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第五章 第21話
一瞬にして凍りついた店内に祐樹は心の中で快哉を叫んだ。これからは教授のオフは自分が独占したいと思っていたが、何せ忙しい職場だ。教授の行動を見張ってはーーというと言葉は悪いーーいられない。
彼が1人で飲むとしたらこの店くらいだろう。常連客を睨み倒したお陰で皆、コソコソと自分や香川教授のことを見ている、それも怖そうに。ちょっとヤクザにでもなった気分だ。が、この目つきは患者さんの前では封印しておこうと固く決意する。
「こんばんは。杉田さん。こちらは上司の香川…さん」
この店は特殊な性癖を持つ人種だけが集まるので職業や名前はイチイチ突っ込まないのがルールだ。祐樹も苗字を知らない常連客も多い。
だが、敢えて教授の名前を出した。
「初めまして。お噂はかねがね。杉田と申します」
ヒマワリの花が掘ってある弁護士バッジを外した杉田は、――ほう、この人が――という感嘆の眼差しを浮かべて挨拶した。
教授も丁重な挨拶を交わしている。
しかし、祐樹はこの店で相談出来るような種類の件ではないので、会話に割って入った。
「今日は奢りますから、店を替えませんか?食事は…済んでますよね?当然…」
ジツは教授も自分も夕食はまだだった。「当然…」と語尾に切なさをブレンドした口調が分かったのか、杉田弁護士は笑って言った。
「まだなら付き合うが?」
彼は相手の顔色を読むのが商売だ。祐樹が何か相談したいことがあるのを気付いたに違いない。
「夕食は、和食でいいですか?」
杉田弁護士は香川教授に向かって聞く。
教授が招聘される前に祐樹が愚痴を零した件も覚えているらしく、香川教授の目を盗んで意味深に笑う。
香川教授は祐樹の顔を窺うように見てから返事をした。
「はい。お任せします」
「個室希望だろうな…きっと」
「はい、仰る通りです」
いつも杉田弁護士に話しかけるよりも緊張した声で祐樹が断言した。これからの企みは杉田弁護士の力がどうしても必要だ。
しかも最悪なことに万が一露見すれば杉田弁護士の弁護士生命に関わる。どうしても協力は必要だったが、杉田弁護士には断られる可能性が高い頼みごとだった。
杉田弁護士が携帯電話でどこかの店に予約を入れているのを横目にどう攻めようか考えていた。
グラスワインを二人が呑み終えるのを見計らって杉田が言った。
「そろそろ良いだろう。祇園のお茶屋などではなく、普通の座敷の店なのだが、そちらへ移ろう」
「その前に、少し失礼」
そう言って香川教授は洗面所に姿を消した。
「田中クンは宗旨変えをしたのかね?」
何を言われているのか一瞬分からなかった。
「はい?」
「彼が常連から口説かれるチャンスを一睨みで黙らせた…あれは痛快だったな…。今の仕事を辞めたら刑事にでもなれば良い。あるいは検察官もいいかも知れないな。あの目つきで睨まれたら犯人は恐怖の余り自白するだろう」
明らかに茶化しているのだと思って笑って聞いていると、杉田は真顔になった。
「宗旨替えと言ったのは、今までの田中君は『来る者拒まず、去る者追わず』の恋愛だった…」
「確かにそうですね…去る者は追いませんでした、一回も…」
「今日、君は彼を狙っている人間に対して明らかに威嚇をしていた。これは『連れ去って欲しくない』という願望の表れではないのかね?独占欲とも言うが」
そういえば、そうかも知れない…と、ほろ苦く思った。確かに香川教授は自分のするコトに悦んでいるように思える。が、本当に自分のことが好きかどうか分からない。
男性が好きなのは確かだろうが…LAの病院に勤務していた時に誰かを好きになり、日本に戻って来て、たまたま同じ性癖の人間を見つけたので…ということは充分に考えられる。
LAはゲイに取っては住み易いと聞いているので尚更…。
だだ、今は正面切って聞く勇気が持てない。
――今度の逢瀬で聞いてみるか――
そう決意したのと、香川教授が洗面所から出て来たのが殆ど一緒だった。
グレイスの勘定も香川教授が持ってくれた。彼なりの心遣いなのだろうが、祐樹自身が引っ張りまわしている上に杉田弁護士に断られると進退窮まってしまう。せめて自分がココの勘定だけでも持ちたかったが、笑って謝絶された。
「5分程歩くが、構わないだろう?実は顧客に連れられて行ったことのある、老舗で名前の通った店ではないが、完全防音に近かった」
杉田が教授に言う。
「勿論です。職業柄、歩くのは苦になりません」
「それは健康に良いね」
社会的地位からすると、同レベルだろうが、杉田弁護士の方が年はかなり上だ。香川教授が敬語を使っている。
「歩くよりも、じっと同じ姿勢でいることの方がもっと疲れますよ」
祐樹が口を挟む。患者さんを固定する必要が有る時は3時間同じ姿勢という経験も有った。
「そうですね。執刀医になればブレッシャーはありますが、手を動かしているし集中していますから…」
そんな話をしているうちに杉田弁護士の予約していた店に着く。
それ程大きくはないが、座敷は全てが離れになっており密談するにはもってこいだった。
杉田弁護士は酒のつまみ程度の料理を注文し、教授と祐樹は夕食を注文した。
仲居さんがビールを持って来て乾杯した。その彼女が消えると、杉田弁護士は座りなおし、改まって聞いた。
「私に相談とは?」
背筋を伸ばして正座している祐樹が言った。
「銀行口座の取引状況、全く関係のない第三者に分かりますか?」
見開いた目が面白そうな光を帯びる。
「やって出来ないこともない。運が良ければ、だけれども」
教授が言う。
「しかし、どうやって…?」
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