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第五章 第24話
仲居さんに呼ばれた杉田弁護士が戻ってきた。少し上気した香川教授の顔を意味深に見詰めてから祐樹に雄弁な視線を投げかける。もちろん、知らないフリはしたが。
上座に座った杉田が姿勢を正して聞く。
「で、話は決まったかね?」
「はい。『星川』看護士を近い内に先生の事務所に紹介します」
「そうか。私はあくまでも善意の第三者として彼女の債務…つまり借金のことだな・・・整理のために代理人契約を結んだ弁護士として正規の活動をするよ。
もちろん、今夜話したことは口約束で生きていると思ってくれればいい。念書などは取らないから」
「分かりました。お約束致します」
香川教授が少しばかり不本意そうに言った。まだ自分の信念を曲げることに拘りがあるのだろう、それはそれで祐樹に取っては好ましいが。
「分かった。ただし、クレジット会社の方は慣れているから簡単にデーターを送ってくるだろうが、銀行は各銀行によって対応が違うのが現実だ。彼女の取引銀行は?」
テキパキと尋ねられ祐樹は穴に気付く。銀行などいくらでもある。彼女が複数の銀行に口座を持っていても不思議ではない。
「それが…分かりません」
「分からないなら、内容証明を送りつけようがないのだが…」
困ったように顎を撫でて杉田が言う。
「メインバンクは多分分かります。並行して他の銀行に取引口座がないかどうかを調べます。もしメインバンクに入金されていれば、調べるのに所要時間はどのくらい掛かりますか?」
教授が言った。職業柄か切り替えが早い。もう普段通りの彼だった。
「メインバングはどの銀行かね?」
「UFJ銀行の○○支店だと思います」
何故分かったのか、少し考えて祐樹も悟った。あまりにも身近過ぎて考えもしない答えに香川教授が気付いたのは、最近彼がその銀行に口座を開いたからに違いない。
自分達の勤務先では事務方の便宜の良さを優先すべく、その銀行の大学病院最寄の支店に口座を開くことが義務付けられている。そこに給料が振り込まれる仕組みだ。
「UFJ銀行か。あそこは確かガードが甘いわりには、振込みが大金の場合本人確認するシステムのハズだ。今話題の振り込め詐欺対策に本腰を入れているからというポーズだからな…」
香川教授が興味深そうに聞く。
「ガードが甘いとは?」
「弁護士に対しては、情報提供を惜しまないという点でガードが甘い。しかも、振込み人に対しては身分証の提示を求めるシステムだ。今、社会問題になっている振り込め詐欺対策を本腰入れて撲滅しようと…まぁ、これは銀行側のPRも兼ねてのことだろうが…100万以上の振込みの場合、係員が漏れなくチェックするという仕組みになっている。」
「では、偽名では振り込めないと?」
「そういうことだ。で、私が内容証明を送りつけて…通常なら『二週間以内に回答を』と迫るのが普通なのだが…」
教授の顔が曇る。万が一U銀行以外の口座で取引をしているならそれも調べなければならない。それに、手術は土日を除く毎日行われ、一日二例だ。調査が遅くなればなるほど術死のリスクが高まる。教授の神経をすり減らす事態も…
「その二週間というのは何か根拠があるのですか?法律的に?」
堪り兼ねて祐樹が口を挟んだ。
「いや、そんなものはない。ただ我々の常識的な要求だよ。期限を切るのに二週間は頃合いだから」
「でしたら、依頼人の都合に合わせて早めたりは出来ますね?」
「もちろん、もちろん」
「では、明日、『星川』看護師が依頼に行く前に内容証明郵便に『期限は1週間』と文書を作成して頂けませんか?こちらの手術も綱渡りなのです…」
「本職の仕事は代理人の利益のために動くのがモットーだ。1週間とは言わず5日以内と区切ってもそれは構わない」
祐樹は教授の顔を見た。彼が頷くのを待ってから、
「ではそれでお願いします」
そう言って頭を下げた。横を見ると教授も頭を下げている。柔らかそうな髪が揺れていた。
その銀行がビンゴであれば…と切実に願った。早く証拠を握りたい。
杉田弁護士は大振りの書類入れの鞄から紙片を教授に渡した。
「これが、代理人契約書。それに署名捺印をして『星川』看護師に持って来るように伝えておいて欲しい。弁護士報酬は、教授に請求する。それでいいかな?」
「はい。構いません。ところで報酬はどの位用意しておけば?」
教授は一介の研修医である祐樹と違って高給取りだ。その上彼にはアメリカ時代の貯金もあるだろうから、莫大な金額でなければ支払能力は有るだろうと思った。
「弁護士報酬は、法律の改正で一律ではなくなった。交渉次第ということになる。
で、この件は、ここの支払いで結構だ」
高級そうな店とはいえ、祇園のなだたる御茶屋さんではない。しかも舞妓などは呼んでいない。――といっても、この三人は女性には興味がないのだが――支払いはしれているだろう。
「それだけ…でいいのですか?」
驚きに目を丸くして教授も言っている。
「その代わり、運悪くガンや心臓病になった時は宜しく頼むよ」
「はい。それはお約束致します」
キッパリと言う教授を見て、杉田弁護士は満足そうに笑ったが、腕時計を見て慌てたように言う。
「明日は、9時までに名古屋高裁に出廷しなければならない。これで失敬するよ。裁判は午前中に終わるから午後には事務所に居る。それまでに事務員に内容証明を書かせておく」
慌てて帰り支度をする杉田を玄関まで送って行こうと席を立った二人に杉田は言った。
「教授に見送られるほど偉くないのでね。田中先生だけ借りて行くよ」
そう言って祐樹を目線で促した。教授はその言葉に従って、席に着いたままだった。
二人して廊下を歩く。
「さすがグレイスでも狙っている人間が多いだけはある。清純で清潔な感じのいい男じゃないか…。田中先生が惚れ込むのも分かる…な」
「先生こそ、目を付けられたのでは?報酬がここの支払なんて破格ですよね?」
杉田は笑顔で言った。
「こんな中年男からすれば、彼は高嶺の花だ。見ているだけで満足だよ。言い寄っても彼は落ちないだろう。しかも、田中先生に首ったけなのは見ていて分かる。」
確信に満ちた最後の言葉に少しだけ救われた。杉田弁護士はこの世界では百戦錬磨だ。
が、彼からは愛の告白めいた言葉を聞いていない。それだけが不安だった。
部屋に戻ると、教授は1人で日本酒を呑んでいた。白い頬がアルコールで桃色に染まり自分を魅了して止まない。
隣に座って、唇を合わせる。彼は抵抗せずに、唇を弛め祐樹の舌を誘っているかのようだった。白いエナメル質の歯を愛撫し、口蓋を舐めた。実はここも性感帯だ。
薄目を開けると彼の頬がますます紅くなっている。このまま押し倒したい欲求に駆られたが、昨晩も交わった身体だ。彼に負担をこれ以上掛けたくなくて、涙を呑んで引き下がった。唇を離すと銀色の液体が二人の唇を繋いでいる。
自分を鼓舞するようにキッパリと断言した。
「反撃開始と行きますか」
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