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第五章 第18話
こんなにも真率な気持ちになったのは初めてだった。
もともと祐樹は刹那の熱の交換で満足する性癖を持つ。――と言っても、この世界では普通のことというか多数派だったが――特定の恋人が居た時も、仕事を優先させてきた。
研修医として色々な大学病院の医師という人種を見てきたが、保身に汲々としている人間が圧倒的に多かった。
が、香川教授は「術死」について、自分の出世に関わるからという理由で恐れているわけではないことは痛いほど良く分かった。
そうでなければ佐々木前教授との相談のアポイントメントを取ったのは祐樹なのだから、祐樹1人で佐々木教授の邸宅に行かせただろう。星川看護師の件を大袈裟に言い立てるためなら祐樹に報告させればそれで済む。
――この人は、保身や権力欲しさに手術をしているのではない。ただ患者さんのために一生懸命なのだ――
と、そう思えた。
ビデオ画面を見ている時、隣に座った教授の横顔を見てしまったのが、原因か…と思う。
道具出しのタイミングがずれる度に、フォロー出来ない自分の不甲斐なさを嘆いていると思われる憂い顔がさらに自省しているような顔になっていた。
それは星川看護師に対する怒りではなく…。
多分、自分の推測が合っているだろうと、試しに聞いてみた。
「教授、論文ははかどっていますか?」
先ほどの淫らな悪戯はお互い忘れたフリをしている。
祐樹は、そんなフリでもしなければ彼の未だ見ぬ元恋人に対して嫉妬してしまうだろうとの確信があった。
香川教授の考えは分からない。触れた時は湿った吐息を漏らしたが、その後はいつもと変わりなかった。
「論文?そんなモノを書く時間が有ると思うのか?」
「しかし、いくら腕の良い外科の教授でも論文を学術誌に発表されないと評価はされませんよ…」
いくら手術の腕が良くても学会での評価は専門誌に載った論文の数で決まる。裏返せば、論文の数が多ければ多いほど学会での評価は高くなる、手術の腕は関係ない。
「評価…か。私は充分評価されてきた積りだ。教授の地位にはしがみつきたいとも思わないが、手術のスタッフを自分の部下の間でのみ決められるというのは教授の特権だから…それだけは手放したくは…ない…な」
率直に自分の考えを吐露しているように感じる独白だ。
初めて会った時から顔やスタイルは好みだった。今は患者の命を救うために孤軍奮闘している彼を見て、その生き方に惹かれていることを自覚した。
何か、気の利いた言葉を…と思っても咄嗟のことで出て来ない。IDカードを出し、病院の敷地を言葉も無く歩いた。
月明かりに照らされる彼の横顔が「神の孤独」を表現しているかのように見えた。それも月の雫を集めたような綺麗な神だ。
身体も触れ合わず、言葉も交わさずに夜間二人きりで意識している相手と歩くというのも祐樹は初めてで、胸が高鳴る。
イマドキ高校生でもあるまいし…と自分に突っ込みを入れるが、気持ちに嘘はつけない。
医局は明かりが消えているのを外側から確認する。宿直の先生は宿直室で仮眠中なのだろう。さて、誰だっただろうか?
「夜勤のナースで顔見知りの人から情報収集してきます。教授は、昨夜のコトもありますし、今日も二例の手術でしたので…教授室で少しでも休んで下さい。それに明日の手術の指示書を作成されていたのでしょう?お疲れだと思いますので」
不自然なほどの沈黙の時間が流れた。不審に思って顔を良く見ようと目を凝らす。が、どんな表情か見極めがつかないうちに、教授が形の良い唇を開いた。
「長岡先生の部屋に明かりが点いている。彼女は手術室には入室出来ないが…良く手術は見学しているし、女性の視点で見ているかも知れないから…まずは彼女に聞いてみないか?」
長岡先生は言うまでもなく医師の立場だ。ナースとは一線を画している。それほど情報は持っていなさそうだが、教授が祐樹の二の腕を引っ張るので仕方なく着いて行った。
ノックの音に応じた長岡先生は夜間の訪問者に大袈裟なほどに驚愕したことを隠せなかった。
――知らない人間ならともかく、香川教授は上司だぞ――と思う。
祐樹1人が入ったのなら警戒するのも分からなくはないが。…自分の性癖がバレていなければだが…。
香川教授は残った理由を挨拶代わりに聞いた。彼女は患者さんのことが気掛かりで残っていたのだと言った。
「単刀直入にお尋ねします。理由は言えませんが…星川看護師について何か気付いたことはありますか?」
夜間だからか、少し化粧崩れした長岡先生は不思議そうな顔をした。
「手術室所属で、教授の道具出しの看護師さんですわよね?」
「はい。そうです」
「親しくお話ししたこともありませんけど…」
やはり、誰かしらナースを掴まえて聞くべきだった…と祐樹が後悔した時に「あ!」と言った。
「でも、教授や田中先生に言うべきことかしら…?男性に言うほど…」
独り言のような感じだった。
「どんな些細なことでも結構です。教えて下さい」
教授が遮るように言う。こういう言い方をする香川教授を見るのは初めてだった。
色々な面を見せる彼の多彩さを知るにつけても本質を知りたく思った。きっと綺麗だろうな…とぼんやり思う。
「今朝なんですけど、彼女が新しいバックを持って来ていて…。他の看護師さんにも自慢していたのを見たんです。
私も気に入っているお店なので、カタログを送ってくれるのですが、そこに載っていた新作というか…新色と言った方が正確なのですが…のバックでした。私もこの季節に相応しい、あの薄いピンク色のバッグが羨ましかったもので、ツイ…」
祐樹は、長岡先生の机の傍に無造作に置いてあるバックを指で示した。
「長岡先生、その店ってこのブランドですか?」
「ええ、そうですけど…?」
香川教授も長岡先生と祐樹の顔を交互に見詰めている。長岡先生のバックを見て、祐樹が聞こうとしていることが分かったようだった。険しい顔をしている。長岡先生に対してではなく。
「で、形も同じですか?」
「ええ?でもそれが何か?」
無理もない。長岡先生は何も知らない上にお金持ちらしいし、婚約者も大病院の御曹司だ。庶民の祐樹とは格が違う。
「このバックは私の給料の数ヶ月、いや年収かもですが……くらいです。
ベテランナースも高給取りですが…ね。長岡先生には躊躇いもなく買えるバッグでも買えない人間の方が多いんです。皆が皆、長岡先生のように高給取りではありませんから」
最後は余計なことを言ってしまったと反省した。
長岡先生がオドオドと言い訳するように言う。
「実は…私、いくらお給料を貰っているか知らないんです…。銀行口座を全部一緒にしているので…」
長岡先生と付き合いの長い香川教授も唖然とした顔をしている。
――何なんだ?この不景気な世の中で浮世離れした人は?――
思わず突っ込んでしまった。
「他に収入があるのですか?もしかしてジツは作家とか…?」
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