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第六章 第22話
点滴と輸血――本来なら貧血程度で輸血などはしないが、阿部師長も香川教授の仕事のハードさを良く知っているのだろう――で、知らない人間が見れば健康そうに見えるようにはなった。祐樹が持ってきた使用済みの注射針などは救急救命室で処分してもらうように頼んで部屋を後にした。
教授回診に先立って教授は自室に寄った。もちろん心配なので祐樹も付いて行く。
室内に入るり彼はワイシャツとネクタイを替えている。上半身が露わになった白い肢体の鎖骨の上にある赤い情痕が祐樹の目を釘付けにする。そんな視線を意に介さず(だか、敢えて無視しているのだかは分からないが…)青地に白いラインの入ったエルメスのネクタイを締め終えた。そのネクタイは爽やかな印象の教授に良く似合う。その上に白衣を羽織った。
「大丈夫ですか?点滴も一番早く終るように薬剤を最速で体内に入れましたし…それは、気分が悪くなる可能性が高いと医学書で読んだ覚えが…」
教授室に入り浸りなのが他の医局員に知れたらまた噂の的となるのは必至だった。が、彼を1人にするのは心許ない。教授も自分のデスクに座らず応接用のソファーに座った。祐樹の横の席だ。
「祐樹には心配や迷惑を掛けたのは申し訳ない。
ただ、今日は昨日良く眠れたので大丈夫だと思う。指導医を替える件だが、黒木准教授に話しておかなければならないので、呼んでくれないか?」
教授の治療をするために早く出勤したので回診まではかなりの時間がある。秘書は定時にしか来ないので教授室は二人きりだ。
「分かりました」
そう言って教授のデスクに行き内線電話で准教授を呼び出す。もちろん、教授の伝言として。
「直ぐにいらっしゃるようです」
「本当に祐樹には…」
責任感の強い教授はまだ謝ろうとしている。
「教授の容態が悪くなったのは我が医局のせいです。私も末席に連なる身ですから、看病するのは当たり前ですよ。
それはそうと、阿部師長が杉田弁護士に興味を持ったみたいです。いわゆる異性に関する興味のようです…」
努めて明るい話題を提供しようとそんな話をしてみる。
「そうなのか?杉田弁護士は誠実で人間的魅力もあるからな…ただ、性的嗜好が…。両刀なら良いんだが…」
「ただ、私のおぼろげな記憶からすると既婚のハズなのですが…ただ、他の人と間違って覚えているかも知れません…」
「阿部師長は多分に男性的な人だから…杉田弁護士が未婚で且つ両刀だったらお似合いかもしれないな…」
花が綻んだような微笑を浮かべて教授は言う。他人の心配が出来るのなら気分は良いのだろう。
「教授はお忙しいでしょうから、私の方で今日杉田弁護士に進捗状況を聞く電話をしようと思っています。その時についでに既婚か未婚か聞いておきます。杉田弁護士も阿部師長のことは気に入ったようですし」
「ふうん、そうなのか…?」
「ええ、昨夜の電話でそう仰ってました」
ノックの音がして、黒木准教授が入室して来た。自分達の向かい側に許可を得て座った。朝の挨拶と教授の体調の件を聞いて来た。どことなく憂い顔なのが気になる。
「どうしましたか?お顔の色が優れませんが?」
教授も同じことを感じたのだろう、そう質問している。
「それが…内科の今居教授の医局に所属する同期の友人が居るのですが…香川教授の手術は危なっかしいというウワサが囁かれていると…今居教授はそれを鬼の首でも取ったようにあちこちに吹聴している模様です」
今居教授は香川教授をアメリカから招聘した斉藤医学部長兼病院長のライバルだ。当然、香川教授に対しても含むところが有る。香川教授の失点は斉藤医学部長の失点にもなるので、追及は厳しいだろう。
「そうか…。ウチの医局から漏れた可能性があるな…」
白いしなやかな指を額に当てて教授が言う。
「私の指導不足でウチの医局が一枚岩でないことに責任を痛感します」
「いや、黒木准教授のせいではないです。全てが私の不徳の致すところです。その件は善処します。内科が外科の内情に口は絶対に挟めないので何か言って来るなら呼吸器外科やその他外科部門の教授でしょう…。まあ、外科でも医局が異なれば滅多に干渉出来ないのですが。
ところで、ここにいる田中先生は黒木准教授もご存知の通り、手術では卓越したセンスを持っています。黒木准教授さえ宜しければ、指導医を私に任せて貰えませんか」
黒木准教授は予想外の提案に瞠目して教授と祐樹を交互に見詰める。
「オーベン変更ですか?私は構いません。実のところ、学部生相手の講義の準備などで多忙ですので、願ったり叶ったりなのですが…ただ、教授のご容態も心配ですし…」
「それは多分、大丈夫です。田中先生は現在、受け持ち患者が居ないので2・3人回してくれないでしょうか?」
「承りました。病状を吟味して、2・3人をピックアップして回診後にお届けします」
「助かります」
「では、後ほど回診時にお目にかかります」
そう言って丁重に部屋から出て行った。小太りの身体ながら動作は相変わらず敏捷だ。
外科医は敏捷でなければ務まらない。その点医局長の畑中先生や助手の山本センセなどは失格と言えるだろう。それを分かっているから香川教授も彼らを手術に使わないのだと思う。
外科医を志した以上は手術をするのが本筋だが、医局長なら医局の取りまとめをする仕事があるのでそちらに専念してくれればいい。また大学病院では手術などをする臨床医の他に研究だけで生きていくことは充分可能だ。というよりは、研究内容を持っていないと大学病院では生き残れない。香川教授のように手術しかしない教授の方が異色なのだから…。
それなのに、彼らは教授の足を引っ張ろうとしているのではないか?という疑念が祐樹の胸の中にずっと燻り続けてきた。神業とも言うべき手術の腕前に嫉妬して。
しかし、その証拠を掴むには杉田弁護士の活躍を待つしかない。
「そろそろ、回診だな…」
時計を見て教授が呟いた。
「先に行きますね」
そう言って立ち上がろうとした祐樹の左腕を教授は細い指で掴み、驚いて動作を止めた祐樹に微笑みかけた。教授室のソファーに座ったまま彼の澄んだ眼差しが近付いてくる。その瞳がとても綺麗なので息を詰めて見詰めていると、至近距離まで近付いてきて睫毛が触れ合うようになった。それから彼は目を閉じて、唇を重ねてきた。
重ねるだけの口付けが終ると、唇を少し離して震える小さい声で呟く。
「これが正しいやり方なのだろう?」
「そうです。一回で良く覚えましたね」
「ん、少し緊張した」
「緊張したから震えているんですよね?」
悪寒の可能性も有ったので敢えて突っ込む。
「そう…だ」
「では、回診の時に緊張しないためのおまじないです」
そう言って彼の幾分細い肩を抱いて、呼吸を奪うキスをした。彼の白衣からは清潔な洗剤の香りと僅かな消毒液の匂いがした。
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