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第五章 第7話
適当に時間を潰しても、通常の出勤時刻よりは早い。が、今日の手術の確認をしておく方が良いだろうと判断して病院に向かった。基本的にカルテを含む内部資料は外部には持ち出せない。個人情報保護法の法令遵守が声高に叫ばれている今は特に。
医局に入り、自分の机のパソコンから本日の手術に関する香川教授の指示書をプリントアウトする。
「相変わらず良く出来ているな」
感心しながら読む。今頃は多分教授室に居るだろう彼の姿を思い出す。
今日の手術は二例だが、祐樹が関わるのは午前の一例だけだ。スタッフの名前も確認する。
一例目と二例目で替わっているのは、第一助手だけだった。午前の手術は自分で、二例目は柏木先生だった。
黒木准教授が本来は第一助手を務めてもおかしくないが、大学の方で講義でも入っているのかもしれない。麻酔医や病理医の名前を確認する。外科所属ではないので付き合いは無いが噂では大学病院一と認定されている先生の名前だった。臨床工学士――バイバス術では一度心臓を止め、人工心肺に切り替える。その人工心肺を管理する役目だ――も。道具出しの看護師も手術室のナースの中で動体視力と反射神経がずば抜けていることで有名な星川ナースだった。これだけの手術スタッフが――自分のことは単に担当患者だからだという理由でだろうが――斉藤医学部長の期待の大きさが分かる。通常はこのメンバーが一堂に会する手術は聞いたことがない。
横開きのドアが開けられた。入ってきたのは長岡先生だった。白衣を着ているが、白衣と不似合いな大きなバックを持っている。どうやら内部資料が入っているらしい。祐樹もブランドにそれほど詳しいわけではない。が、いつも彼女が着ている服はボタンにシャネルのロゴマークが入っているし――しかも毎日のように違うスーツを着ている――バッグはエルメスの大振りのバッグだ。しかも祐樹が見ていた限りでは何色か同じ形のバックを服装に合わせてコーディネートしている。バック一個の値段だけで祐樹の数ヶ月分の給料は無くなるに違いない。
が、医学部に入ってから合コンや教授夫人といった人を見ると皆が皆制服ででも決まったようにシャネルのスーツを着てエルメスのバックを持っていたので「金持ちは沢山いるのだなぁ…」と感心していた。
彼女は季節に合わせたのだろう、桜色ではなくこれからの花、ツツジの色をしたスーツを白衣の下から覗かせ、バックを持っていた。医局は私物原則禁止なのだが、彼女は教授のお気に入りということもあり、一種の治外法権だった。
いつもは彼女を見ると自分でも分からないイライラ感を覚えた。が、香川教授と特別な関係になり、しかもその上彼女が教授の婚約者ではないと彼の口から聞かされていた。今朝は先輩医師に対しての屈託のない挨拶が出来た。
慢性的な寝不足――昨夜の情事やその前の緊急外来勤務――だった祐樹は立ち上がり備え付けのコーヒーメーカーでコーヒーを飲むことにした。長岡先生のすぐ傍を通り過ぎた時、彼女は不審そうな顔をしたような気がした。
彼女にそんな表情を浮かべさせる心当たりは全くなかった。気のせいだろうと思い返す。
体内にカフェインを入れてでも、なるべく万全の態勢で手術に臨みたかった。
「あの、これから教授室に行って参ります」
彼女はそう言うと医局を出て行った。
フト、自分も教授室に行きたい欲求に駆られたが、職場で目立つマネは出来ないと自分に言い聞かせた。
プリントアウトした書類を持って、喫煙所に行った。そこで煙草に火を点けて術式を頭の中に叩き込み、第一助手の心得を頭の中で反芻する。そろそろ皆が出勤してくる頃まで煙草を何本も灰にしながら暗記出来るように教授の指示書を読んでいた。
術前カンファレンスが終った。いつもながら計ったように30分で終る。ツイ、マスク越しの彼の顔を見てしまう。視線が絡まったような気がした。「任せたぞ…」というような眼差しだった。
手術は定刻通りに始まった。
「先生が付いて下さるので安心です」
縋るような口振りで言ってくれた患者に麻酔医が全身麻酔を施す。昨日の潤んだ瞳が嘘のように真剣な顔をした教授が言った。
「麻酔が効いているか、田中先生が確かめてください」
頷いて、患者の名前を呼び、返答がなくなるまでそうしていた。
「麻酔、効いたようです」
「では、執刀開始。メス…」
道具出しの星川看護師が手渡す。
術野に入らないように用心しながら手術の補佐をしていた。手術用の手袋に包まれた細い指が芸術的な動きをしていた。
が、フト、違和感を覚えた。
星川看護師の道具出しのペースが教授と合っていない。教授の手技の早さに付いていけていないのか?と思った。
教授の顔を見ると、汗をかいている。自分が足持ちで参加した手術の時は汗を浮かべていなかった。
――まさか、昨夜のダメージが…?――
そう思ったが、足や腰を庇っている様子はない。
そうではなくて、星川看護婦が道具出しのタイミングをずらしていることに気付いた。ある時は一拍早く、ある時は二拍ほど遅れる。そのペースに合わせるように教授は務めているのだろう。
――付いて行ってないのではなく、手術のペースを乱すことが目的で?――
執刀医である教授がそれを指摘するのは大学病院ではタブーだ。手術室所属の全てのナースを敵に回す。師長は侮りがたい影響力を持っている。政治力や実力のない教授のクビを飛ばすことが出来るほどの…
が、自分は一介の研修医だ。手術室では静寂さが求められるが、それよりも優先されるべきは手術の成功だ。
思い切って口を開いた。
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