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第五章 第14話
暗記している番号を押す手を止めて、自分がしてきたことに漏れがないかを確認することにした。
香川教授は明日も手術なのでいつものような綿密な指示書を作っているに違いない。祐樹は実地に慣れるために受け持ち患者が1人で、その患者さんは今頃は長岡先生が内科的な治療を行っているので目を離しても大丈夫だろう。
病院一旦出る時に阿部師長には頭を下げて、今夜は手伝えないことを断ってあった。
手術前に彼と視線を絡ませた時は他のスタッフ全員が自分の仕事のために下を向いていた。ちょうど桟敷席にいるように下の行動はよく分かる。
手術後も同じだった。第一、見学者に大学上層部の人が居ないことは彼らにも分かっている。第一例目こそ、上層部のお偉いさん達がずらりと並んだが、その動機は香川教授の手術見たさと患者さんの社会的地位の高さからに違いない。――偉くなれば付き合いも増えるんだな――と思った。第一例目で上を向く不心得者は全く居なかった。居れば、上司の叱責モノだろう。
今日は熱心な外科志望の学生達が後ろの方でちんまりと見学していただけだった。このケースもスタッフは注意を惹かないので上は見ない。
祐樹は一番前に居たので、医学生達は祐樹が何を見ているかは分からないハズだ。
術後も祐樹は香川教授だけを見てはいたが、他のスタッフの動きもちゃんと視野に入れていた。香川教授以外には祐樹を見たのは柏木先生だけだった。
柏木先生は患者の心臓が再鼓動した時に、クールさを保ちつつ得意げな表情をするという多分彼にしか出来ない芸当で見上げていた。星川看護師を制したという満足げな表情がスパイスだった。祐樹も満面の笑顔とガッツポーズを返すと彼はさっさと自分の仕事を済ませ手術室を出て行った。
――…ああ、宿直を余計に背負い込んでしまった――
一瞬だけ後悔したが、香川教授の手術が円滑に成功したのも今回は彼のお陰だ。そう思うと宿直の一晩や二晩は惜しくない。
「あ、ビデオ!」
そう思うが、あれも大丈夫だろう。「T」とだけ色気のない付箋紙で貼ってあるシロモノだ。「T」と聞くと関西に詳しくない人間は某野球チームを連想するようだが、ファンの母体は大阪府民であり、京都の人間はこの球団の贔屓をしている人はごくごく少数だ。
宿直室はいつも満員御礼なので――病室のベッドがそうであれば、香川教授も一日に二例も手術をこなす必要はないのが残念だが。彼もきっと疲れているだろう――視聴覚室も誰かが仮眠のために使っている痕跡は有った。
香川教授の勤務が終るのが多分、夕方だ。
仮眠を取る人間が毛布を使うのは患者が寝静まった頃だろう。それまでに回収に行けば充分間に合う。
その他に漏れはないな…と思い、ギョッとする。重大なことを忘れていた。
しかし、今となってはどうしようもないミスだ。
違う意味でドキドキしながら再度携帯を持ち、番号を押す。
「ああ、田中先生」
素っ気ない口調は傍に秘書がいるのだろうか?少し震えて聞こえるのは電波の状態でも悪いのだろうか?
ここがキーポイントなので掌が汗ばんでいることを自覚する。
「教授、佐々木前教授とはどういう関係でしたか?」
「教授と教え子だが?」
分かりきった答えを求めているわけではないので単刀直入に聞く。
「まさか敵対とかしてませんよ…ね?」
怪訝そうな声が増す。質問の意図が分からないのだろう。
「私は尊敬しているし、教授も私に対して悪意は持ってないと思うが…?」
「その言葉、信じますよ。今なら間に合います。確執めいたことはなかったのですね?」
「全くなかった」
その言葉に嘘の響きは感じられない。電波状態が良くなったのか明瞭な声がはっきり聞こえる。
「分かりました。今日、教授とご一緒するのは佐々木先生の御宅なのです。そこで少しアドバイスなどを頂こうかと思いまして」
御一緒しても本当に差し障りは全くないですよね?」
「そんなにしつこく念を押さなくても…祐樹は結構神経質だのだな。佐々木先生の御宅なら着任前に挨拶に行った」
笑い声交じりに言われた。呼称が変化していることからして、1人で居るらしい。
どこで待ち合わせをするかは、なかなか厄介だ。教授は教授で患者が急変するかも知れないし、祐樹は今、勤務時間外なので可能性は薄いが呼び出しが皆無というわけにはいかない。時間を潰せて、ゆっくり粘れる場所…そして病院関係者が通らないだろう場所…と考えて、大きな書店の隣に○ター・バックスがある地下鉄の駅の近くにした。学生は、授業の教科書に使う金額の大きい本は大学の生協で買うのであまり一般書店には来ない。
教授の都合に合わせて大雑把な時間を決めた。
それから病院に戻り帰り支度をしていると山本センセとすれ違った。廊下の隅に立って会釈をする。
「いやぁ、第一助手おめでとう。だが、我が医局への手術室のナースちゃんたちの風当たりが強くなったと…医局長の畑仲先生もお嘆きのようだ。いやぁ、さすがだな…」
喜んでいるのか悲しんでいるのか良く分からないが、声高にそういい捨てると、廊下を歩いて行った。リノリウム貼りの廊下だったが、ドスドスという擬音語が聞こえるような気がした。
視聴覚室にそっと入る。毛布も祐樹の記憶通りの形をしていた。毛布の下のビデオ・ケースも無事有った。問題のビデオ・テープも、祐樹が他のビデオ・テープの山から探し出すことが出来た。
セットして安堵の息を吐く。医局へは寄らず――第一ビデオを持ったままでは怪しまれる――更衣室で帰り支度をして誰かが置いて行ったと思しきデパートなどで呉れる紙袋の中にテープを入れ、病院関係者専用の出入り口から出ようとした。
いつものようにIDカードを見せていると、見ない顔の若い警備員が厳しい声で言う。
「先生、その中身は何ですか?」
「研究用の資料です」
「資料とは?」
「ビデオに収めた手術画像ですが…」
「見せて下さいませんか?」
大きな荷物の持ち出しにこれほど厳重だとは思わなかった。警備員と医師では接点もないハズだが…。「香川教授の手術」のビデオだと露見すればどうなるか分からない。何せ、香川教授はこの大学病院一の手術実績を持つ医師だから。
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