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第五章 第19話
「とんでもないです。父母が私名義で買ってくれた株式の…配当金や、マンションの家賃収入…ええっと、それから何だったっけ…。ああ…思い出せないです……。
そんなこんなが全部一つの口座に入ってくるので…。
しかも預金通帳ではなくカードしか使わない…ので、大雑把にしか把握していません。それにお買い物は…更に…別の口座から引き落とされる…クレジットカードを使うことも多いので…」
下を向いて叱られた子供のように言う。
「でも、税金の申告などは?」
香川教授が彼女を庇う理由がおぼろげながら分かった。確かにこれは危なっかしい。
「数字は…患者さんの薬剤の投与量などは一回見ただけで暗記出来るのですが…お金は難しいので…全部税理士さん任せで……。
税金も幾ら払っているか、税理士さんの書類は見ますが…それでも、覚えていないのです…」
これ以上聞いていると頭が痛くなりそうだった。自分と経済観念が違いすぎて。
香川教授が口を挟んだ。
「しかし、エルメスのバックは偽物も多いと聞きましたが?」
先ほどの当惑顔からカチリと表情が引き締まる。
医師としての長岡先生と同じように確信に満ちた顔つきだった。
「去年でしたかしら…、あの形のバックはブランドの刻印が入っていない、つまり『偽物だ』と刻印がないことで分かる偽物バッグを海外で購入しても日本の税関で没収されます。
バックの形だけで没収対象と看做される稀有なケースです。他のブランドとはその点が違いますね。ですから最近、購入したのだとすれば、それは本物しか有り得ないです」
先ほどのしどろもどろ且つオドオドした口調とは対照的に断言している。
ブランドは良く知らないが、長岡先生がシャネルのスーツとエルメスのバックをとっかえひっかえしているのだから、彼女の知識は正しいのだろう。
「そうですか…有り難う御座います。とても参考になりました」
香川教授が頭を下げる。慌てて祐樹も倣う。
長岡先生は、二人に――というより、香川教授に、だろうが――ブランドの話をして、頭を下げられたことに対して、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「いえ、私の知識がお役に立てて嬉しいです」
そんな言葉とは裏腹にまた途方に暮れた顔つきになる。その表情の変化は見ていて面白い…と、彼女に対するわだかまりの無くなった祐樹はツイ思ってしまう。
「患者さんに特に変わったことは有りますか?」
香川教授が念を押すように聞いている。すると、また自信に満ちた表情に切り替わった。
「いえ、大丈夫です。私も帰宅しようとしていたところですから…」
一体、どういう精神構造なのか調べてみたい誘惑に駆られる。
「お疲れ様です。しっかり疲れを取って下さい。では、また明日、宜しくお願い致します」
香川教授はそう挨拶すると、祐樹に視線で合図をする。
――着いて来てくれ――と。
合図がなくてもその積りだったので、小さく頷いた。
教授の後ろに続いて長岡先生の部屋を出る自分の背中に彼女の視線が当っているような気がした。それは友好的な視線のようだった。
彼女が視線を当てる理由に心当たりは無かったが。
それとも、午前の手術の様子が医局では当然噂になっているだろうか。長岡先生も自分の部屋を持っているとはいえ、医局で仕事をすることもある。それで自分が香川教授の手術の手助けをした件を聞いて、香川教授の腹心の長岡先生が感謝の眼差しを送って来ているのかも知れないと思う。
やはり誰も聞いて居ない場所…となると、大学病院では教授の部屋しかない。
「星川看護師の件だが」
応接セットに座った教授が口を開く。祐樹は教授と自分用にコーヒーを入れて、対面して座った。
「やはり、お金が絡んでいるのでしょうね…。ナースの給料がいくら良いと言っても、病気の母上を抱えている以上、エルメスのバックは買えないと思いますよ…。お母様が亡くなったとすれば生命保険金…という線も考えられますが、彼女は忌引き休暇取ってませんよね?」
香川教授が心の底からだと分かる、大きな溜め息をついた。
「ああ、私の手術は全部参加しているので休暇は取ってない。…買収されて…か…。買収される方もされる方だが、しているのは誰なのだろう?やはり医局の一員だろう…な」
「誰がしているのかまでは…ただ、星川看護士もバックは100万以上のお金が入らないと買わないと思います。
100万単位、いやもう一桁上かも知れない高額なお金を受け取るのとなると病院内はもちろん、病院の外でも人目に付きます。もしかしたら銀行口座振り込みでは?」
「確かに…。だとすれば誰が振り込んでいるか分からない…お手上げだな。銀行は秘密保持の義務が有るハズだ」
目を伏せた教授の顔は疲労の色が濃い。一番の理由は、多分昨夜自分が無理をさせたせいだと思う。が、手術の心労も大きいに違いない。蛍光灯の明かりに照らされた彼の目の下が蒼い。睫毛の影が映っているので尚更だった。
口付けて、憂い顔を取り去りたかったが、ここは職場だ。
彼は職場とプライベートはきちんと分けておきたいタイプらしい。祐樹もそうなので、自制する。
――銀行口座を使っているとすれば、銀行のミスで振込み人までが分かったことが有ったようなーー
フトどこかでそう聞いたことを思い出す。
こんなことを聞けるのは、祐樹は行きつけのゲイバー「グレイス」しかない。自分の属している社会が狭いことは自覚している。自身の記憶を引き出そうと黙って考えていた。
黙りこんだ祐樹を教授は目を凝らして見詰めている。
「グレイスで、知り合いの弁護士の先生が興味深いことを言っていました。もしかしたら星川看護師の件も分かるかも知れません。あくまでも、もしかしたら…ですが。」
「知り合いの弁護士?」
少し不安そうに返事が有った。彼の瞳が切なげに揺れている。
彼が不安そうなのは、過去の男性遍歴の1人かと思って嫉妬してくれたら…と心の隅で考えた。多分彼は、はっきりと聞いて来ないだろう。ならば誤解を解いておきたい。
「昨夜、私が話していた男性です。あの方は私の飲み友達の1人ですよ…それ以上の関係は有りません」
真剣に言い募ると、彼はふわりと微笑んだ。
「そうか…祐樹がそう言うならそれを信じる」
「そうです。どちらかというと落ち着いた静かなお酒が呑みたいとのことで『グレイス』に今日も来ているかも知れないので、今から行ってみます」
善は急げと、腰を上げる。
「私も一緒に行く」
即答だった。
「駄目ですよ。教授はお疲れなのですから…。私が1人で行って聞いて来ます」
「いや。元はと言えば、私の問題だ。大丈夫…体力には自信がある。だから一緒に…」
決意を秘めた声に、逆らえない自分を自覚した。
溜め息を一つついて、机の上のコーヒーカップ――二人ともブラックでコーヒーを飲むので、片付けるのに手間は掛からない――を重ね、小ぶりの給湯室で洗う。教授の体力のことを考えながら。
言い出したら聞かない人だというコトは分かっている。連れていくしかないだろう…。自己主張はほぼ皆無だが、仕事のこととなると人が変わったようになるので。
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