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第五章 第23話
「こちらからのご相談なのに…すみませんが田中先生と二人きりにして戴けませんか?」
杉田弁護士は気を悪くした様子もない。気さくに立ち上がった。
「では、あちらのウエイティング・バーのようなところで呑んで来る。相談が纏まったら仲居さんにでも声をかけてくれ」
そう言って、和室での作法通りに個室を後にした。
二人きりになると、教授の唇がわななくように震えているのが分かる。そして途方に暮れた眼差しも…。
こうなったら彼が話し出すのを待ったほうがいいと判断して、彼の白皙の顔を半ば見惚れていた。
「…どうしよう…祐樹…患者さんには区別をしたくないと思って日本に帰ってきたのに…」
途方に暮れたような、あるいは先生の言葉を待っている小学生のような口調だった。
「そうですね…教授でも星川看護師の交代要求は、手術室の看護師には通じません。
病状だけで手術の順番を決めるのはとても素晴らしいことです。特診患者を優先しない理念は本当に素晴らしいと思いますよ。
ただ、この病院には教授の足を引っ張りたがっている人間が沢山居ることも考慮に入れなくてはならないと思います。
こんなに若くて教授のポストを手にしたのですから、医局内にも、そして他の教授の嫉妬も買っている。回り中、敵だらけと言っても過言ではないですね」
彼は反論せずに長い睫毛を伏せて祐樹の言葉を聞いている。
「教授の理念は素晴らしい。しかし、術死のリスクが顕在化している今、一番重要なことは星川看護師を手術室から追い出すことだと思いますが…。
それに、着任直後と比較すると、教授の斉藤医学部長からの評価は下がっている。それは何故か分かりますか?特診患者を優先して手術しないからです。
こんな時期に術死が起ってしまっては、取り返しがつかなくなる」
どうやら全部図星だったらしく目を伏せていた教授の下睫毛に涙の小さい粒がキラリと光っている。
「そうだな…祐樹の言うとおりだ。私は幸い、患者さんを殺したことはない…が、『殺してしまったらどうしよう』という強迫観念に駆られる。夜中に悪夢を見て飛び起きることもある。今、自分の理想を追い求めて術死が起ったらと、そう思うと…」
感情が激してきたのか、涙の粒が大きくなった。横に座った教授の透明な雫を唇でそっと吸い取る。
唇で彼に触れていると、全身が小さく震えていることに気付く。和室に正座という抱き締めるには不利な条件だったが、膝立ちで少し彼の方に近付き、力いっぱい抱き締めた。震えが止まるように。
彼の身体は一瞬強張った。が、直ぐに彼の手も背中に回る。骨がきしるような力で抱き締めると彼の震えは止まった。が、まるで何かから逃れるような切羽詰った顔をしている。そっと唇に口付けを一つ落とす。たまらなくなって彼の薄紅色の唇を貪った。息継ぎのために唇を少し離すと二人の呼吸までもが熱く湿っている。
「杉田弁護士の提案に乗ってみましょう」
言い聞かせるように言った。
「……そうする…術死が一番怖い…。ただ、この裏取引が万が一表沙汰になったら…」
この人の手術の腕前は天才的だ。この病院になくてはならない人材であることに間違いはない。一方、自分は一介の研修医だ。機械の歯車の一つ…幾らでもスペアがある。
「もし、そうなったら…全ては僭越な第一助手が勝手に暴走したまでのこと。教授は何も知らなかった…」
耳元で囁くと驚いたかのように身じろぎする。
「それでは余りにも…祐樹に悪い」
「いえ、教授はこの病院にはかけがえのない存在です。一介の研修医とは比較にならない」
本当にそう思っていたので耳元で真摯に告げる。普段よりも低い声になっていたからか、それとも他の理由からか、彼の身体が痙攣するように震える。その動きが壮絶な色香を放つ。
座ったまま上半身を触れ合わせて、ただそうしていた。セックスした時よりもお互いが身近に感じられる。情欲ではなく、静謐な慈しみ合いと表現出来るような触れ合いだった。
「杉田弁護士の示唆を受ける。星川看護師が交代するまで第一助手は祐樹と柏木先生の二人交代で行く。
そして、万が一杉田先生の計画が露見したら、私が責任を取る。祐樹に罪を被せるわけにはいかない」
先ほどの乱れも忘れたかのようなキッパリとした声だった。
頷いたものの、イザという時は自分が杉田弁護士に身代わりの女性を独断で送り込んだことにしようと思った。
「ところで、『星川』さんは誰に頼みますか?」
「度胸があって、確実に味方してくれる女性…だな」
祐樹の脳裏に阿部師長が浮かんだ。多分教授も同じ人物を思い浮かべているに違いない。病院イチの度胸の持ち主なのだから。それに彼女なら大学病院の底意地の悪さも良く知っているので頼みやすい。それに特殊な勤務なので看護師仲間もそうは居ないので、万が一断られても噂はしないだろう。懸念するとすれば彼女の多忙さだけだった。
「彼女…ですか?ただ、救急救命室では彼女が居ないと回らなくなる可能性が…」
自分の肩口に顔を埋めていた彼が顔を上げた。
「その点は心配ない。北教授とは懇意だし、イザとなれば私が彼女の代わりをする。どおうせ定時上がりの仕事だ。救急救命室が忙しくなる夜間は空いている」
医師が――しかも教授ともあろう人が――そう言うのは余程の決意が有ってのことだろう。
ちなみに、医師が看護師業務をすることは実際には有り得ないが、医師免許は全ての医療関係資格で一番上だ。看護師が医師の業務をすることは法律違反だが、その逆の場合は法律上は問題ない。彼がそこまで腹を括っているのなら、自分も付いていくだけだと思った。
「仲居さんに、杉田弁護士を呼んで来て貰います」
そう言って、そっと彼の細く熱い身体を名残惜しげに離した。
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