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第五章 第20話

「そうと決まれば『グレイス』に行ってみましょう」 「ああ」 「弁護士の先生の名前は杉田先生です。大学病院、御用達の先生ですし、味方になってくれると思いますよ…」  弁護士の中には、医師に対して厳しい態度を取る人間も存在する。万年野党で政権は絶対に回って来ない政党にシンパシーを感じている弁護士は医師の敵に回ることが多い。  王道の医師達は保守政権と密接な関係が有る。そんな先生達がが杉田弁護士に弁護を依頼した過去がある以上は、杉田弁護士は医師の味方のハズだ。  医師と弁護士…以前は全く関係のない職業のハズだったが、最近は医療過誤や医療ミスで患者に訴えられることも多くなった。  香川教授は、手術の際にムンテラ――手術に対するメリット・デメリットの説明――をこの大学病院の教授の中で一番誠実に行っていることは祐樹も知っていた。こういう医師が執刀医だと、術死が起っても訴えられることは殆どない。  だが、自分が執刀医として手術をした患者が術死――それも人為的な――をしてしまうと彼の心情として…星川看護師ではなく…執刀医という手術室の責任者として自分が許せないと思ってしまうのだろうな…と思う。  余り遅くまで彼を連れまわすことは本意ではない。昨夜の情事と今日の手術、そして佐々木前教授の御宅訪問で疲れ切っているだろうから。  出来るなら彼を休ませたかったが…。  祐樹だけでも杉田弁護士と交渉は出来る。が、一介の研修医だけが交渉の席に着くことと、教授である香川先生が一緒の方が交渉も上手く行く可能性は高い、悔しいことに…。  早速香川教授の部屋を出て、夜間通用口に向かった。そちらにタクシーが列をなして停まっていることも知っていた。  恭しくドアを開けてくれるタクシー会社の車が一番前に停まっていた。  先に教授を乗せ、隣に座った。職場を出ると、彼も自分の衝動を隠そうとはしない。さり気なく手の甲を祐樹の手の甲に密着させる。彼の手は冷たかったが、その冷たさが心地良い。  運転手にグレイスの場所を大まかに告げて急いで貰う。観光地である京都ではあるが、夜になると道は空く。  今回の運転手は客と世間話をするタイプではなかったらしい。黙々と運転している。昼間の渋滞が嘘のような道を走り、目的の場所に着いた。  財布を出そうとする祐樹よりも早く、スーツの内ポケットから数枚の千円札を出して運転手に渡したのは香川教授だった。  こういうところは行き届いているのだな…と思う。佐々木前教授の手土産の件といい…。  きっと良い家庭で育ったに違いない…と思う。  教授室から気になっていた、彼の目の下の蒼さ、それを解消したくて、彼の腕を優しく掴みグレイスが入っているビルの非常階段の踊り場にエスコートした。ここはちょっとしたデッドスペースになっていることをこれまでの経験で知っていた。  他人が居ないのを確認して抱き締めた。一瞬驚いたように身体を硬くした彼だったが、すぐに祐樹に凭れかかる。  両手で丁重に彼の顔を持ち上げて、気になっていた目の下に唇で熱を送り込むようにした。反対側の目の下は指でマッサージをする。  彼の腕が背中に回されるのを感じた。そして甘い溜め息が聞こえるのも。  しばらく唇で目の下を愛撫すると、彼の目の回りは朱を刷いたような色に染まっていく。それを確かめて指で触っていた左目に唇を押し当てた。同じように熱を分けていると、朱色に染まった彼の目つきがとても扇情的だった。  衝動的に唇を合わせる。合わせるだけの口付けの積りが、密着している唇の表面が少し弛み、二人は舌を絡ませる。舌の戯れに水音が混じる。  それだけ激しくお互いを貪っているのだな…と祐樹は熱くなった頭の隅で切れ切れに考えていた。唇へのキスの最中は目を閉じていた。が、フト薄目を開けると目の前に壮絶に色香を纏った彼の姿を視認する。  彼は目を閉じてキスに夢中になっているようだ。背中に回された手の力が強くなっている。  こんな顔をした彼に、同じ性癖を持つ人間が集まっている場所に連れて行ったら…皆が狙うだろう。以前グレイスで彼がモテていたのを知っているだけに尚更。 ――所有の証を彼の身体に刻印したい――  突然ながら切羽詰った想いだった。  うなじに唇を落として甘く噛んで吸うと、咽喉声で彼は応じたが、次の刹那我に返ったのだろう。 「服で隠せないところは…止めて欲しい…」  欲望に濡れた声だったが、キッパリと言った。 「では、服で隠れるところならいいんですね?」  そう言うと、小さく頷いた。次の動作には祐樹も呆気に取られた。意外過ぎて。  彼は高級そうな上着を脱ぎ、躊躇なくパサリと床に落とす。お世辞にも掃除が行き届いているとは言えない場所なのに。ネクタイを解き、プレスの効いたワイシャツのボタンを三つ外す。  彼の鎖骨から、胸の尖りまでが見える。 「ここに…」  そう言って指でなぞっているのは鎖骨の上だった。そこには昨夜祐樹が付けた刻印が色を変えて残っている。 「仰せのままに…」  そう言って、彼の指に口付けしてから鎖骨の上部を唇で強く、甘く噛んだ。  彼の背中が刺激に合わせて反り返る。その背中を抱き留めて彼の白い皮膚に真紅の花を咲かせることに熱中した。彼の体温が上がり、自分とお揃いの香りが花の匂いのように回りにほんのりと香っている。  彼の鎖骨の上に咲いた真紅の花を満足そうに見詰めて、彼の着衣を元通りにした。 ――これで、教授も他の人間に裸体は見せられないだろう――  そう思って、グレイスの扉を開ける。職場の悲しい習性で、扉を開けたのは良いが、教授を先に通してしまう。祐樹は扉を持ったままという有様だ。  店内がざわめくのが分かった。  慌てて店内に入ると、彼を見つめている人間に牽制の眼差しを送る。祐樹はその気になれば、視線で焼き殺せるのではないだろうか…と自分でも思ってしまう剣呑な目つきが出来る。その才能をいかんなく発揮することにした。普段はしないとっておきの武器(?)だ。1人1人に射抜くような眼差しを向ける。  その目の隅に杉田弁護士がカウンターに座り1人で呑んでいるのを見つけた。  無駄足でなくて良かったと安堵した。 「こちらです」  そう言って香川教授を杉田弁護士の隣に腰掛けさせた。

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