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第五章 第12話

「黒木准教授、講義でお忙しい中呼び立ててしまって申し訳ないのですが…」  香川教授が口を開く。黒木先生が手術スタッフから外れていたのはやはり大学で講義をしていたのだろう。 「いえ、柏木先生から、あらましは伺いました。この件は看過出来ないですから…」  秘書が居ない今は自分がコーヒーを出すべきだろうと、席を立った。秘書が消えた部屋へと入る。祐樹が居ない時にどんな会話が交わされているか気には成ったが…。  コーヒーサーバーなどが整然と並んでいる区画に行く。先ほどのテーブルに載っていたカップと同じ物を探すのにそう時間はかからなかった。適当に注いでから砂糖とミルクを多めに添えてトレイに載せて運ぶ。   コーヒーを置いて黒木准教授の横に座った。 「有り難う。ちょうど咽喉が渇いていたところなんですよ」  そう言ってこちらを見る准教授に敵意は感じられなかった。が、表情だけで判断出来るほどこの世界は甘くないことは分かっている。  香川教授にポストを奪われたことには間違いはないのだから、内心は煮えくり返っているかもしれない。 「今回の手術でも…星川看護師はそうでしたか…」  眉間のシワをよりいっそう深くして黒木准教授は残念そうに言った。ステックシュガーを三包みとミルクをコーヒーに入れて飲む。砂糖の包みは小太りの指で破ったにも関わらず几帳面に揃っていた。  香川教授も手早く説明してくれていたらしい。 「田中先生の第一助手の越権行為については、教授と私からの厳重注意を口頭で行ったということで大丈夫でしょう。私の方からも手術室の清瀬師長に謝罪しておきます。  田中先生、『厳重注意は有った』ということにしておいて下さい」  コーヒーを飲み干して黒木准教授は言い含めるように言った。が、表情は柔和だった。 「はい、分かりました」  これが香川教授の言うアリバイ工作かと、従順に従う。 「しかし、彼女の仕事振りは日増しに酷くなっていますので何らかの手段を講じなければなりませんね…」  憂いを帯びた声で黒木准教授は続ける。 「私としても、彼女の交代を切実に願っているのですが…」  香川教授も真剣な表情で言う。 「しかし、それは難しいでしょうね…彼女は手術室のエースですから。今までの数多い実績からして交代は清瀬師長も承知しないでしょう」  黒木准教授が反論する。  教授と准教授の話し合いに口を挟むことは慎まなければならないので黙って聞いていた。 「難しい」と黒木准教授が言うのは、病院内の縦割人事システムを差しているのか、それとも彼が密かな野望を成就すべく望んでいないのか…判断に苦しむところだ。どちらも有り得る。  道具出しの仕事は手術室の清瀬師長が人事権を握っている。星川看護師が「自分はきちんと仕事をしている」と主張すれば、香川教授としても交代要請は出来ないだろう。彼女の落ち度を客観的に証明すれば話は別だが。  また、黒木准教授が彼女を庇っているとすれば、狙いは一つだろう。 ――香川教授の失脚――  香川教授は学内政治で教授のポストを手に入れたわけではない。手術の腕を買われて招聘された身の上だ。  政治力で手に入れたポストだと、敵対勢力は大学を去るハメになるので敵は一掃される。  従来はそういうパターンだったと聞いている。しかし、大学病院のシステムが変わった今となっては外部からの招聘が可能となった。前任教授や医学部長の推薦があれば学外からでも教授のポストに就ける。  それはそれで喜ばしいかと言うとそうでもないだろうと思う。祐樹も香川教授招聘には反対していた時期も有った。誰が敵なのかを見極めることは難しい。  話の流れで行くと黒木准教授は星川看護師の件は憂慮しているようだが、それが本音かどうかは分からない。  順送り人事ならば黒木准教授こそがこの部屋の主となっていたのだから。その悔しさが動機となり教授を失脚させようと思っても不思議ではない。  難しい顔をして黙り込んでいる二人に控えめに声を掛けた。 「『厳重注意』は承りました。真摯に受け止めますので…失礼しても宜しいでしょうか?」 「ああ、構わない」  香川教授の許可を貰って、黒木准教授に一礼して部屋を出ることにした。コーヒーカップは秘書が片付けてくれるだろう。ドアを閉める直前に教授に視線を当てる。  視線が絡む、僅かな一瞬。 「大丈夫…心配しないで」という意味を視線に込めたが、彼は気付いてくれただろうか?ただ、彼は春の陽だまりのような視線をしていた。  午後の手術が始まる前にしなければならないことが有る。手術室の看護師達は祐樹が星川看護師にクレームを付けた件を知っているだろうか?と危惧を抱く。師長ー―黒木准教授情報によれば清瀬という名前で確定だ――は知っていたが、その部下達はどうだろう?当然知っているだろうな…と思う。  噂の速度は医師よりも看護師の方が速いことが多い。祐樹は手術室の看護師からは敵視されるべき存在になったハズだ。  さて、どうやって手術室に近付こうかと思った。絶対に手に入れたいものがあそこには有る。が、自分が行っても多分すんなりとは貸し出してはくれないだろうな…と予測する。  自分ではなく、確実に香川教授の味方になってくれそうな長岡先生でも恐らく無理だ。彼女はここの病院では外科医ということにはなっているが、実際は内科医であることは多分食堂で働く人までが知っているだろうから…。噂…無責任なものから真実に近いものまで、それが色々なルートを伝って思いも寄らない場所まで辿り着く。殆どが歪曲されてはいるが。  祐樹は個人的に信憑性の有るモノを「噂」でっち上げとか尾びれ背ビレどころか羽まで生えているのでは?的なのをウワサと区別している。  柏木先生ならどうだろうか?  彼なら手術室では白眼視されていないハズだし、大義名分も有る。頼んでみようと思った。  時計を確認し、今頃は手術控え室に居る頃だろうと、そちらに向かった。案の定、手術指示書を真剣な表情で読んでいる柏木先生が居た。近寄った祐樹に怪訝な表情をする。 「田中先生は今回の手術のスタッフではないハズだが?」 「はい。違います。実はお願いしたいことが有りまして…。香川教授の手術の画像を手術室から貸し出して貰いたいのです」 「画像を?何故?」 「理由は、未だ言えないのですが、教授のためであることは確かです」  真剣な顔をしているのが分かったのか、柏木先生は頷いた。 「どの画像だ?」 「私が第一助手として入る一例前の手術の画像をお願いします」  祐樹の言いたいことが分かったらしく、納得したような顔をして言った。 「研究材料にするからと言い訳をして借りてくる。それでいいな?」 「はい、宜しくお願いします」  時計を気にしながら出て行った柏木先生を待ちながら、祐樹は携帯で電話を掛けた。今夜のアポイントメントを取るために。

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