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第五章 第22話
食事が一段落するまでは取り止めのない世間話をした。「グレイス」にいる時とは異なり普通の社会人としての会話だった。
和食の店に相応しく杉田弁護士は珍しく日本酒を呑んでいた。香川教授の目を見据えて真剣な口調で言う。
「さてと…香川教授は、何故第三者の取引口座の明細を見たいのか、それを伺ってから協力するか、しないかを考えてみたいのです」
横に座っている香川教授が苦痛に満ちた表情を浮かべる。自分のせいだと思っているのがありありと分かる顔だった。
堪り兼ねた祐樹は替わりに事情を説明する。教授は自分の実績が低下するのを恐れているのではなく、このままでは術死が必ず起るという悪夢に苛まれている。
その上、手術室の責任者としてスタッフの不行き届きは全て彼の責任に帰結する。それを本人に語らせるのは残酷なような気がした。
術死は執刀医の悪夢そのものだ。たとえ、星川看護師のせいだとしても結果は執刀医の責任となる。それを必死に、それこそ心血を注いでフォローしているのをこの目で見てきたので黙っていられない気がした。
手術室での星川看護師の不自然な道具出しのタイミング…これは杉田弁護士には理解出来ない話だと思ったので、外科手術のことを補足として語る。
それから、彼女には手が出せないはずのブランドのバックを購入した件まで。
「成る程な。だから銀行口座の流れが知りたいのか…。
心情的には良く分かったが、万が一露見したら、私の弁護士生命が絶たれる。弁護士資格と弁護士活動は別なんだ」
「そうなのですか?」
香川教授が興味深そうに聞いた。
「君達の世界はまだまだヌルイからな…例えば田中先生が、ヘマをして今の職場を解雇されても他の病院で働くことは出来るだろう?医師免許を持っている限り。
しかし、弁護士は弁護士会に登録していないと弁護活動は出来ない。不祥事が発覚したら、弁護士会の名簿に載らなくなる。すると、収入の道も絶たれる。君達の世界で表現すると『医師免許剥奪』と同じことになる。
協力したいのはヤマヤマなのだが、これも取引と行こうじゃないか?」
頭ごなしに断られなかったのはまだ脈があるということかと思う。
「取引」と言うからにはこちらも何か差し出さなくてはならない。それに香川教授が耐えられるかどうかだ。特に彼は学内での派閥争いや権謀術数とは関係なく教授になった稀有の人だ。
従来の教授人事だとこういうことは起らない。自分の派閥が出来ているからそれに乗ればいい。手術スタッフも自分の目で見て選ぶことが出来る。その土台が出来ていない香川教授は明らかに不利だった。
「取引…ですか。弁護士報酬以外にも?お金の問題ではないのですか?」
意外なことに口を開いたのは香川教授だった。が、それだけ彼が精神的に切羽詰っているということだろうな…と、痛々しく思う。
「余分なお金を貰うと、つまり弁護士報酬を貰ってしまえば余計に万が一のことがあれば私は言い訳出来なくなる…」
まるで謎々をしているような会話だった。こちらで差し出すことが出来るものとは一体?
「一般論として聞いて貰おう。確かに我々の立場は強い。普通の人間では教えられない銀行の金の流れも知ることが出来る。それは依頼人が『本人』であるという点が重要なんだ。『本人』が私に依頼して来た場合、弁護士はその代理で動くことが出来、『本人』以上に知りたいことも知ることが出来る。例えば自己破産だ。自己破産は聞いたことは?」
「最近、週刊誌などに載っていることは知っています。借金の返済を免れる手立て…ですよね?」
グレイスにいて気軽な会話を楽しんでいる杉田弁護士とは別人のような真剣な顔だった。
もっとも、祐樹も同じような顔をしているに違いない。香川教授は黙って二人の会話を聞いている、但し真剣な眼差しで。
「そうそう。自己破産手続きは弁護士か司法書士が普通は行う。その手続きの前に『本人』の収入、そして借金がどれほど有るかを調べなければならない。そして返済能力がないとの証明を裁判所に行うことになる。その課程で知り得た『本人』の銀行口座の残高や借金の残高は守秘義務があるので『他人』には漏らすことは出来ない」
「やけに、『本人』と『他人』にアクセントを置いて発言なさいますね…」
杉田弁護士の普段の会話を知っている祐樹は気付いた。にんまりと杉田が笑う。肯定の笑みだった。
それを見ていた香川教授がポツリと言う。
「つまりは『本人』が先生に依頼すれば応じて下さると…そういうわけですか?」
黙って杉田は笑顔を浮かべる。
「『本人』であるかどうかの確認は、実際はチェックがとても甘い。その星川という女性と私は面識がないから、『星川』と名乗る女性が印鑑を持って事務所にやって来れば、その女性を『星川』だと私は思う。そして、代理人として、銀行やクレジット会社に問い合わせ及び開示請求を行う。内容証明郵便でクレジット会社や銀行に問い合わせをし、その開示請求は私のところに届くという寸法だ。ただし、開示請求が確実に行われるのはクレジット会社のみで、銀行は開示請求に応じるかどうかは分からない。銀行の判断に任せて行われているのが現状だ」
「しかし、銀行やクレジット会社は当然ながら本人に聞き合わせをするでしょう?住所などは登録されているのだから」
自分が銀行やクレジット会社と契約した時のことを思い出して、祐樹は素朴な疑問をぶつけてみた。杉田弁護士は自信に満ちて言う。
「それが実は違う。代理人になった瞬間からは、窓口は私になる。銀行やクレジット会社からの通知は私のところにしか来ない」
「では、情報開示されているかどうかも『本人』には分からないというわけですか?」
「そうだ。その情報に基づいて自己破産するかどうかを決めるのも『本人』なので、途中で気が変わったとか、予期しない収入が有ったからという理由で自己破産手続きをしない人間も時には存在する…かもしれない」
祐樹にも杉田弁護士が示唆していることは分かった。要するに「星川」という印鑑を持った女性が依頼人になれば処理してくれるということなのだろう。取引材料になるもの…と考えてフト思いついた。
「研修医の私にはベットコントロールする資格は有りません。しかし、教授ならば出来ますよね。特別病棟だって、付属のガンセンターにだって」
「ああ、それは出来る…。けれども、本当にそんなに簡単に情報が分かるものなのですか?」
杉田弁護士は皮肉な笑いを浮かべた。
「私も個人的にはどうかと思うのだが…それが実状だ」
「先生はストレスの多い仕事をされていますから、万が一病気になった時に万全の上にも万全の治療を行う…というコトを確約するという教授の約束はどうでしょうか?」
「それは魅力的だな」
祐樹は隣の香川教授の顔を促すように見た。
しばらくの沈黙。それは彼が目指している平等な医療と、「特別」を作り出してしまうことへの葛藤だろうな…と思う。
彼は自分の顔を縋るように見詰め、静かに口を開いた。
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