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第六章 第2話
いつまでもこうしていたら理性が保てない。
それに、教授も昨夜は睡眠不足のハズだし、今日は今日で手術を始め杉田弁護士との会食まで付き合わせた。
手術は一執刀医が行う例としては過密スケジュールだ。早く阿部師長のところに行って、返事だけでも聞いた上で、帰宅させるべきだと思った。
「いつまでもこうしていたいのですが…お疲れでしょうから早く病院に戻って用事を済ませて帰宅されたほうが…」
街灯の灯りが香川教授の潤んだ瞳を照らす。切なげに細められた切れ長の瞳が一瞬伏せられた後、唇が動いた。
「…そうだな・・・。明日も9時から手術だ。第一助手は祐樹を指名しておいた…宜しく頼む」
「それは願ってもないことですが…他の医局員から苦情は出ませんか?例えば山本センセ…いや、山本先生などから・・・」
「彼は、外科医としての天分に欠けている。外科医に一番必要とされるのは手先の器用さと胆力だ。他の科に移った方が彼のためでもある。佐々木教授は、私と同じく術者には指名していなかったのでは?」
そう指摘されて、初めて気付いた。
「そういえば…そうですね。執刀医が佐々木教授でなかった手術は記憶にないです」
「多分、佐々木教授も私と同じく根っからの執刀医だ。黒木准教授や柏木先生の腕前だけを頼りにしていたのではないかと推察する」
「成る程…そうでしたか…」
研修医という立場からは見えなかったことが解き明かされていく。
「早く病院に戻った方がいいですよ…ね」
「…ああ、タクシーを拾おう」
道路に視線を向けたまま、教授は思い出したように言った。
「…やっと、手ごろなマンションを見つけてもらったので、そちらに…引っ越した。電話番号を言うのでメモしておいて…くれない…か?」
「電話番号くらい、一回聞けば暗記出来ますよ?」
そうでなければ医師など出来ない。患者さんのバイタルなどを暗記するのも務めなのだから。
「祐樹の自宅の電話番号…教えて貰っていない…」
声が硬かった。
今の世の中、携帯電話の番号を知っていれば自宅の電話番号を知らなくても全く困らない。
教授がどうして拘るのか半分、分かった積りだが正解かどうかは分からない。
「今から申し上げる番号をメモして下さい」
「私も暗記は得意だが…」
途端に柔らかくなった声に微笑を誘われる。
お互いの電話番号を復唱して覚えた。忘れないように後でメモしようと思いつつ。
ちょうど通りかかったタクシーを止めて病院に向かった。
「マンションに引っ越されたのですね。最近ですか?」
「まだ、借りたばかりなので必要最低限の物しか置いていないが…それに契約してから殆ど帰ったこともない」
教授の忙しさは自分を上回るのかも知れない。祐樹は救急救命室で走り回っていた時、教授は手術の準備をして教授室で寝泊りしていたのかもと思った。
「本格的な引越しはいつですか?」
「決めてない…。それに私は自炊もする気が出ないし、家具などを買うような時間もないし・・・な…」
「そう…ですか。もし、本格的な引越し予定があれば仰って下さい。お手伝いに参りますよ」
「……分かった。その時は知らせる」
彼がどんなマンションを借りたか…もしくは買ったかを見たいと思った。彼のことだから病院に近い、そんなに高級ではないマンションか?と予想する。
タクシーが病院の夜間入り口に停まり、運転手が素早く車外に出て扉を開けてくれる。もちろん、運賃は支払った後だが。
運賃くらいは祐樹が負担しようとしたが、さっさと教授が支払ってしまっていた。
この人の機敏さには勝てないな…と苦笑してしまった。帰りのタクシー代くらいは自分が支払いたい。
IDカードを見せて職員用の通路を急ぐ。救急救命室では、心臓外科の手術と違い白衣を着るのが原則だ。静まり返った病院の中で唯一の例外は救急救命室なので、私服で行くのは憚られる。
「白衣に着替えて来ます」
教授は教授室に白衣を置いてあるハズなので自分のロッカーに向かおうとすると呼び止められた。
「白衣くらい、予備は私の部屋にあるが…」
「いえ、教授の白衣など畏れ多いです。後ほど救急救命室でお会いしましょう」
きっぱりと言い切って自分のロッカーに向かった。教授室で二人きり、しかも今は夜だ。教授室の並びは全て無人だろう。自分が何をしでかすか、自制心に自信は…ない。
救急救命室だけは昼間以上に活気がある。といっても決して好ましい活気ではないが。スタッフ用の入り口から入って行くと阿部師長が白衣を紅に染めて開胸心臓マッサージの最中だった。
「OK。心臓振れた。戻った!下半身血流ストップ。大腿骨骨折の整復、伊藤先生お願い」
そう言って顔に付いた血液を手で拭いている。阿部師長の言葉を受けて医師と看護師が患者に張り付いた。
「あら?田中先生…今夜はシフトから外れていたわよね?」
意外そうな声を掛けられた。当たり前だろうが。
「ええ、実はお願いが…」
「お願い??見ての通り、バイクの事故と飛び降り自殺と広範囲の熱傷でてんてこ舞いなんだけど!容態が安定次第病棟に上げないといけないし。そんな暇、ないわよ!」
「お手伝いします。トリアージレッド――緊急一番――はどれですか?」
「熱傷患者ね。Ⅲ度の火傷」
「バクスター法で対応…で良かったですよね?」
「正解。ちゃんと数式覚えている?」
「ええ、もちろん」
続けて数字を上げる。阿部師長は満足そうに頷いた。
「香川教授もすぐにいらっしゃると思います。これは詳しくは香川教授から聞いて下さい」
そう言い捨てて治療に掛かる。阿部師長が目を丸くする。救急救命の北教授ではなく、香川教授が何故ここに?と目が語っている。
が、説明している暇はない。扉が開いて彼のしなやかな身体が白衣の裾を風になびかせて機敏に部屋に入って来た。それを視線の端で捉える。
熱傷患者の衣服が看護師によって切り裂かれるの待ちながら阿部師長と香川教授が彼女の専用室に行くのを見送った。
バクスター法は臨床医としてはそれほど手のかかるものではない。点滴の分量さえ間違えなければいいことだ。すぐに終った。殆ど同時に香川教授と阿部師長が姿を表す。
「田中先生、君から詳しい説明をして貰えないだろうか?」
「私から…ですか教授?」
「だって、香川教授の話が長くなりそうなんだもの。外科医らしく端的に話してはくれるけれども、ね。詳しく聞かないといけない種類の話なのは分かった。けど、私はそんなにヒマじゃないの。病棟に上げるためのベッドコントロールはナースでは主任以上の資格が必要。もちろん研修医の田中先生も資格ナシ。
今日は香川教授のサインでベッドコントロールをしてもらうしかないじゃない。それに治療も出来る。一石二鳥だわ。
香川教授の指示なら北教授も文句は出ないハズ。今日は私しかベッドコントロール出来ないのだから…話を詳しく聞くにはそれがベスト。分かった?」
指示を仰ぐように香川教授の顔を見ると苦笑した顔で頷いている。普通は心臓外科の香川教授が救急救命の北教授の管轄を侵害すると越権行為になるが、幸いというか、北教授は荒っぽい救急救命が専門にも関わらず性格は温和な上、香川教授のことを買っている。クレームには発展しないだろう。阿部師長の説得は自分がするしかなさそうだ。
香川教授に「了解しました」という意味の目配せを送る。彼は雄弁な眼差しで「頼んだ」と返してきた。
「説明しますから、師長室に行きましょう」
そう促した。
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