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第五章 第6話
客室係に電話して、乳液を持って来て貰うように頼んでいると香川教授は物珍しそうにホテルの冷蔵庫の中や冷蔵庫を収納した木製の箪笥の上に揃えられたお茶のパッケージを見ている。
「こんな日本茶まで有るんだな…」
受話器を置いた祐樹に向かって言った。手にしていたのは「梅昆布茶」のパックだった。
「そういうの、お好きですか?」
4時半に叩き起こされたので、時間は充分にある。
「昔時々飲んだことがある…が、LAでは見かけなかったし…」
「昨夜は随分汗をかきましたからね、塩分補給には良いかも知れませんね」
そう言って、部屋に備え付けられていたリチャード・ジノリのコーヒーカップに粉末を注ぎ、これも部屋備え付けの湯沸しポットで熱湯を入れる。
二人分を入れて先ほど朝食を摂ったテーブルで飲む。コーヒーカップなのはミスマッチだったが、教授は気にしていないようだった。
「久しぶりの日本の味だ」
そう言って懐かしそうに目を細めている。
そんな彼の様子をただ、視ていた。
飲み干すと、彼は居住まいを正し、真剣な表情を浮かべた。瞳も真剣な光を宿している。心中を見透かすような勢いの眼光だった。
「一つ、聞いて置きたいのだが…」
「はい?」
「私の就任前に、黒木准教授のために動いていたのは本当だな?そうでなければあんなに宿直が外されるのも不自然だ」
誤魔化すつもりは無かった。それに彼の澄んだ瞳の前では嘘を吐くのは憚られた。
「…本当です。知らない人間が上司になるよりも、何かと目を掛けて下さった黒木准教授が教授に昇進なさるのがスジではないかと思いましたから…」
「…それで…今はどう思っている?」
掠れた声で聞かれた。昨夜散々喘がせたので、今朝の彼は少し掠れ気味の声をしていたが、それとは違った掠れ方だった。しかも掌が震えている。
「斉藤医学部長の御判断が正しかったと思っています。外科医としての手技はもちろん、手術の前の緻密な指示書類など、香川教授は成るべくして教授に成られた方だと…。黒木准教授もそう思っていらっしゃると思いますよ」
本音だったので真摯な口調で返答した。
その途端、手の震えが止まる。
「…そうか…ならば…良い」
薄い唇を微笑の形に刻む彼を、ずっと見ていたい欲求に駆られる。
ドアチャイムが鳴り、客室係の来訪が告げられた。
立ち上がり、礼を言ってボトルを受け取る。気を利かせたのだろうか、二本のボトルが恭しく手渡された。
彼の傍に寄り、フタを開ける。
「この香りですから…ね」
確認するように鼻先にボトルを近づけた。昨夜のコトを思い出したのだろう、彼の瞳が切なげに揺れる。
「ああ、覚えた」
その表情に、そそられる。断腸の思いでキッパリと言う。
「ではチェックアウトに行きましょう。」
五時半のホテルの廊下は人の気配がない。階段でつまずきかけた教授の手を取った。自分よりも細く華奢な指を離したくなくて、階段ではずっと握っていた。彼も抵抗する素振りは見せず逆に力を入れて握り返してきた。
昨日、提示した教授のカードで精算を済ませる。彼がサインをしている間に、クラブフロアの従業員に「JRで京都まで行くのと、タクシーで行くのではどちらが時間のロスが少ないか」を聞いてみた。
確実なのはJRでしょう…との返事を貰い、それで良いかと教授に視線で尋ねた。頷きで返事をされたので、JRの駅に向かった。
京都行きの快速急行は朝早いせいか、車両は空いている。対面して四人が座ることの出来る椅子に二人だけで座る。後ろの座席にも人は居ない。
「真っ直ぐ、職場に行きますか?」
「ああ、その積りだが」
「では私もそうします。実は今日の手術の指示書類を精読したいので」
フト気付く。
「私はネクタイをロッカーに置いてあるのですが教授は如何ですか?昨日と同じネクタイなら勘繰る人間も居ますよ。特にナース達は鋭いですからね」
「大丈夫だ。私のロッカーにも入っていたハズだから…部屋に行って直ぐに替えれば問題ないだろう」
そっと周囲を見回してから、彼は、座席の仕切りに置いた祐樹の手に恐る恐るといった感じで自分の手を重ねた。
少し冷たいその手の感触に背筋がゾクリとする。手を反転し、掌で彼の指を掴んだ。
拒まれないことが分かったのか、少し力が抜ける。
周囲に他人が居ないのを良いことに指先で戯れる。
あっという間に京都に着く。タクシーで職場に向かうと言った教授に、流石に同じタクシーでの出勤はマズイだろうと考えた。
「では少し時間を潰してから出勤します」
そう言って、京都駅の雑踏の中目礼してから別れる。彼は自分に向かってさり気無く手を上げ、微笑してタクシーに乗り込んだ。
彼の乗ったタクシーが見えなくなると駅前の外資系のコーヒーショップの外側に座り煙草を取り出した。何時もなら苦味を感じる煙が今朝は妙に甘く感じた。
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