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第五章 第8話

「星川さん、体調でも悪いのですか?」  その一言で手術室の全ての動作が止まった。さっきまでは必要最小限の単語が香川教授の涼やかな声で発せられていたが、それも止まっていた。機械音だけがする熱帯魚の水槽の中のような空間に変貌する。 「何を仰るのですか?」  憤りで甲高くなった星川看護師の声が響く。 「生憎、私も動体視力は良いほうでしてね。一例目に見た手術の時、貴女は完璧に執刀医のペースに合わせて動いていました。今日は微妙にずれています。執刀医の動きに合わせることは手術室でナンバー1の貴女なら出来るハズです。それが今日は…」 「そんな、私っっ…は一生懸命自分の仕事をしています」 「だから聞いているのです。体調でもお悪いのではないですか、と」 「気のせいではないですか?」 「私の気のせいではないと思いますよ。この手術は、明らかにペースが乱れていることぐらい私にだって分かります」  手術室に緊張した空気が流れた。  ちらりと香川教授の方を見た。彼は感謝の気持ちを込めて自分を見ている。が、教授が発言してはこの場はともかく、後々のことまで響くだろう。黙っていて…という合図を目で送ったが、彼は分かってくれただろうか…?  他の医師達は、それぞれの表情で祐樹を見ている。柏木先生は共感の眼差しでこちらを見て祐樹の視線がさりげなく離れようとすると、目が苦笑の形をした。彼も気付いていたらしい。 「この患者は、私の担当患者です。指示に従って貰いますよ?このままでは術死しかねない」  低い声で恫喝するように言った。  ダテに大学病院に勤務してきたわけではない。執刀医や第一助手といった煌びやかな経歴はないが、心臓手術の立会いは前職の佐々木教授の時代から場数は踏んでいる。  最近は医療改革(現場では「医療改悪」だと言っているが…)で大学病院で研修医をする人間は少ない。   教授や病院長から果てはベテランナースからまで一人前扱いはしてもらえず、勤務時間も長い。  だから公立病院や私立病院で研修医時代を過ごす医師の方が多い。そちらの方が一人前の医師として丁重に扱って貰えるし、勤務時間も若干は少ない。  祐樹が敢えて大学病院に残ったのは高度な手術の腕を磨きたかったからだ。  ただ、大学病院という特殊な場所には様々な思惑が絡まり合う複雑怪奇な場所だということは祐樹も知っていた。この辺りは偶然見た時代劇ドラマ「大奥」と似ているかもしれないな。  香川教授を快く思わない輩が追い落としの陰謀を図っている可能性は否定出来ない。昨夜香川教授が漏らしていたことはこのことなのかも知れないと思った。  教授のために、いやそれよりも患者さんのためにこれ以上手術を長引かせるわけにはいかない。  香川教授の手術なら直接見たのは一回だけだが、アメリカ時代の手術の画像は公開されていたものは全て見た。教授が次にどう動くかは分かっている積りだ。  不幸中の幸いと言うべきか、この手術も香川教授クラスでなければ執刀できない難易度の高いものだった。今まで彼が手掛けてきたのと同じレベルの。  この症例なら彼が指示する少し前に星川看護師に指示を出すことは可能だと思う。それしか方法はないと決意した。第一助手の職場での規定に外れていた。が、仕方ない。  問責委員会に掛けられるかもしれないが、こうなっては乗りかかった船だと思った。  どうせ自分は香川教授の着任の挨拶で反論した時にド田舎に飛ばされることは覚悟した身の上だ。  今度は逆に教授のためにどこかの無医村に左遷されてもいいかと思うようになった。彼と肉体関係を持ったこともあるが、それ以上に彼の手術の邪魔をする者は許せなかった。ましてや患者さんの命が懸かっているのだから。  長い時間が経過したように思えたがそうでも無かったらしい。 「再開する」  凛とした香川教授の声がした。 「星川さん、次は電子メスです」  越権を覚悟の上、発言した。  その声を受けて諦めたように星川看護師が教授に電子メスを手渡す。  術野を遮らないように苦心して次の動きを読む。そして次々と指示を出す。先ほどまではテンポがずれていた教授の手技だったが、優れたピアニストが難曲を難なく演奏するかのようなよどみのない綺麗な手技に変化していく。  気が付くと教授の額から汗は消えていた。第一助手と指示出しの二役の両立は正直難しかったが、彼の芸術的な指捌きを手伝える喜びはあった。 「縫合完了」 「心拍戻りました」  機会係の看護士の声がする。CCUに患者が移送された後、手術室は安堵と、そして奇妙に静まった空気に包まれた。 「ひどいわ、精一杯努めた積りでしたのに…。師長に報告します。師長経由で上層部にも…」  恨みのこもった声で星川看護師が呟く。  祐樹は肩を竦めて彼女に言った。 「お好きなように…」  祐樹を好意的な瞳で見ているのは、教授と柏木先生だけだった。他は皆、無表情だ。内心どう思っているのかは分からないが…。 「ただ、午後の道具出しも貴女でしたよね…。私は生憎スタッフではありませんが、上からしっかりと監視していますよ。そのことを忘れずにいて下さい」  そう釘を刺した。 「田中先生、その辺にしておいてください。彼女も精一杯のことをした筈だ。白衣に着替えたら教授室に来るように。今回の件は、越権行為だ」  冷たさを感じる口調で香川教授は言った。が、瞳は雄弁だ。自分だけに当てられた視線には感謝の光が宿っていた。 「分かりました。直ぐに伺います」 「では、解散」  お疲れ様でした!との皆の合図を受けて香川教授が真っ先に出て行く。  香川教授の一声に皆が手術室を出て行く。星川看護師は祐樹を睨んでから去っていった。おそらく師長に駆け込み訴えだろうと思った。  だが、あの様子は医療過誤に見せかけようとする陰謀の匂いがする。が、当然責任は香川教授が取らなければならない。  それだけは何とかして避けなければならない。

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