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第五章 第11話

「そういえば救急救命室の阿部師長が総師長に紹介してくれると言っていた」  ふと思い出したように香川教授が言う。すっかり冷めてしまったブラックコーヒーを飲みながら総師長はどの系列だったかを思い出そうとする。  師長同士にも仲の良い人達も居れば、犬猿の仲の人も居る。総師長とも看護部長とも言われる人が交代する時は野心満々の師長がそのポストを目指す。いわばライバルになるわけだから派閥は当然発生する。病院長選挙などは教授色が立候補して熾烈な争いになるとウワサで知っているが、総師長は女性が目指すトップの座だけに病院長選挙とは選挙選も異なるとか。  が、祐樹にもそこまで詳しい情報を持っているわけではない。今まではナースの愚痴を聞いてきた程度だ。これからはもっと上の情報も取り込まなければ…と思った。多分、心臓外科のナースなら話してくれるだろう。  気まずそうな顔をしてコーヒーカップを弾いている教授に気付く。 「何ですか?」  一呼吸して言いにくそうに口を開く。 「本音は、ゆ…田中先生に感謝している…しかし、第一助手が道具出しのナースに指示するのは越権行為であることには…間違いはない。タテマエとしては」 「ええ、それは理解している積りです」 「だから黒木准教授を呼び出しておいた。一応叱責があったというアリバイ工作の積りで…。本当に私が至らないばかりに…」  深刻な顔をする彼に向かって微笑みかけた。 「大丈夫ですよ…それよりももっと重い処分を覚悟してましたから」 「重い処分?」  彼の切れ長な瞳が不思議そうに揺れる。 「教授の着任の挨拶で異議を唱えましたよね?あの時、私は『ド田舎にでも飛ばされるかも』と思ってました。それに比べれば、今の方が断然マシです。教授の盾に成れるのですから…」  強い口調で言い切ると彼の白皙の頬が薄く紅の色に染まった。 「あれは…後悔している。あそこまで感情的になる積りはなかった。  ただ、弁解しても良いか?」 「ええ、勿論です」 「第一に、ゆ…田中先生からあれほどの反発があったことに逆上した…他の者ならあれほど逆上はしなかった…」  教授は自分自身に呟いているような口調で言った。 ――どういう意味ですか?――と突っ込んで聞きたかったが、今は聞いている時間がない。彼は過酷な手術を控えている身の上だ、自分と違って。  ふと、神の孤独について考えた。  29歳で母校の教授のポストを手にするというのは前代未聞だ。それもアメリカ帰りで…母校生え抜きの教授達はいい気持ちはしないだろう。それにあの手技を見せ付けられたらプライドの高い教授の中にはやっかみも当然あるだろう。   この人は孤立無援なのだな…と改めて思う。  祐樹の回りには柏木先生を初め、同じ研修医の仲間も科は異なるがチラチラ居るが、彼の真実の味方となるのは長岡先生しか居ない。  彼女も同じくアメリカ帰り、しかも母校は東京大学だ。ウチの派閥は全く把握していないに違いない。  彼と特別な関係になったこともあるが、それ以上に手技を見てしみじみと思った。 ――彼はウチの病院に無くてはならない人だ――と。 「ウチの病院の経営状態は知っているか?」  いきなりの話題転換に面食らった。職場で医師としては最下層のヒエラルキーに属する自分には全く縁がないと思っていたので。 「いえ、存じません」 「黒字の科も有るが、小児科・産婦人科そして救急救命室は大赤字だ。それに産婦人科は激務の辛さに辞めていく医師が多い。激務と言えば救急救命室もひけを取らないが、阿部師長のお陰で随分助かっているが…  とにかく、トータルで見れば赤字だ。国立病院ではなく独立行政法人になったからには黒字にしないといけない。そういう意味では企業と同じ宿命を負ってしまった。小児科や産婦人科といった不採算部門は企業と同じく切り捨てられる可能性は高い。  だから、私の手術で心臓外科の収益を上げる。その収益で赤字部門の切捨てだけは阻止してみせる」 ――そうだったのか…と思った。――彼の高邁な決意も。が、疑問はわいて来る。 「それなら特診患者を優先しては?」 「それは…考えたことも有った。しかし、差額ベッドの収入と手術を一例行うのでは手術の方がれっきとした病院収入になる…斉藤医学部長は特診患者の手術を優先させろと仰っていたが、私は重篤な患者さんから手術したい。  金銭の有る無しで手術の順番を狂わせることはアメリカ時代でコリゴリだ」  斉藤医学部長が立腹していることは柏木先生からも聞いていた。特診患者は執刀医に莫大な金額を支払ってくれる場合は多いが、それは全てその医師のポケットに入るらしい。祐樹は研修医なので当然貰ったことはないが、こっそり分厚い封筒が渡されるようだった。  当然病院の会計には載らないので病院収入ではない。  ああ、この人は病院の未来のことまで考えてくれるのだな…と思った。 「教授を全面的にバックアップします」  力強く宣言すると、彼の薄い桜色の唇が嬉しそうに微笑んだ。  重厚な木の扉がノックされた。 「黒木です。お呼びと伺いまして」  黒木准教授を観察できる良い機会だ。だだ、彼の手術開始の時間が押している。 「午後の手術、私は上で見守っています。だから芸術的なメス捌きを見せてください」 「ゆ…田中先生が見てくれているのかと思うと、心が落ち着く」  そうはっきりと呟く綺麗な瞳に柔らかな光が宿る。 「はい、お入りください」 「失礼します」  メタボ気味だが、敏捷な動作で部屋に入ってきた。  手術の様子はスタッフの誰かから聞いていたのだろう。眉間にシワを刻んでいた。

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