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第六章 第1話

 アルコールは摂取しているハズなのに、頭の芯は醒めていた。多分、祐樹も自分の専門外の話を聞いたことで緊張していたからかも知れない。  香川教授はダイナーズカードで支払を仲居さんに頼んでいる。カードを渡すと、和服姿の仲居は、カードがダイナーズであることに気付き、特上の笑顔を浮かべた。このカードは、他のクレジットカードよりもステイタスの高い人間しか持てないことを知っているのだろう。 「女将がご挨拶したいと申しておりますので、しばらくお待ち下さい」  そう言って、抹茶と干菓子を置いて出て行った。  教授は、抹茶茶碗をお作法通りに持たずに一口飲む。 「このお茶は日本茶とは味が違うのだな…。しかも茶碗の形も違う…。本で見たことはあるが、実際に目にするのは初めてだ。  意外そうに小さく呟く。おや?と思った。祐樹もそんなに詳しい方ではないが、地元京都の料亭などに先輩医師たちに連れて行かれたこともあり、お抹茶の飲み方くらいは見よう見真似で知っている。  香川教授はこの街出身だ。この街では、ピアノなどのお稽古事よりも「和」のお稽古事が富裕層では優先される。 「もしかして、抹茶を飲むのは初めてですか?」  意外だった。彼の生い立ちは詳しく知らないが、金銭的に恵まれて育ったのだろうと漠然と思っていたので。 「初めてだが?」  何故そんなことを聞くのか分からないという顔で返事をされた。 「では、ご両親の意向でピアノなどの洋物を習ってらしたとか?」 「いや、習い事なんて夢のまた夢だったな…。習っているクラスメイトが羨ましかった…」  とても意外な返事だった。横に座っている彼の小指に自分の小指を絡ませる。相変わらず冷たい手の感触が気持ち良かった。指先の神経は、職業柄他の職業に就いている人間に比べて研ぎ澄まされている。触れた瞬間、彼の肢体にさざ波のような痙攣が走る。 「では、家庭教師とか予備校だけですか?…習い事と名前が付くのは?」  杉田弁護士が帰ってから、緊張が少し解けたようだ。絡めた小指を更に動かして薬指との付け根に辿り着かせて掌の性感を確かめるように動かしている。 「いや、私は生まれ育ちが裕福でなかったから…そういうのも一切ナシだ。ただ、成績を見込まれて、母が入院していた病院の院長先生にご令嬢との結婚を前提に金銭的援助は受けたことはあるが…」  祐樹の指の指の動きに呼吸を乱しながら言葉を紡いでいる。  ――病院長の令嬢との結婚?――  背中を氷が伝っていくような感覚に襲われる。咽喉がカラカラに渇いているのを自覚した。努力して普通の声を出した。 「その結婚話はどうなったのですか?」   そう突っ込むと、彼は目を伏せた。目を伏せると睫毛の影が教授の顔を彩る。アルコールで頬は少し上気しているので尚更。 「残念なことにそのお嬢様は高校三年の時に事故死された…。それで結婚話も白紙に戻った。援助してくれた院長先生は『自分の好きな医師になりなさい。援助した金額は返却しなくても良いから』と仰って下さったが…。アメリカから帰国して直ぐに院長先生を訪ね、援助分と利子を付けて返還はした…」 「祐樹は色々な習い事をしてそうだな…」  別世界の人間を見るように眩しげな視線が祐樹の瞳に当てられた。 「いえ…ウチの実家もお世辞にも豊かとは言えませんでしたから…。自分で勉強をしていましたよ…もちろん習い事なんて夢のまた夢でした」  そう呟くと、呆気に取られた顔をされた。 「そうなのか?…私はてっきり、祐樹は開業医の息子か何かと思っていた。屈託なくキャンパスを歩いていたので…私には眩しかった」 「いえ、実は…恵まれた人間というのに憧れて…外面だけでもそんな雰囲気を演出したいと思ったからです。若気の至りですが…」 「何だか似ている…な」  そう小声で呟く教授の声は嬉しそうな、意外そうな不思議な色合いを帯びていた。    障子の向こうに人の気配を感じて、そっと手を離す。 「この店の女将で御座います。香川教授にご挨拶をと思いまして」 「どうぞ…」  そう言ったのは教授だった。酔いが覚めたのか、いつもの平静な顔をしている。 「これからもご贔屓にお願い致します。何か失礼なことは無かったでしょうか?」  障子を開けて一歩中に入り扇子を置いて正式な挨拶をする。門外漢の祐樹が見ても綺麗な動作だった。きっと茶道か何かの心得があるのだろう。 「料理も美味しかったですし、仲居さんもとても良かった。これからは贔屓にさせて戴きます」  笑顔で教授は答える。確かに料理も仲居さんの態度も良かった。 「有り難う御座います。精進させて頂きますのでまたのお越しをお待ちしております」  女将を筆頭に数人の仲居さんに見送られて店を出た。 「病院に帰って、阿部師長に頼んでみることにする」  目的語が省かれていたが、「星川看護師」に化けてもらう件だろう。 「私もお供します」  即答した。昨夜から今日にかけて彼の肉体的・精神的疲労が気掛かりだったので。  彼の疲労のことを考えるとすぐにタクシーを拾うのが良いとは分かっていたが、もう少し彼と二人で歩きたかった。――我が儘だとは分かっていたが――  教授もタクシーに手を挙げることなく、祐樹の後に付い歩いて来る。 「阿部師長よりも長岡先生の方が星川看護師と年齢は似ているので適任では?それに彼女は教授絡みでは口も堅いと思いますが…」  沈黙して歩くのは何だか楽しかったが、教授がどう思っているかは分からないので質問してみた。 「長岡先生は、確かに有能な内科医だが…お芝居は出来ない。挙動不審な行動をする可能性が高い。杉田弁護士が医師御用達の弁護士というのは、教授会でも聞いたことがある。それなら事務所も大きいハズだ。事務員に不審を抱かれないように振舞うには度胸が必要だ。だから阿部師長にお願いしてみようと思う」  成る程な…と思った。祐樹も阿部師長の度胸は買っている。今頃は救急救命室で医師を怒鳴り散らしているに違いない。  歩いているうちに人気のない公園の傍を通りかかる。 「阿部師長に交渉に行く前に、勇気をくれないか?」  彼はそう言うと祐樹の手を引いて公園に入った。首筋に両手を回される。公園の薄明かりの下、彼の舌で湿らせた薄紅色の唇が誘うように少し開かれていた。  唇を落とすと、首筋に回った手の力が強くなる。  彼の呼吸を余さず吸い込むような情熱的なキスを贈った。彼は満足そうに咽喉声で応じている。  理性が飛びそうになる。

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