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第五章 第9話

 控え室で白衣に着替えていると柏木先生が辺りを憚るような声で話しかけてくる。 「今回はいつにも増して危なかった。先生のお陰で上手く行ったが…」 「毎回、あんな感じだったのですか?」  祐樹は救急救命室との掛け持ちで忙しく香川教授の手術に立ち会うのは二回目だ。柏木先生や黒木准教授の方が手術のことは良く知っているだろう。 「ああ、実はそうなんだ。普通は術例が増えると道具出しのナースも慣れるので呼吸も合ってくるハズなのだが…香川教授の場合は反対になっている…」  眉間にシワを寄せて囁く。 「反対というと、どんどんペースが合わなくなるということですか?」  相手が小声で話しているのでこちらも合わせる。 「そういうことだ…」 「香川教授を妬んだ誰かの陰謀では?」  しばらく沈黙が有った。沈黙は肯定と同義語だ。この職場では滅多なことは言えないのを祐樹も知っている。 「しかし、星川看護師を交代させるわけにはいかないですよね…」 「今では無理だろうな…一例目の時ならともかく、今では教授の発言力も落ちている…」 「どういうことですか?」 「特診患者を優先させようとしたのが上層部だ。だが、教授は病状のみで手術の順番を決めているだろう?それが当たり前なのだが…上はそうは見ない。上に対する反逆だと取られても仕方がない」  なるほどなと思う。昨夜もそんなことを彼は言っていた。その鬱憤で彼は「グレイス」に足を運ばせたのだな…と今更ながらしみじみ思った。口で聞いていたよりも遥かに重い現実と対峙していたに違いない。そのために気晴らしが必要だったのだろう。アルコールに逃避するような弱い人ではないと思っていたが、あの惨状だと術中死が出てもおかしくない。だからやむにやまれずグレイスに足を運んだのだろう。  黙りこんだ祐樹を柏木先生は決意を秘めた眼差しで見詰めた。 「午後からの手術は俺が第一助手だ。今までは教授だけで何とか制御出来ていたが、今回の件で良く分かった。今後もこの状態が続けば、術死も起り得る。それだけは阻止してみせる」 「分かりました。私も上から見ています。どうせ唯一の担当患者は今CCUですから、何か有れば長岡先生か心臓内科のナースが知らせてくれます」 「そうだな…ようやく決意したよ。俺は香川教授に味方する」  味方…と言うからには敵も多分柏木先生は知っている。が、多分この人は喋らないだろうと思った。 「教授室に呼び出されましたので、行って来ます」 「ああ、しかし叱責はないだろう。安心して行って来い」  祐樹自身もそうだろうと思ったが、曖昧に会釈してその場を去る。中々本音で話せない場所が自分の勤務先だ。しかも香川教授とは特別な関係を持った今となっては余計に。  教授室へ急ぎながら考えていた。道具出しの星川看護師は明らかに故意にテンポをずらそうとしていた。「敵」も道具出しのナースを味方に付けるからには手術慣れしている外科医に違いない。その上大学病院の組織を良く知っている人間だ。香川教授の権限が及ぶのは心臓外科医のみだ。助手が気に入らなければその外科医を手術から外すことは可能だ。  が、麻酔医や病理医が気に入らなければ、麻酔科や病理科の教授と話をつけなければならない。管轄が違う部門には手が出せないのが現状だ。  ナースも同じで一番良いのは総師長にコネクションが有ることだが、それは無理としても手術室の師長にでも話をつけなければならない。そうでなければ交代させることは出来ない。  教授といっても万能では決してないのだ。しかも香川教授は着任してまだ日が浅いし、異色のキャリアと年齢で教授に招聘された人間だ。学内政治はまだ無理だろう。あ、そう言えば救急救命室の北教授とは親しいようだが、この際は何の役にも立たないだろう。  彼の敵…一番考えられるのは黒木准教授だ。佐々木前教授が退官して本来ならば順送りにポストが上がるハズだったのに斉藤医学部長の意向で見送られた。逆恨みしてもおかしくない。    後は、自分にかつて陰謀を持ちかけてきた山本センセ辺りかとも思う。そう言えば手術のスタッフにセンセの名前が載っていたことはなかったように思う。手術のスタッフではなかったし、救急救命室での掛け持ち勤務で多忙なせいもありキチンと把握はしていなかったが。ただ、山本センセの手技は研修医である自分が見ても正直どうかと思うレベルなので、香川教授が使っていなくても不思議ではない。そう言えば医局長の畑仲先生の動向も気になるところだ。  教授室の前に着いた。深呼吸をしてから、ノックをし、名前を名乗る。 「入り給え」  今回は直ぐに返事が有った。 「失礼します」  朝別れた時とは違う、怜悧な表情だった。こちらもいつもの表情に取り繕う。 「座ってくれ」  そう言って、応接セットを手で示す。そういえば、この部屋で座るのは初めてだったな…と思う。それだけ心を許してくれたのだろうか?身体だけでなく…。そうだったら物凄く嬉しい。  秘書らしき初老の女性がコーヒーを運んでくれた。  彼は、対面して座ると、秘書に向かって言った。 「昼食には少し早いですが、少し込み入った話なので…昼食休憩に入って下さい」  彼女は頷くとこちらにも恭しく一礼して控え室に消えた。  部屋に二人きりになると、彼の瞳が一瞬だけ切なげに揺れた。が、それ以上の変化はなかった。 「先ほどの件だが…」  そう言って話し出した。真剣に話を聞こうと身を乗り出す。頭の隅でネクタイは替えたのだな…と思いながら。

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