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第五章 第10話

「今日の件…まずはお礼を言わなければと…そう思って…呼び出した」  そう言うと優雅な動作で立ち上がり頭を下げた。  彼がそういうことをするとは大きな想定外だった。 「止めて下さい。助手として補佐するのは当たり前のことです」  慌てて立ち上がった拍子にテーブルに足が当たり、口を付けられていないコーヒーの表面が揺れる。  自分よりも少し小さい顔をそっと両手で掴み顔を上げさせる。両手に当った頬が冷たかった。  職場ではそういう意味での触れ合いはしたくなかった…それは多分彼も同じだろうと思う。  長い睫毛に縁取られた綺麗な瞳が落ち着かなげに揺れる。両手で感じる頬の温度が上昇してきたが、彼は振り払わない。  もっと触れたくなる感情を理性でせき止めた。 「教授に立って頭を下げさせる研修医なんて滅多に居ませんよ。それだけで光栄です。どうか座って下さい」  その言葉に我に返ったのか、彼は元の冷静な顔をして応接セットに座った。  膝の上に行儀良く置いた彼の華奢な指先は、いつものように震えてはいなかった。 「医局が荒れているというのは、このことだったのですか?」  「医局…というより、手術全般だ…な。いつ術死が起るか分からない状況だ。今日も必死に星川ナースに合わせようとした…が、多分悪意を持って道具出しのタイミングをずらしているのでは?とずっと疑惑を持っていた…ゆ…いや、田中先生もそう思ったの…か?」 「ええ、思いましたね」 「そうか…」  考え深げに黙りこむ。  不意に執務机の上の電話が鳴る。音からして内線電話だ。秘書は多分、早めのランチタイムに行ったハズだ。電話を取るのは下位に有る者の役目でもある。さっと立ち上がって電話を取った。 「香川教授の執務室ですが?」  そう言うと、怒りからか硬い声がする。 「星川の上司ですが…。お宅の第一助手の越権行為について是非とも教授とお話しがしたいのですが…」  その「第一助手」と話しているとは気付かなかったようだ。星川ナースの上司とは、多分手術室の師長だろう。  ナースには顔の広い祐樹だが、手術室には生憎知り合いは居なかった。 「はい、お電話替わります」  保留ボタンを押してから、教授に向き直る。 「星川看護師の上司の方からです。何でも『第一助手』の越権行為についてのクレームだそうです」 「手術室所属の看護師を敵に回すのは厄介だな…」 「ええ、私を悪者にして乗り切って下さい、今のところは…」  教授室に来る前に閃いた件は黙っていた。 「…それで、ゆ…いや、田中先生は良いのか?」 「ええ、構いません。私にも少し考えが有りますので」  白い指先で受話器を取る教授を見詰めていた。消毒薬で普通は荒れる指先が綺麗なままなことに気付く。  祐樹の指示通り「第一助手の暴走」を抑え切れなかったことを詫びている教授の白衣を眺めていた。  身長は標準以上なのに、腰は細いのが白衣の上からでも分かる。フト不埒なことを考えてしまう自分を自制した。昨夜の情事で疲労している彼にこれ以上の負担は掛けられない。午後も手術を控えている身なので尚更。  電話を切った教授は、申し訳なさそうに祐樹を見詰めた。 「済まない。ゆ…いや田中先生を盾にした形になってしまった…」 「教授の盾になるのはやぶさかでは有りません。それよりも打開策を…。ここだけの話ですがやはり教授を妬んでいる者が医局内に居るようですね…」 「ああ、それは私も仄聞している…が、道具出しの星川君を移動させるには証拠が必要だ。何しろ権限外のことだから…。医局内のことならば私がなるべく信頼出来る医師を助手にすれば何とかなると思うのだが…」  そう言って唇を噛む。 「ああ、唇を噛まないで…綺麗な唇に傷が付く」  考える前に人差し指を彼の唇に近づけて、表面を辿って愛撫した。その拍子に彼の唇が弛む。それを見計らって人差し指を彼が噛んだ箇所に当てる。 「少し、切れてますね…」  唇から人差し指を抜いて、鮮紅を見せた。  彼は何かを言いかけるが、言葉は出さない。が、雄弁な瞳と震える唇が望んでいることを伝えてくれる。  テーブルを隔てて抱き締め、切れている箇所を舌で舐めた。そして、しっとりと口付けをした。唇の表面だけを触れ合わせるキス。唇の表面がお互いの呼気で湿っていくのが分かる。  彼の恐らくは手術の緊張だろう、強張った身体から力が抜けていく。  ずっとそうして居たかったが、職場なので名残惜しげに身体を離す。唇を耳に近づけて低い声で囁く。 「この続きは、近い内にホテルで…」  その言葉に彼の身体が震える。 「さて、教授の心労は出来る限り取り除きます。  午後の手術も自分を信じて執刀して下さい。術死は絶対避けるように動きますから…」  長い睫毛を伏せて、彼は呟いた。 「有り難う。ゆ…田中先生のお陰で大分自信が取り戻せた…手術は執刀医が動揺しているなんて言語道断だ。でも、大分落ち着いた」 「これからは、何でも話して下さいね。どんなことがあっても教授の味方ですから」  力強く断言すると、潤んだ瞳で頷いた。2例目の手術の後からずっと緊張していたのだろう…と思った。孤立無援のまま。  今回の件で、敵にも「自分は香川教授派だ」と教えたようなものだが、患者の命を失脚の道具とするのはやり方が酷すぎると思う。  香川教授の憂い顔を見て、その顔が心の底から笑っている顔が見たいと思う。  今のところ、味方は柏木先生1人だ。多分彼は「患者のため」という極めて真っ当な動機で動いてくれているに違いない。 「午後からの手術は私が上から見ています。それで星川看護師もプレッシャーを感じるでしょう。それから柏木先生も『このまま見逃せない』と仰ってましたし…」 「…そうか、有り難う。術死は外科医ならば誰もが恐怖する。私も何度か悪夢を見て飛び起きた」 「私に考えが有ります。今日の夜、宿直を代わって貰います。教授のご予定は?」 「特にないが…?」 「では、付き合ってください。但し、ホテルではありませんよ…」  頬を微かに染めた彼に向かって仕事モードの顔で言った。彼もそれが分かったのだろう。真剣な表情で頷いた。そしていつもの顔に戻って言う。 「柏木先生は私の同期の友人だ…尤も今となっては腹を割って話してくれないが…彼から情報収集しようとしても多分無駄足だ」  少し悲しげな表情の彼に、敢えて明るく告げる。 「柏木先生はそういう方だろうとは思っていました。ご心配なく…。と言っても心配して下さったのは嬉しいですが…宿直は弱みを握っている相手に交代してもらうことにして、教授の心労を和らげるために動きます。ご同席お願いします」

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