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第五章 第13話

 手術控え室の扉の前で柏木先生を待っていた祐樹は、傍を通りかかった星川看護師からまるで親の仇でも見るような目つきをされた。今まで泣いていたらしく目が赤い。 「間に合わないかと焦った」  焦った…というからには急いで歩いてきたようだが、汗もかかず息も乱さずに柏木先生がビデオテープを手渡してくれる。 「田中先生が取りに行かなくて正解だった。先生が借りに行ったら何か理由をつけて貸し出してくれるのは一週間後…という可能性も有った。  いつもなら二つ返事で貸し出してくれるビデオだが…今回は手術室のナースが余計なことを色々聞いてきた。後ろの部屋では星川君だろうが、大きな声で泣いていたし、それを他のナースが一生懸命慰めている気配がしていた。…この件は貸しにしておくぞ」  そこらの安普請の建物ではない。れっきとした鉄筋の建物だ。それでも隣室の音が聞こえたというのは、相当大きな声だったに違いない。 「はい、宿直の交代でも何でも…」 「その言葉、覚えておくからな。  さて、今回の手術では田中先生とは違ったやり方でプレッシャーをかける。二年のキャリアの差をよく見ておけよ」  クールな眼差しだった。 「はい、勉強させて頂きます」  慌しげに手術控え室に消えた柏木先生に向かって頭を下げた。  ビデオは祐樹にもとても大切なものだ。手術室ではダビングなどをしているとは思えない。無くしたら今夜のアポイントメントが無駄になる。「敵」が誰だかはまだ分からないものの、その「敵」がビデオの件を嗅ぎつけているとも思えなかった。が、念には念を入れて私物を入れる鍵の掛かる個人ロッカーに保管しようかと思った。  フト香川教授が日本に来る前に山本センセに誰にも言っていない母の腎臓病の件を知られていたことを思い出す。個人スペースは探られる可能性は0ではない。ビデオが有っても不思議ではないところ…。  地下に視聴覚ルームが有ることに思い至った。あそこならビデオが沢山置いてある。そこに紛れ込ませれば大丈夫だろう。  香川教授の部屋も考えたが、彼は手術前カンファレンスに出席しているハズだから秘書には頼みづらい。しかもあの階は全て教授室だ。自分のような下っ端がやたらにウロウロしていて良い場所でもない。しかも香川教授に反感を持っている教授にでも見咎められたら厄介だ。  急ぎ足で地下に降りた。病院スタッフ専用の場所で、しかも今は病院がフル稼働している時間だ。地下に人影は無い。そっと視聴覚室に忍び込みビデオケースに「香川教授・手術」と書いてあるのを確かめてからケースを外し、何の変哲もない黒いテープにしてから白衣の内ポケットに常に入っている付箋紙に「T」とだけ書いて貼り付け、ビデオが無造作に詰まれた一角の真ん中辺りに紛れ込ませた。  ケースのほうは乱雑に積み重なっている毛布の中に隠した。宿直室が満員でここで寝泊りしている医師も居そうな雰囲気の部屋だった。病院の宿直室は毎日満床という笑えない現実がある。皆が仮眠場所を探している。  香川教授の第一例目の手術こそ見学者も多かったのだが。今では心臓外科の熱心な学生が見学に来ている程度だ。閑散としている手術見学室に入った。幸い、未だ香川教授の姿はなかった。  香川教授が手術用の手袋をして入室してきた。他のスタッフは一礼後、それぞれの業務に取り掛かる。  ガラス越しに彼の姿を見ていた。もちろん術野や、執刀医の動きを見るためのモニターはあるが、彼を自分の目で見たかった。彼の手技も…。  他のスタッフは上を向くことは有り得ない。自分に割り当てられた仕事で精一杯のハズだ。  フト香川教授の視線が祐樹と絡み合った。いつもは強情な瞳の光が今回はやけに気弱そうに揺れている。 ――大丈夫だから――  しばらく見詰め合ってアイコンタクトが通じるように願った。瞳で訴えたのが届いたのだろう、視線の絡み合いが長くなるにつれ落ち着いた目の光になった。  特に外科医は気持ちの切り替えが早い。そうでなければ予想も出来ない手術に対応しきれないからだ。 …後は柏木先生次第だな…  そう思った。先ほどの星川看護師の目つきからして彼女が改心したとは思えない。  手術が始まる。今は重篤な患者ばかりの手術のため術式にも変化はない。祐樹が午前中に第一助手を務めたのと殆ど同じだ。  そういえば星川看護師は難しい場面でタイミングを外していたな…と午前中の手術を反芻して思いついた。  始まったばかりの手術は少なくとも大学病院の外科医なら…専門が心臓外科ではない医師であっても…出来るレベルだ。  安心して手術を見ていた。時々はモニター越しに拡大された神業としか言いようのないメス捌きに「自分もあの領域にまで達することが出来るだろうか?」と野心7、野心3の割合で手技の真似をしてみた。  心臓が取り出され、人工心肺が動き出す。 ――ここからが正念場だ――  手に汗を握り締めて見学を続けた。 「教授、次は電子メス…ですよね」  柏木先生の落ち着いた声がモニター越しに聞こえる。教授は頷くだけだった。 「次はツッペルですよね」  一拍早く、柏木先生は教授の次に必要な術具を口に出して言う。頷く教授。 「星川君……それはコッヘルだ。落ち着いて…」  情味溢れる口調だが、彼も相当苛立っているのは大学生時代からの長い付き合いなので良く分かった。  柏木先生は、自分が星川看護師に指示しない代わりに教授の許可を得るという方法を選択したワケだ…と思った。  これなら祐樹ほどは星川看護師や手術室のナースの感情も刺激しないだろう。流石だな…と思った。  柏木先生のアシストのお陰で、香川教授のメスも芸術的な動きを奏でる。自分がその場に居ないのは残念だが仕方ない。せめて手技を真似ようと網膜に焼き付ける。  手術がつつがなく終了した。CCUに患者が運ばれた後、弛緩した時間の中で、スタッフは片付けに入る者、出て行くものと様々だ。皆教授に声をかけて出て行く。  香川教授は待ち兼ねたような感じで上を向き、祐樹を見詰めた。瞳には安堵からか柔らかな光を宿している。手術用のマスクに隠されて表情は分からなかったがきっと極上の微笑みを浮かべているに違いない。ふっと見たいな…と思った。ガラス越しにお互いの視線が柔らかく絡み合う。祐樹もずっと笑顔で彼を見ていた。  手術室に誰も居なくなったことに気付き、慌てて手で合図する。彼も残っているのが自分だけだと自覚し、出て行った。彼が手術室を出て行くまで見送った。  香川教授の携帯に電話するのは大学内では憚られる。「壁に耳あり障子に目あり」ということわざがあるが、この病院ではもっと目も耳もおまけに口も多い。自分の患者がCCUで手厚く看護を受けているのを良いことに病院を抜け出して行きつけの喫茶店に行った。周囲に病院関係者が居ないことを確かめて携帯を取り出し彼の携帯番号を押す。

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