭を下げてくれた彼に内心慌てた。 「止めて下さい。助手として当然のことをしたまでです。柏木先生も手伝って下さいましたし」  形の良い唇にストローを差し込んでコーヒーを飲んでいる教授はひどく咽喉が渇いているようだった。 「水を持って来ますね」  そう言って店内に入った。祐樹の咽喉は渇いてなかったので1人分の水を用意し、彼に手渡した。ふと触れた手が熱い。その上汗もかいているようだった。 「もしかして、急いで来ました?」 「ああ、約束の時間に遅れないように急ピッチで仕事をして、大急ぎでタクシーに乗った」 「そんなに急いで来る必要はなかったのですが……」  いたわるように言うと、ついと顔を逸らした。しばらくそうしていたが、彼は自分の方を見て言った。 「今日は佐々木先生の御宅に行くのだろう?また何故?」  真剣そうな眼差しだった。 「星川看護師の動作はわざとペースを崩していますね。  ただ、熟練した外科医でなければ分からない。そこで、前任教授の佐々木先生にビデオを見てもらおうと思いまして…」  紙袋からビデオを取り出した。ビデオを大切そうに見て彼は言った。 「ビデオ…よくそんな物が祐樹の手に入ったな。手術室の看護師は皆怒っていると聞いていたのに」 「私が行くと多分貸し出して貰えないと判断し、柏木先生にお願いしました。佐々木前教授も星川看護師をスタッフに使っていましたし、先生に証言してもらうのが一番だと思いました。  斉藤医学部長でも良かったのですが…斉藤医学部長なら直ぐにでも彼女をスタッフから外せる権力はお持ちですから…ベストな選択なのですが、一介の研修医は中々お目通り出来ませんし…」 「あいにく、医学部長はスイスに学会出張だ。だから仲裁役も当然無理だ」 「いつ帰国ですか?」 「確か、三週間後だと…」 ――すると、三週間は星川看護師が道具出しか…――  何とかしないといけないな…と思った。 「まずは、佐々木先生の御宅にお邪魔しましょう。そして画像を見て頂いて、出来るなら星川看護師のタイミング外しの件について書面をしたためて貰いましょう。それから斉藤医学部長がお留守の間に出来ることは何か、考えましょう」  そう言って、佐々木前教授の家に向かうべくタクシーに手を上げる。佐々木教授の連絡先その他は、彼が退官の時に貰っていた。それが今回役に立ったというわけだ。  後ろに立っていた香川教授はとても小さな声で囁いた。何度か口を開きかけては閉ざしてから。 「有り難う、祐樹」  と。声が震えていた。同時に左手――右手はタクシーに合図するために手が塞がっていた――紙袋を持った手の甲に彼の手の甲を感じた。些細な接触だったが、少し胸がときめいた。

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