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第六章 第21話
「ああ?あれ?とっても簡単なコトなのよ。その人に成りすまして行くのだから、周辺情報も持って行った方がイイと思ってね。ハンコだけではなく…」
言われてみればその通りだ。
「でもそんな情報を持っているとは…」
個人情報保護法が施行されて以来、病院も過敏とも言える個人情報対策を講じて来たことは知っている。
阿部師長はニンマリと笑った。
「田中先生に言ったことはなかったっけ?星川看護師はウチに引っ張りたかった人材なのだけど…本人にその気がないのでその話は流れた…。但し、彼女の経歴は先に私のところに上がって来てた。当然でしょう?
その書類を見て判断するのは師長権限なのだから。当時は、履歴書と共に自動車の免許書もコピーされて添付されてた。
今ではどうか知らないけれども、当時は本籍地なんかもバッチリ記載されてたわよ。で、長岡先生の遅刻のお陰で、古ぼけたファイルの中に星川看護師の個人情報が記載されていることに気付いて探したらやっぱり出て来た。だからそれを持って杉田弁護士事務所に行ったわけよ…」
成る程、と思った。個人情報保護法施行以前の情報が阿部師長の地層のように堆積している。その中のファイルの中に存在していたらしい。
「それにしても、教授の容態は大丈夫そうね…本当は救急救命室に来る程のものではないけれども、彼の体調不良はひた隠しにしないといけない部類だから…密室性が高いココが一番だと田中先生も考えたのよね?」
語尾は疑問ではなく確信だった。この人には敵わないな…と思う。
今朝のこの部屋はいつもの戦場めいた忙しさはなく、時間がゆっくり流れている。
「今朝は患者さん、運ばれて来ませんね」
「ウチは、特殊な部門だからね。救急患者が運ばれて来るのは『来て欲しくない』と思う時に限ってどっと押し寄せてくるものなの…。それよりも、田中先生と杉田弁護士ってどういう知り合い?」
返答に詰る。まさか本当のことを言うわけには行かない。
「行きつけの飲み屋でたまたま知り合いました」
阿部師長の目が妖しく光る。
「それだけの知り合いなのに、こんな危ない橋を渡るマネを良く引き受けてくれたわね。それに田中先生は飲みには行くけど、そこいらの居酒屋にしか行ってないというのは看護師が皆言ってる。杉田弁護士が居酒屋に足を踏み入れるタイプでもなさそうなんだけど…杉田弁護士は香川教授のことも良く知っている感じがしたし…」
これ以上「どういう知り合いか?」と突っ込まれるのは避けたかったので話題を微妙にずらす。
「阿部師長こそ、杉田弁護士に興味を持たれているんですか?」
「やぁね…無粋なこと聞くもんじゃないわ」
笑顔を浮かべて言う。彼女が笑顔を見せるというのも驚きなのに、瞳は艶っぽい色を宿している。
「そういえば、杉田先生も阿部師長のことを褒めてましたよ」
「えっ?」
絶句すると同時に頬を紅く染める。多分…と思う。しかし、彼は既婚者とちらっと聞いたことがある。
「ただ、杉田弁護士は既婚のハズですが…」
「そう…」
溜め息と同時に、水分不足の花芯のように首がうなだれる。
「ただ、確実ではありませんので、聞いておきましょうか?」
「お願い出来るかな?ただし、田中先生の貸しはこんなものではチャラにならないので、その積りでね」
チャラにしたかったのだが。ただ、阿部師長の貢献度は高い。仕方なく祐樹は頷いた。
その時、阿部士長の個室の扉が開いて教授と看護士が顔を見せる。
「検査結果は如何でしたか?」
「各種検査の数値はこれです」
若い看護師は、祐樹ではなく阿部師長に検査結果の用紙を見せる。
「香川教授はこの数値からどう読み解くかしら?」
阿部師長は悪戯っ子のような目をして教授に紙片を見せた。祐樹も覗き込む。祐樹の内科学の知識は国家試験に合格する前がピークだった。なので、数値だけでは分からない。香川教授は淡々と知識を披露する。
「疲労性貧血と、いわゆる栄養不足ですね」
「そうね。ゆっくり休むのが一番だとは思うけど、今の状態だとそれもムリ。あとは点滴と注射で乗り切るしかない。心労のあまり睡眠も取れてないのでしょう?」
「そうですね。昨日は処方して下さった薬剤のお陰で良く眠れましたが」
「なら、例の問題が片付くまでは同じ薬を続行する…ということで。田中先生、処方箋を書いてくれないかな?」
師長の方がいくら診立てに優れていても処方箋は書けない。医師のサインが必要だ。それに自分はココに勤務しているので祐樹のサインがあっても誰も疑わない。
「じゃあ、点滴を一番早いピッチで入れるわね。気分が悪くなったらすぐ言うコト」
阿部師長は教授を処置台に横たわらせ、鮮やかな手つきで静脈ラインを確保し、点滴の針を入れる。今後の参考に凝視して覚えようと試みた。
「昨日よりはマシになったと思うのですが…」
「マシになったと思うけど…ただ薬のせいで一時的に…かもしれないから…。田中先生が看病してくれてるんでしょう?当分は油断しないこと…。良い?」
「大丈夫です。しばらくは教授からは目を離しません」
祐樹が会話に加わると、阿部師長は大きく頷いた。
「その方がいいわね。田中先生は外科だから少し心配なんだけど。でも妙齢の女性の長岡先生に泊り込みの看病なんてさせられないしね。仕方ない。それと一番早いスピードで点滴入れているから、教授から目を離さないでね」
祐樹が横たわった教授に視線を落とすと、彼はかすかに微笑んだ。
大丈夫だとでも言うかのように。彼の強情な一面を知っているだけにずっと彼を見詰めていた。頭の隅でだけ阿部師長と会話する。
「長岡先生が、香川教授の婚約者ではないことをご存知だったのですか?」
「昨日、本人から聞いたわよ」
やがて点滴が終り、教授が立ち上がろうとした。
その時はバイクの自損事故の患者が入ってきていたので、祐樹が点滴の針を抜き、起き上がらせる。
「大丈夫ですか?ご気分は?」
「大丈夫…だと思う」
白い顔がより白く見える。教授総回診を素早くこなして早く帰宅させたかった。
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