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第五号 第5話
コーヒーカップをルームサービスの係員が運んできたテーブルに置く。その手はやはり震えている。何かを堪えるように下を向くとしばらく間を置いて呟くような声で言った。
「ああ。私は構わない」
その返事を嬉しく感じている自分を自覚した。が、彼がどれくらい自分のことを気に掛けているのかフト知りたくなってしまう。
「教授の方が勤務時間は規則的ですよね…。だから私に合わせて貰うことになりますが…イキナリ宿直を代われとか言われますし…」
「そうだな」
「かと言って、携帯電話で連絡を取るというのも面白みがありませんよね…」
彼が俯いていた顔を上げた。何時ものように強気な瞳をしていた。
「電話も掛けて来なかったクセに…あのメモ用紙も無くしたとか言うんだろう?」
怒気を孕んだ声だった。どうしてそんなに怒るのか理解に苦しんだが、宥めるように反論した。
「無くしてなんて、いませんよ。ちゃんと手帳に挟んであります。それに番号も暗記しました」
番号を言った。するとまた下を向く。
「教授こそ、私の電話番号の付箋紙…番号登録してくださいましたか?」
「してない。けど、暗記はした」
今度は彼が数字を言う番だった。相変わらず俯いたままだったが。
「電話ではなかったらどうやって約束する?」
彼の方から聞いてきた。職場でも何とかして自分に注意を払って欲しがっていることに気付く。こういう気持ちは初めてだった。相手が職場の上司、しかも雲の上の人だからだろうか…。
「そうですねぇ…。昨夜、教授に使った乳液の匂い、覚えていますか?」
昨晩のコトを思い出したのだろう、白皙の顔が紅色に染まる。頷くだけの返事をした。
「こんな高級ホテルならリクエストすれば貰えると思いますから、夜、オフなら定時前に手と首にでも塗っておきますよ。ちゃんと気付いて下さいね。そして、このホテルのクラブフロアにチェックインして下さい。クラブフロアに居るなら鍵はテーブルの上に置いて本でも読んで…部屋で待つなら、私の名前をスタッフに伝えておいて下さい、部屋を教えるようにと」
一言一句聞き漏らさないような真剣な顔をして聞いていた彼が言った。
「それは、何回かこのホテルを利用するということか?」
「ええ、マズいですか?」
教授である彼は雑誌などでも知られている。何しろ「神の手を持った」とまで謳われているのだから。
「いや、それで…いい」
どことなく満足そうに聞こえたのは気のせいだろうか。
「では、そういうことで…。ところで…」
背筋を伸ばして彼の瞳を覗き込んだ。たじろぐこともなく教授も見返して来る。
「昨夜、『満足しましたか』とお伺いしたら頷かれたのは覚えてらっしゃいますか?」
「…覚えて…いる」
今度は下を向くことなく即答した。
「その前に交わした交換条件も?」
「勿論だ」
「では、話して戴けますね?」
「絶対、口外しないと誓えるか?」
確かめるような口調だった。
「教授が、結婚前に男と遊ぶような人間でなければ誓えますよ。でなければ彼女が気の毒だ」
それはあり得ないような気がして言う。万が一長岡先生と婚約していたら、昨日の彼の初心な様子からして男と遊ぶような軽薄な人とはどうしても思えなかった。長岡先生に「気の毒」というほどの思い入れは無かったが…。
「遊んでなんか…」
反論しかけて黙り込む。眼差しで続きを促した。彼が話し易いように軽口めいて付け加えることも忘れない。
「もし、私が口外したとお思いになったら、『倫理問題審査委員会』通称エシックス委員会にでも告発されても構いませんよ。まぁ、若干扱う問題が違うような気はしますが、私の居場所は大学病院にはなくなるでしょうね…『部下にセクハラされた』とでも…」
冗談が分かったのだろう、少し明るい顔をして切り出した。
「彼女とは別に何でもない。アメリカの病院時代に知り合って優秀な内科医だったから信頼していた。日本に招かれた時、大学病院の硬直性がどれくらいかを知りたくて彼女の招聘を打診してみただけだ。それに彼女にはれっきとした婚約者が居る。名前は伏せるが祐樹も知っているハズの大病院の後継者がお相手だ。」
「……しかし、噂では……」
反論しかけた。
「ちょっとした理由が有って、婚約者の名前を明かせなかった時に私がそれとなく誘導しただけだ。でも、私と婚約しているとは一言も言っていない」
肩をすくめた香川教授に、ウソは含まれてないと思えてきた。
婚約者が居ないと明言され安堵したのは事実だった。
そういえば、彼女が着ている服や持っているバックなどは祐樹でも判別可能な高級ブランドだった。助手という肩書きを持つ女性でもあれほどのモノは買えないだろうと思った。
香川教授もどれほどの財産を築いて帰国したのか、詳しいことは知らないが、今は独立行政法人の教授だ。婚約者にあれほど派手なプレゼントはしないくらいの思慮分別はありそうだ。いや、プレゼントはしても着てこないように指導する立場のはずだ。
部屋のノックで我に帰る。頼んでいたクリーニングが出来たらしい。
「そろそろ出勤しますか、教授」
「ああ、今日の第一助手、頼んだ」
そう言って微笑む顔がとても綺麗だと感じた。
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